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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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映画「動くな、死ね、甦れ!」

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 1989年に旧ソ連で製作された映画だという。翌90年のカンヌ国際映画祭で、新人監督賞に当たるカメラドールを受賞して注目されたらしい。日本初公開は1995年だったようだが、どんなかたちの公開であったかは判らない。映画館から足が遠のいていた頃だから、こういう映画があったこともまったく知らなかった。
 モノクロでスタンダードサイズというところがまず珍しかった。いまではテレビやパソコンの画面までみんな横長のサイズになってしまったから、この最も歴史ある基本のサイズというのは逆に新鮮な体験だった。映画を製作した時、監督のヴィターリー・カネフスキーは54歳だったようだが、初めて思い描いた通りの映画が実現しそうになったので、撮れるならどんな低予算でもかまわないとみずから申し出てこういうことになったらしい。そして54歳の新人監督が作ったのは、自分が生まれ育った極東の炭鉱町を舞台とした少年時代の物語だった。

 スーチャンという町は、調べてみるとウラジオストクの東方170キロにある町で、現在はパルチザンスクと名前を変えているようだ。第二次世界大戦直後のこの町には、ソ連国内の政治犯などを収容する矯正労働収容所をはじめ、日本人の捕虜収容所なども置かれて、これら収容者を炭鉱労働に従事させることで成り立っていた町だったようだ。本箱から富田武氏の「シベリア抑留」を引っ張り出して見ていたら、収容所一覧の中にスーチャンの名前があった。1947年2月の時点で、日本人が8157人抑留されていたと記されていた。
 映画の中に登場する日本人はこうした人たちなのだろう。ヴィターリー・カネフスキー監督は1935年生まれのようだから、1947年には12歳だったことになる。映画の中に、唐突に「炭坑節」や「よさこい節」の寂しい歌声が流れるのは、監督自身が実際に聞いて覚えていたということなのだろう。そして、映画の主人公となる男の子ワレルカ(パーヴェル・ナザーロフ)と女の子ガリーヤ(ディナーラ・ドルカーロワ)は、当時の監督と同じ12歳と設定されている。カネフスキー監督はこのスーチャンを舞台に、みずからの少年時代を投影させた物語を撮ろうとしているのである。モノクロ・スタンダードという形式は、これを物語るのに最もぴったりの容れ物ではなかったか。

 映画はまず、暗く殺伐としたこの町の喧噪状態を次々と写し取っていく。とにかくうるさい映画だという印象がまずあった。男も女もみんな怒鳴るように喋るのである。昼間からウオッカを飲んでいるのか、突然調子外れの大声で歌らしきものをがなり始める男がいたりする。どこにも平穏な場所などないかのような、そうした雑然とした状況にも一種諦めにも似た空気があたりに充満し、みんなその日その日を何とか生きるだけで精一杯のように見えるのである。治安も悪いようで、子どもたちはそうした大人たちの閉塞感に囲まれて、様々な鬱屈や反抗心を日々内側に溜めながら過ごしているようだ。
 アパートというか長屋というか、廊下を挟んで両側に何所帯も入居しているような薄汚れた建物の中にワレルカやガリーヤの住居があり、モノクロの画面に映し出されるそれは見るからに寒々しく色感が感じられない。時代を考えれば外の道路に舗装がないのは当然だが、それにしても地面はひどくでこぼこした感じで、あちこちが黒々とぬかるんでいる。人々の衣服は寒冷な気候に対応した厚手のものだが、仮にカラーで撮っても同じような暗い色調にしかならないだろうと思われる、貧しく質素なものばかりである。ああ、こういう絶望的なところで監督は生まれ育ったのかと、映画というのは否応もなくすべてを理解させてしまう。

 「動くな、死ね、甦れ!」という題名は原題のままのようだが、その意味はよく判らない。この町で、子どもは大人たちの間をしたたかに動き回り走り抜ける。点描される大人たちはそれぞれ生きることに必死なのだろうが、子どもにしてみれば納得できない理不尽なことだらけなのだ。ワレルカには母親しかいないようだが、その母親は稼ぐために男たちと関係を重ねるような、先の見えない毎日を送っているようだ。ワレルカはそれを仕方がないと感じながら、反撥する気持ちも消えない。
 彼の様々な悪戯や悪態は彼の屈折した反抗心の現れなのだろう。最初ワレルカは幼馴染みのガリーヤの邪魔をしたり、つっけんどんな態度を取ったりするのだが、彼女ははそんな彼と距離を取っているように見えながら、彼が困った場面になると急に近くに来て彼を救ったりしている。「守護天使のよう」とどこかに書かれていたが、なるほどなと思った。どのシーンだったか、彼女がワレルカの憎まれ口に対して「あんた、最低」と言い返す場面があったと思うが、こんな絶望的な状況の下にあっても、この映画は幼馴染みのこの2人が、初々しい「ボーイ・ミーツ・ガール」を実現していく物語なのである。54歳のカネフスキー監督は、2人の関係の微妙な変化を的確に見詰めていく。

 だが、学校の便所にイースト菌を撒いて、糞尿を溢れさせたことがばれて放校処分になってしまうあたりから、ワレルカの居場所は急速に狭まっていく。ガリーヤの「守護」も簡単には届かない状況になっていく。さらに、鉄道線路にちょっとした細工をしたことで、思いがけず貨物の機関車を脱線させてしまうに至って、ワレルカはスーチャンの町にはいられなくなってしまう。刑事に目をつけられてしまった彼は、追って来たガリーヤを残して貨物列車に飛び乗り町を後にする。
 カネフスキー監督は少年時代、ストリートチルドレンだったと語っているようだ。ワレルカ役のパーヴェル・ナザーロフもストリートチルドレン出身の少年だったらしい。
 最初、ワレルカは離れて暮らす祖母の家を訪れるが、知らない男と仲良く暮らし始めている祖母を見て、そこにもいられないと感じるのである。彼もまた、ストリートチルドレンになるしかなくなってしまう。彼はある時、傷痍軍人の男に紹介されて、強盗団の男たちの使い走りのようなことを始める。だが、平気で殺人も犯す一味の連中は、子どもは秘密を守れないからワレルカを殺してしまおうなどと相談しているのである。でも、「守護天使」ガリーヤはやはり現れる。祖母のルートからワレルカの居場所を探し当てる。2人はナイフを振りかざす強盗一味の追跡を、すんでの所で振り切って逃げ延びるのである。

 結局、ワレルカはガリーヤとともにスーチャンの町に帰ることにする。また貨物列車に乗せてもらい、町の近くの森で降ろしてもらって、線路伝いに歩いて行く2人。この一連のシーンは非常に印象に残る。不器用な2人の心が次第に通じ合っていくのが判る。無蓋貨車の上で会話する2人、線路を歩きながら会話する2人。言葉は朴訥だが、2人の思いは確かにつながり始めている。背後から近付いてきた蒸気機関車を線路の両側に避けて、通過する列車の台車の下からそれぞれの存在を確かめ合う2人の笑顔は忘れられない。
 だが、この物語はハッピーエンドにはならない。通過する列車の客車の窓から、2人の姿を見つける不穏な男たちの姿が捉えられる。2発の銃声が聞こえる直前まで、ワレルカは誰かに教わったらしい愛の歌をガリーヤのために歌っている。その一節がプログラムのストーリーに採録されている。別にどうということもない歌詞なのだけれど、2人の運命を考えると切ないとしか言いようがないものである。「2人は愛し合っていた/まだ子どもだったけど/そして何度も誓い合った/お互いを忘れないと」。
 映画としてのエンディングはまだこの後があるのだが、この種のリアリズムが映画にとって必要だったのかどうかはよく判らない。あまりいい印象はないので、触れないでおく。

 チラシの上部に書かれた「theアートシアター」というのは、過去に一度だけ公開され、そのまま忘れられてしまった名画にスポットを当て、新たに再公開していく「運動」につけられた名称らしい。おかげで、知らずに見逃していた素晴らしい映画に巡り会うことができた。
(渋谷ユーロスペース、10月26日)
by krmtdir90 | 2017-10-29 18:18 | 本と映画 | Comments(0)

映画「突然炎のごとく」との再会

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 この映画は1962年のフランス映画である(製作は61年)。日本公開は1964年2月、東京オリンピックがあった年だ。そして、昔つけていた映画の記録ノートによれば、わたしがこの映画を最初に観たのは1965年1月だった。ノートには映画館名は記録されていないが、いまはなくなってしまった立川名画座だったはずである。学校のすぐ近くにあった映画館だ。わたしの映画館通いはここから始まったと言っていい。
 その後、1968年10月までの間に、わたしはこの映画を計6回観ている。最初の時、わたしはこの映画がよく判らなかったのだと思う。ところが、教室でこの映画を傑作だと断言するクラスメートがいたのである。対抗心だったろうか。こいつが判るのに、どうして自分には判らないのかと思った。自分が判らないのが我慢ならなかった。わたしはずっと天文少年としてやってきたから、いわゆる文系に傾き始めてまだ1、2年の「ひよっこ」だったのだと思う。
 どの時点でこの映画が判ったのかははっきりしない。だが、映画との出会い方としてはあまり幸福なものではなかったと思う。どこかでわたしもこれは凄い映画だと理解したのだと思うが、それは悲しいことだが「後からの理解」に過ぎなかった。

 ユジク阿佐ヶ谷でこの映画が上映されることを知って胸が騒いだ。ストーリーなどは覚えているけれど、長いこと観ていなかったから、いまなら映画としてはたぶんゼロの状態で観ることができるのではないかと思った。結局、49年ぶりの再会だったことになる。

 ああ、いい映画だなと素直に感じることができた。いろんなシーンがとてもよく判った。それだけでたぶん良かったのだと思う。若いころ熱中したフランス・ヌーベルヴァーグの中で、フランソワ・トリュフォーが特別な存在であったのはこの映画があったからである。今度こそ、それに100パーセント出会うことができたと感じた。
 ある意味で非常に省略の多い映画だが、ナレーションが作り出す心地良いテンポに乗せられて、物語の核心にストレートに入っていくことができた。ジャンヌ・モロー(カトリーヌ)とオスカー・ウェルナー(ジュール)、アンリ・セール(ジム)が作り出す危ういトライアングルを、こんなふうに美しく、こんなふうに軽やかに描き切ったトリュフォーの若い才能に打たれた。トリュフォーは1984年10月、52歳で亡くなるまで多くの映画を残したが(そのほとんどを観ていると思う)、やはりこの映画の素晴らしさは際立っていたのだと思う。
 いろんな印象的なシーンが甦ってきた。トリュフォーはカトリーヌの自由奔放さを実に冷静な目で繊細に描いていると思った。この映画に触発されて「気狂いピエロ」を撮ったと言われるジャン=リュック・ゴダールが、マリアンヌの奔放さを冷静に見詰められなかったのとは対照的である。トリュフォーは若かったけれど老成したところがあったのかもしれない。
 カトリーヌに同じように魅了されながら、それを受け止めるジュールとジムの違いを描き分けたことが、カトリーヌの解釈に幅を与えていると思った。

 細かいシーンに触れることはやめておくが、2つのシーンについてだけは書いておきたい。
 一つは、ジャンヌ・モローがボリス・バシアク(アルベール)のギターに合わせて歌う、シャンソン「つむじ風」のことである。最初に観た時からこれには完全に惹きつけられてしまった。今回インターネットの画像を調べていて、このサウンドトラックを収録したドーナツ盤のジャケット写真を発見した。これに確かに見覚えがあって、わたしはこれを買っていたはずだと思い出した。探してみたが見つからなかったのは、たぶん捨ててしまったのだろうと思った。
 いまはユーチューブで視聴することができるが、字幕付きは見当たらなかった。歌詞の翻訳は見つけたが、正確に訳され過ぎていて、字幕から感じたワクワク感が失われているような気がした。ジュールとジムとアルベールという、カトリーヌをめぐる3人の男性の前で、彼女がこの歌詞を歌うというのが絶妙だなと思ったのである。
 もう一つはラストシーン、火葬場のシーンがどうして必要なのか昔は判らなかった。すべてを終えて一人ジュールが坂道を下りていくところに、「つむじ風」の音楽が高らかにかぶさるのである。ここで、全部が必要な手続きだったのだと理解されたように思う。ここにある開放感はジュールのものと言っていいが、それは悲劇的には違いないこの映画の結末が、同時にこの上なく豊かな結末でもあったことを表しているのだと感じた。すべてを肯定してみせるトリュフォーの作劇が見事に表れたシーンだったと思う。
 なお、この「つむじ風」というシャンソンは、撮影中にボリス・バシアクがジャンヌ・モローのために遊びで作ったものを、トリュフォーが聞いていて即興的に映画の中に取り入れたのだという。トリュフォーの感性の鋭さが窺えるエピソードだと思う。

 今回、わたしは初めてこの映画を体験することができたのだと思う。長い道のりだったが、再見してよかったなと思った。
(ユジク阿佐ヶ谷、10月24日)
by krmtdir90 | 2017-10-27 13:08 | 本と映画 | Comments(0)

映画「サーミの血」

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 昔と比べて、現代は多様な外国映画に触れられる機会が圧倒的に増えたと思う。これは嬉しいことだ。知らなかった国や地域に生きる人々の様々な人生を、映画を通して知ることができるというのは素晴らしいことだ。

 この映画はスウェーデン、ノルウェー、デンマークの合作映画となっていて、映画の中で話される言語は南サーミ語とスウェーデン語である。スウェーデン語などまったく知らないし、南サーミ語などというものはその存在すら知らなかった。サーミ人と呼ばれる人々の存在も、彼らの生活や歴史、そして彼らが歌うヨイクという音楽のことも何も知らなかった。
 それはある意味仕方がないことで、別に恥ずかしいことではない。しかし、そういう知らなかったことを映画が教えてくれて、そこに描かれたことが、特殊だけれど普遍性を持っていると気づくことは言いようのない驚きとなる。2年前に映画館通いを再開してから、そういう映画にたくさん出会うことができた。この映画もそういう意味で非常に印象に残る映画だった。

 サーミ人というのはスカンジナビア半島の付け根のあたり、北極圏に広がるラップランドと呼ばれる地方で、主にトナカイの遊牧を生業とする少数先住民族であるらしい。映画が描く1930年代には、スウェーデンのサーミ人は分離政策の対象とされ、特異な人種的特徴を持った劣等民族とされて様々な差別を受けたようだ。スウェーデンの社会から排除され、サーミ人の子供たちだけが集められた小さな寄宿学校の日常が描かれる。
 14歳の少女エレ・マリャ(レーネ=セシリア・スパルロク)と妹のニェンナは、ここで様々の理不尽な出来事に出会いながら生活している。その一つ一つが、こんなことが行われていたのかと絶望的な気持ちにさせられることなのである。一つだけ書いておくと、エレ・マリャは成績も良く上の学校に進学したいと望むのだが、スウェーデン人の女教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げるのである。この教師が特別ひどい人間だったわけではなく、その時代と社会がそうした考えに覆われていたということなのだろう。この時代、残酷な人種差別はナチスドイツやアメリカだけにあった問題ではなく、世界各地に様々なかたちで根を張っていたのだ。

 このためスウェーデンでは、多くのサーミ人がみずからのアイデンティティーを捨て、生きるためにスウェーデン人に同化する道を選んだらしい。エレ・マリャが考えるのもその道である。この理不尽から抜け出したいという切実な思いが、彼女の鋭い眼差しや固く結んだ口許に強く表現されている。みずからもサーミ人の血を引いているという監督・脚本のアマンダ・シェーネルは、インタビューの中で「多くのサーミ人が何もかも捨てスウェーデン人になったが、私は彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました。この映画は、故郷を離れた者、留まった者への愛情を少女エレ・マリャの視点から描いた物語です」と語っている。
 この映画は、家族やすべてのものを捨ててスウェーデン社会に出て行こうとする少女エレ・マリャの、一途な思いに突き動かされた行動をたどっていく。そして、そのストーリーを「入れ子」として、これをサンドイッチするように、最初と最後に78歳になった彼女の姿を描き出す。いまはクリスティーナと名を変え、すっかり老婆となった彼女は妹ニェンナの葬儀に出るため、みずからが捨てた故郷に半世紀以上の時を経て帰るのである。その複雑で屈折した思いを映画は丁寧にすくい上げていく。最後に、人気の絶えた教会の棺の前で、今はなき妹の亡骸に許しを乞う彼女の姿をとらえるのである。

 映画は、スウェーデン人になった彼女がどんな人生を送ったのかはまったく描いていない。だが、あの時はそれ以外に考えられなかった(自分の生きる道はなかった)のだと自分を納得させながら、それでも、すべてを捨てなければそれができなかったことへの悲しみが、彼女の中で片時も消えることはなかったことが見て取れるのである。そのことが痛切に伝わってくるラストシーンだった。
(MOVIX昭島、10月18日)
by krmtdir90 | 2017-10-23 17:49 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ドリーム」

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 こういう映画には弱い。根が単純に出来ているから、一も二もなく感動させられてしまうのだ。まったく久し振りに、ストレートな共感だけで最後まで観終わることができた。ここに描かれた知られざる事実がまず驚きだったことがあるし、それを映画としてどう料理するかという点でも素晴らしかった。明るく軽やかな語り口が好感が持てたし、何より押しつけがましいところが少しもないのがいい。実話に基づきながら、それが一級の娯楽映画に仕上がっているところが見事だと思った。

 1957年10月にソ連が打ち上げた初の人工衛星スプートニク1号から始まった米ソの宇宙開発競争。最初はソ連が先行し、アメリカは1958年1月に人工衛星を成功させ、同年12月に有人宇宙飛行を目指すマーキュリー計画を発表して後を追ったが、その有人宇宙飛行も1961年4月にガガーリンを乗せたボストーク1号によってソ連が先に成功させてしまう。
 当時は米ソを頂点とする東西冷戦のまっただ中にあり、宇宙開発における優劣が軍事戦略面に与える影響はきわめて大きかった。1961年1月にケネディ大統領が誕生し、有人宇宙飛行でもソ連の後塵を拝することになった同年5月、ケネディは1960年代末までに人間を月に送り無事帰還させるという演説を行って、当面のマーキュリー計画を加速させることになった。映画が描くのはちょうどこの時期のNASA、ヴァージニア州ハンプトンにあったラングレー研究所での出来事である。

 当時のわたしは天文少年だったから、これら米ソの宇宙開発に関する出来事はテレビや新聞で逐一追い掛けていた。いまでもかなりいろいろなことを覚えている。だが、そうした表のニュースには出て来ないきわめて興味深い事実をこの映画は明らかにしてくれる。あの宇宙飛行の裏にこんなことがあったんだと、一々驚きながら観ていた。今にして思えば確かにそうだったなという幾つかの事実を、この映画は思い出させてくれた。
 一つは、この時代はまだコンピューターが実用化されてはおらず、宇宙飛行に必要な様々な計算はすべて人間の手作業で行われていたという事実。舞台となったラングレー研究所では、優秀な頭脳を持った黒人女性が西計算グループの名の下に集められ、「計算手」という役割で働いていたらしい。映画の主人公は、ここで働いていた3人の優秀な黒人女性である。
 もう一つ注目すべきことは、この時代のアメリカ社会においては、人種差別や男女差別はまだまったく(ほとんど)問題にもなっていなかった事実である。いや、問題にはなっていたのかもしれないが、社会の構造などにはまだ微塵の揺らぎも見られなかったという事実である。この映画はそうした状況下で、黒人であり女性であった実在の主人公たちが、みずからの能力と努力によって活躍の場所を広げていき、彼らの前に立ち塞がる壁を一つ一つ壊していく過程を描いている。

 この黒人女性3人がすごくいい。キャサリン役のタラジ・P・ヘンソン、ドロシー役のオクタヴィア・スペンサー、メアリー役のジャネール・モネイの3人である。
 彼女たちは常に明るくポジティブで、いろんな差別にぶつかって心が折れそうになっても何とか前に進もうとする。映画の中では三者三様の個性が上手にすくい上げられていて、それが素晴らしいアンサンブルを作りながら困難の中を駆け抜けていくのである。差別される当人たちは大変だったのかもしれないが、映画はそういう被害者的な面を過度に強調することなく、負けない彼女たちの姿に寄り添いながら、その行動的な毎日を好意的に追い続けるのである。共感で胸が震えたのは、その描き方の加減(方向性)が素晴らしかったからである。
 監督のセオドア・メルフィという人は、ともすればあざとくなりかねないストーリーを、そうならないように細心の注意を払って描いていると思った。研究所内のトイレが黒人・白人で区別されていて、新たに配属された特別研究本部に黒人用トイレがないため、キャサリンがその都度もとの計算グループの建物に走って行くところなど、変に色を付けた描き方にならないよう、ひたむきな彼女の意地と頑張りが自然に浮かび上がるように作られていたと思う。

 キャサリンの上司になるハリソン役のケビン・コスナーは儲け役だった。久し振りにスクリーンで再会したが、いつの間にかずいぶん年齢を重ねて、渋い役どころを力まずに淡々と演じていて好感が持てた。キャサリンの能力を高く評価するようになっていた彼が、トイレの件の理不尽さに思わず爆発してしまったキャサリンの訴えを受けて、所内のトイレを区別していた表示をハンマーで叩き壊すところが良かった。彼が言う「NASAでは小便の色はみんな同じだ」というセリフは爽快だった。
 ほかにもいろいろ印象的なシーンがあったのだが、鑑賞から日にちも経ってしまったので、細かく挙げることはやめておく。
 映画で描かれていたマーキュリー計画の3つの打ち上げ、1961年5月の「フリーダム7(セブン)」、同年7月の「リバティベル7」(以上は弾道飛行)、そして1962年2月、ジョン・グレンを乗せて地球を3周した「フレンドシップ7」のことはよく覚えている。コンピューターが本格的に導入されたのはこれらの打ち上げより後のことだったのだ。
 ついでながら、「エルネスト」で描かれていたキューバ危機が起こったのは1962年10~11月、調べてみると、人種差別撤廃を訴えるキング牧師の「I Have a Dream」の演説が行われたのは1963年8月だったようだ。
(立川シネマシティ2,10月17日)
by krmtdir90 | 2017-10-21 20:40 | 本と映画 | Comments(0)

ツィッター

 ツィッターを始めた。
 「六十の手習い」という言い方は広辞苑にあるが、「七十の」というのはない。まあ、いいだろう。必要があれば始めるということだ。

 枝野幸男がたった一人で記者会見を開き、立憲民主党を立ち上げたのは10月2日だった。ああ、よかったなと思った。
 数日後、立憲民主党のツィッターのフォロワーが10万人を突破したというニュースが流れた。驚異的な増え方だという。これは、わたしも始めなければならないと思ったのである。

 始めるのは簡単だった。アカウントは簡単に作れた。一応、ツィートの仕方とリツィートの仕方を確かめた。だが、当面こちらから何か発信したいことがあるわけではない。

 以来、立憲民主党の動向を毎日チェックしている。なるほど、こんなふうに使われているのかと新鮮な発見があった。新聞やテレビでは見えないものがそこにはあった。
 このところ毎日が面白く、ワクワクしながらスマホをいじっている。立憲民主党は伸びるぞという直感が、具体的なかたちで日々確かめられるのは素晴らしいことである。

 枝野幸男は信頼できる政治家だと思う。そのことが共感を呼び、それがツィッターによって日々広がっていく。立ち上げから2週間足らずの党が、あっという間に広範な支持を獲得している。
 昔は考えられなかったことが、いまでは可能になっている。逆に、信用できない政治家はあっという間に支持を失う。
 枝野幸男の街頭演説は、行く先々で凄い聴衆を集めているようだ。その様子は、ほとんどその日のうちに、立憲民主党のツィッターを通して映像などで見ることができる。

 政治家の演説に胸が熱くなったのは、この歳になって初めてのことだ。
 枝野幸男は人の悪口を言わない。他の党を批判しない。この国の首相をはじめ、いつの間にか悪口や批判ばかりの政治家だらけになっていたことに気付かされた(わたしも反省しなければならない)。
 「右か左かではないんです。上からか下(草の根)からかが対立軸なんです」とか「保守とリベラルは対立しないんです」とか、言われてみれば当たり前のことを、この人は実に判りやすく説いてくれる。立憲主義と民主主義の何たるかを、明快に語ってくれる。
 最後の訴えはいつも、「誰々をよろしく」でも「立憲民主党をよろしく」でもない。「一緒にやりましょう」というものなのだ。

 ツィッターを始めなければ、こうしたものに触れることは出来なかった。スマホという文明の利器は、今回わたしの直感に十二分に応えてくれている。
 このブログではいままで政治的発言を避けてきたのだが、枝野幸男の演説は一度視聴してみる価値があるということは言っておきたい。選挙権を得たばかりの若い世代に、是非聞いて貰いたい内容なのだ。この歳になって、わたしも枝野幸男に多くのことを教えられた。

 とりあえず、いまのわたしにとって、ツィッターは立憲民主党と枝野幸男の動向を知るためのツールであって、それ以上のことは考えていない。
 これを抜きにしてしまうと、自分としては、どんなことをどんなふうに呟けばいいのか、いまはまったく判らない。
 今度旅に出たら、ちょっと呟いてみようかなと思っているが、猫の具合もはっきりしないし、天気も良くないから、なかなか計画を立てる気分になれないのである。

 わたしのアカウントは、呟き始めたらみなさんにお知らせします。
by krmtdir90 | 2017-10-16 21:19 | 日常、その他 | Comments(0)

映画「笑う故郷」

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 何をしようとしている映画なのか、この映画の中で何が起こるのかといったことが事前にまったく読めない映画だった。「笑う故郷」という邦題(原題は「名誉市民」というらしい)もよく判らないし、コメディのような雰囲気は漂うのだが、そうとばかりも言えないような、何とも頼りない曖昧な気分で鑑賞し始めたのである。
 映画であれ小説であれ、多くの場合、そこに何があるのかということは始まる前にだいたい予想がつくようになっているもので、われわれはその見込みに従ってその中に入って行くのだと思う。予想が裏切られるケースでも、大枠としての予想の範囲は保たれているのが普通ではないだろうか。
 この映画の「先が読めない感じ」というのは、そういう意味ではあまり居心地のいいものではなく、何が起こるか判らない、どういうところに向かっているのかかなり経たないと判然としないという、そこがこの映画の面白さの鍵になっているような気がした。

 主人公はダニエル・マントバーニというノーベル賞作家の男で、そのノーベル文学賞授賞式の様子から映画は始まる。オスカル・マルティネスというアルゼンチンを代表する(らしい)俳優が演じているのだが、彼はタキシードを着用ぜずに登壇し、「この受賞は喜びであるとともに、作家としては衰退の始まりである」というようなスピーチをして、会場を一瞬気まずい沈黙に落としたりする。何やら不穏な雰囲気が漂う始まりなのである。
 ノーベル賞作家が主人公というのがまず人を食っているし、彼がなかなか一筋縄では行かない人物だというのも判るが、だからといってこの映画が何をやろうとしているのかは簡単には見えてこない。というか、どう料理するにしても簡単ではない人物設定を選んでいるので、どうやら彼に密着して、彼の人間像を露わにしようとしているらしいのは判ってくるが、何しろ相手は世界の文化と知性の象徴のような人物なので、仮にその俗物性を暴くというようなことを考えたとしても、そう安易にやれることではないのは判っているのである。とりあえず薄っぺらな仕掛けでは、ストーリーのリアリティはとても保てないだろう。

 授賞式の後、映画は一気に5年後に飛ぶ。どうやら彼はこの間、一冊の本も出していないらしい。にもかかわらず、いまも講演依頼や出席依頼などが世界中から続々と舞い込んでいるのである。彼は秘書を通じてこれらをすべて断り続けているようだ。スペインのバルセロナにある彼の豪邸で、彼はことのほか孤独であるように見えた。
 そんな時に舞い込んだのが、彼の故郷の町からの「名誉市民」の称号を授与したいという招待状なのである。彼はアルゼンチンの田舎のサラスという小さな町(架空の町のようだ)で生まれ育ち、20代でそこを飛び出してから、40年も一度も帰郷していないらしい。彼は故郷を捨てたということだが、そのサラスを連想させる町を小説の舞台にして、様々な人間模様(サラスに好意的なものばかりではない)を書いてきたようだ。最初は招待を拒否した彼だったが、少ししてふと行ってみる気になったというのがストーリーの始まりである。当然同行するという秘書を残して、彼は一人で40年ぶりの故郷に帰ることになる。

 映画はこのサラスでの彼と住民たちとのあれやこれやを描いていくのだが、図式的に言えば、世界最高の栄誉を自分のものにした世界の文化芸術の頂点に立つ男と、その出身地であることからそれなりの注目は集めたものの、それ以上は何の接点もない田舎町の、時間が止まったような閉鎖的で濃密な人間関係とのズレと対立といったものである。町の人々は最初は「名誉市民」として精一杯温かく彼を受け入れるのだが(彼もそれなりにしおらしい態度を取ってみせる)、次第にそれでは済まない状況が浮かび上がってくるのである。
 次々に登場してくる町の人々は、一見彼に好意的に振る舞っているように見えるが、奥の部分でどう考えていたのかは判らないのである。時間の経過とともに、つまり両者の接触が増えていくにつれて、町の人々にはどうもいろいろな思惑がありそうだというのが判ってくる。そして、それが見えてくると、このノーベル賞作家の中にずっと見え隠れしていた優越意識とも言うべきものと、住民たちの心の底にわだかまっていた複雑な思い(羨望とか嫉妬とか)とが、じわじわと不協和音を拡大させ、次第に大きな(決定的な)亀裂にまで発展していくことになるのである。そのありさまを、映画は観察するような鋭い(皮肉な)視線で描いていく。
 脚本:アンドレス・ドゥプラット、監督・撮影:ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン(共同)というアルゼンチンの作家たちについてわたしは何も知らないが、素晴らしい才能であるのはよく判った。安易な戯画化や一面的な決めつけに陥ることなく、登場人物たちをシビアに突き放しつつ冷静に見詰める視線は決して冷たくはない(一種のユーモアも漂うのである)。そのあたりの感じを、「まったく人間って奴は…」というチラシの小さな惹句が見事に言い当てていたと思う。

 ストーリーが実に巧みに組み立てられていて、あれよあれよという展開のうちに、それでも結局こうなってしまうんだよなという説得力があったと思う。そこのところが実にきっちり作ってあって(ネタバレはさせません)、いわば人間の悲喜劇といった趣のストーリーをしっかり構成していたことに感心した。登場人物一人一人が的確に造形されていて、大人のドラマにちゃんとなっていたと思う。ノーベル賞作家を何とも人間臭く(変な言い方だが)演じたオスカル・マルティネスは、ヴェネチア映画祭で主演男優賞を受賞したようだが、それが納得の快演だったと思う。
 最後のどんでん返しというか「オチ」は、主人公のしたたかさを感じさせるところではあるけれど、決して彼の側に立った一面的な描き方ではなく、皮肉で苦い笑いを伴う突き放した描き方になっていた点も秀逸だったと思う。なかなかスリリングで楽しい映画だった。
(岩波ホール、10月11日)
by krmtdir90 | 2017-10-13 18:13 | 本と映画 | Comments(0)

映画「エルネスト」

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 阪本順治監督の映画を観るのは2本目になる。「団地」はあまり面白いとは思わなかったが、この「エルネスト」は良かった。監督の力量が遺憾なく発揮された傑作ではないかと思った。
 昨日(10月9日)がチェ・ゲバラ没後50年の節目に当たるというので、新聞などにも小さな記事が載っていた。別にわたしはゲバラに心酔していたわけでも興味があったわけでもない。当時は南米の国々で何が起こっているのかといったことは、きわめて限られたニュースしか入っては来なかったのだと思う。キューバ危機(1962年)のことはおぼろげに覚えているが、その時どんな危機が迫っていたのかを理解していたとは言えないだろう。
 阪本順治監督はこの映画に何らかのメッセージを込めたわけではないと思う。フィルモグラフィーを見る限り、この監督はまったく一貫性のない多彩な映画を撮っているようなので、恐らく今回もただ面白そうな題材だと思っただけだったのかもしれない。この監督にはたぶんそれだけで十分だったのだろう。確かに題材としては非常に興味深いが、同時に実際作るとなると大きな困難の伴う題材だったと思う。それにもかかわらず、実に見事にそれを作り上げていることに驚きを感じた。きわめて異色の青春映画になっていると思った。

 年表によれば、チェ・ゲバラがフィデル・カストロらとともにキューバ革命を成し遂げたのは1959年1月1日だったらしい。その後、ボリビアの軍事独裁政権打倒のためボリビアでゲリラ戦を開始するのだが(1966年)、その時このゲリラ部隊に加わり、ゲバラの下で戦った一人の日系ボリビア人がいたというのがこの映画の題材である。フレディ前村ウルタードというのが彼の名前で、鹿児島出身の日本人移民の父とボリビア人の母との間に生まれた2世だったようだ。この青年を、オダギリジョーが全編スペイン語を喋って演じている。
 フレディ前村は医師を志していたが、思想的背景によりボリビアでの大学進学の道を閉ざされ、革命後間もないキューバのハバナ大学医学部に奨学生として受け入れられる。映画はハバナ大学の寄宿舎に入った彼の学園生活を丁寧に追いかけている。ここを描くことがこの映画の主眼であり、寡黙で正義感溢れる一人の若者が友人と交流したり女性と惹かれ合ったりしながら、自分の生きる意味を次第につかみ取っていく充実した日々を描いていく。そうした中でゲバラとの出会いは数回に過ぎないが、それが彼に決定的な憧憬と影響をもたらしたことが描き出されている。
 阪本監督の演出は非常に抑制が効いていて、多くを語らないにもかかわらずフレディの一途な生き方と思いが浮かび上がるようになっている。オダギリジョーの抑制された演技も素晴らしく、演技演出ともに好感の持てる語り口の映画だと思った。

 冒頭、1959年7月、チェ・ゲバラがキューバ使節団の団長として日本を訪れ、予定になかった広島平和記念公園や原爆ドーム、原爆資料館などを訪問した経緯が紹介されている。慰霊碑に献花した後、そこに書かれた文字の内容を質問し、「過ちは繰返しませぬから」に「主語がない」と指摘するシーン、そして資料館を見た後、「君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないんだ」と発言したシーンなどが描かれている。
 本編とは直接つながらないエピソードなのだが、わたしはゲバラが広島を訪問していたという史実も知らなかったし、そこでこういう言葉が発せられたことも知らなかった。だが、日本の映画人である阪本順治監督がキューバとの合作によってこの映画を撮ろうと考えた時、この事実をプロローグとして置きたかった気持ちはよく判る気がした。
 本編の方で、医学生のフレディが初めてゲバラと出会い、「あなたの自信はどこから来るのか」と質問した際のゲバラの答え、「自信ではなく、怒っているんだ、いつも」という言葉と、このエピソードは響き合っている。ゲバラは続けて「怒りは憎しみとは違う。憎しみから始まる戦いは勝てない」と告げる。フレディがゲバラの人間的魅力に捉えられてしまった瞬間である。

 日本人は確かに原爆慰霊碑の言葉から主語を曖昧にし、怒りを後退させることで戦後を生きてきたのかもしれない。しかし、この映画が描くのは日系人とはいえ日本人の生き方ではない。よくここまでと思うくらい徹底した作り方で、ボリビア人、アルゼンチン人、キューバ人らの生き方を描くことなのである。そういう意味で、この映画がどこまでそれをやれていたのかは現地の人々にしか判らないことだが、少なくとも日本映画とは明らかに異なる不思議な手触りの映画になっていたのは確かなことだと思われる。
 日本映画ではない、外国映画を観るような感覚がずっと続いていたように思う。というか、阪本順治という監督がキューバを舞台にして撮った映画が、こんなふうにインターナショナルな感性でこの国に馴染んでしまっていることが驚きだったのである。外国に行って、外国人の俳優と言葉を駆使して、こういうふうに撮れてしまう監督はなかなかいないのではないかと思った。それとも、いまの映画界ではこの程度のことは当たり前のことになっているのだろうか。

 「エルネスト」というのはチェ・ゲバラのファーストネームであって、フレディ前村がゲバラ指揮下のゲリラ隊員になる時、本名を捨てて名乗ることになった新たな戦士名である。ゲバラから「エルネスト・メディコ」(メディコは医師の意)という名前をつけて貰うシーンがあった。同じ医師の出身だったゲバラは、この真っ直ぐな気持ちの青年に好感を抱いて、みずからの名前を与えたように描かれていた。これを聞いて目を輝かせるオダギリジョーの表情が凄くいい。
 このあと、ボリビアに入ってからのゲリラ戦の様子と、ボリビア軍に捕らえられて処刑されるまでの経緯は、映画全体のバランスからするときわめて短い描き方になっている。この映画はそうしたシーンをこれでもかと見せる映画ではなく、ゲリラ戦士「エルネスト・メディコ」が誕生するまでの、その真っ直ぐな生の軌跡を描こうとしたものなのだろう。そして、それは非常に成功していると思った。エンディングのストップモーションも印象的だった。
 例によって事前知識がまったくない状態で観たから、この映画がそういうものであったことが、意外だったが非常に好感が持てた。いずれにしても、終始違和感なく面白く観ることができた映画だった。掘り出し物、と言っていいような気がした。
(立川シネマシティ1、10月7日)
by krmtdir90 | 2017-10-10 16:52 | 本と映画 | Comments(0)

 我が家にはサスケという名の猫がいるのだが、こいつが先月末あたりから急に元気がなくなって、最初は近所の小さな動物病院に連れて行ったのだが、よく判らないまま衰弱するばかりなので、末娘がネットで調べた設備のしっかりしていそうな動物病院に切り替えた。そこで血液検査やレントゲンなどを行った結果、慢性腎不全の末期という診断が下された。数値的にはもうどうやっても見込みのない(医師はもう少し婉曲な言い回しをしたが)ところに来ているという。突然の宣告で驚いたが、そう言われてしまってはどうにも仕方がない。助からないとしても、当面は可能な治療を施してもらうことにした。
 この病院は同じ市内とはいえ車で30分はかかるところなので、今月に入ってからはわたしと妻が毎日通院させることになった。一時はもうだめかという状態まで行ったのだが、毎日の皮下点滴というのが効いているのか、この一両日は少し持ち直した感じになっている。

 この猫の飼い主は娘たちと妻であって、わたしは基本的には距離を置いた傍観者だったのだが、こういう状態になってみると放ってはおけないし、けっこう可愛いと思っていたことを再認識させられた。みんなはサスと呼んでいたが、わたしは何となく照れくさい気分もあって、近くに来ると勝手にニャアと呼び掛けていた。最近はわたしが話し掛けると猫の方もニャアと返事をするようになっていて、そうなると悪い気分はしないものである。
 年齢は15歳だったようだから、人間に換算すると76歳ということになる(らしい)。少し足腰が弱ってきたかと感じていたのだが、腎臓が悪くなってきた影響もあったようだ。腎不全を示す数値は徐々に上がってきたものだから、老齢のせいだと納得しないで早めに医者に見せていればとも思うが、どこか悪いところがあるのではないかという発想は誰にもなかったのだから、辛いことになってしまったがこれは諦めるしかない。

 レントゲンでは片方の腎臓は小石くらいにまで縮んでしまっているらしく、食事をまったくしなくなってしまったこともあって、もう回復は見込めないということのようだ。このあとは、どのあたりで点滴を止めるかという難しい判断になるような気がしている。
by krmtdir90 | 2017-10-07 14:00 | 日常、その他 | Comments(0)


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