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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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高校演劇2017・山梨県大会ー甲府への小さな旅ー(2017.11.28)

 高校演劇が嫌いな新座柳瀬のMさんが最近嵌まっているらしい甲府南高校の舞台を、機会があったら一度観てみたいと思っていた。山梨県大会が何かの事情で平日開催に変更され、観客がほとんど望めない事態になっているらしいのを知り、まあ枯れ木一本でも賑わいの一助になれるかなと出掛けてきた。

 山梨や長野は、車でよくお酒を買いに行ったりしているので、あまり遠くに行く感じはしないのである。今回は車ではなく電車で行くことにして、わが最寄り駅から8:18発の普通列車・甲府行きに乗車した。近いとはいえ小さな旅には違いない。
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 車内がロングシートだったのは残念だったが、中央本線の高尾から先は、非常に変化に富んだ車窓が楽しめるので大好きである。家を出る時にはどんよりした曇り空だったが、西進するにつれて雲が取れていき、笹子トンネルを抜けて甲府盆地に出る頃にはすっかり快晴になっていた。線路が北に大きくカーブして、徐々に標高を下げていく勝沼ぶどう郷あたりの景色はやはり素晴らしい。盆地はかなり霞んでいたが、周囲の山々もよく見えて、その向こうに富士山も頭を見せていた。
 9:58、甲府駅着。
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 会場のコラニー文化ホールは、この平和通りをしばらく直進してから右折するようだ。
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 駅から徒歩20分とあったが、わたしにはもう少しかかったかもしれない。でも、普段の運動不足解消にはちょうどいい距離だったと思う。風もなく日射しも暖かで、絶好の散歩日和だった。
 コラニー文化ホール正面入口。
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 小ホール入口。
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 やはり閑散としていて、受付の先生からプログラムなどを受け取って中に入ると、
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 うーん、この状況はやはり悲しい。開演時には少し増えたけれど。

 この日は大会の一日目で、5校の上演が行われたようだ。せっかく行くのだから、目当ては甲府南だったけれど、他の学校の上演も観せてもらおうと思っていた。1校目は間に合わなかったが、2校目から昼休みを挟んで最後まで、4校の上演を観せていただいた。以下、観劇した者の礼儀として、感じたことを少し書かせてもらうことにする。 

白根高校「オヤジ焼きそば」
 学園祭で音楽部が部活動補助金の獲得を目指し、焼きそば屋を開くまでを舞台にした。生徒創作だと思うが、一つ一つのエピソードが作り切れていないので、ストーリーとしてちゃんと展開させられていないように思った。一生懸命工夫して演じているのは判ったが、セリフや動きをかたちとして作り過ぎる傾向があるので、人物の気持ちがあまり見えてこないのが残念だった。後半、音楽に乗せて焼きそば屋のあれこれをダンス風に演じるところは楽しかった。

北杜高校「Party People」
 これも学園祭もの。クラスごとに作るシンボルオブジェ?に取り組む3人組を描く。仲間とか絆とか、テーマのようなものを生に出し過ぎているのがどうだっただろうか。説明的にしてしまうと、人物の気持ちはかえって薄くなってしまうと思う。3人ともよく動けていると思ったが、力が入り過ぎて乱暴になっているところも散見された。舞台はよく工夫されていたが、その一つ一つが本当に効果的だったかどうかは振り返ってみた方がいいかもしれない。

甲府南高校「バスに乗る、九月、晴れ、帰り道。」
 どこまで書けるか判らないが、ここは長く書きます。
 Mさんが夢中になるのはよく判るような気がした。高校生の話でありながら、まったく高校演劇らしくないユニークな舞台になっていると思った。
 それはまず、台本がきわめてユニークに書かれているのだと思う。記憶喪失というような題材は、高校演劇になるといかようにもドラマチックにできるものだと思うが(また多くの場合、その誘惑に負けてしまうと思う)、この台本は記憶喪失の主人公をきわめて淡々と(素っ気ないくらい)、その日常の一コマ一コマを点描するというかたちで動かしてみせる。それは悲劇的でも喜劇的でもなく、終始きわめてゆるい雰囲気の中で展開されるものである。なかなかこんなふうに書けるものではない。
 主人公の少女はみずからが陥ってしまった困難な事態に、悲観的になったり投げ遣りになったりするふうもなく、ごく自然にその事態を受け止めているように見える。台本が彼女をそういうふうに拾い上げているのだと思う。台本の筋としては、一日前のことを記憶していられなくなってしまった少女(ナオコ)が、毎日クラスの誰かが時間を確認してくれる帰りのバス停から、ある九月の晴れた日、間違って反対方向に行くバスに乗ってしまったという、ただそれだけの話なのである。
 一方に8人の(男女の)クラスメートを配し、ナオコのモノローグと組み合わせながら、現実なのか空想なのか定かでない様々なイメージを交錯させていく手法が面白い。一人だけセリフをまったく覚えていないのに本番を迎えてしまう演劇部員の自分とか、いつの間にか高校の国語教師になって授業をしている自分とか、何やら地球征服を企む宇宙人の一団に翻弄される自分とか、一歩間違えればどうにも収拾できなくなりそうな飛躍したイメージが次々に並べられるのだが、作者はそれらを説明したり解釈したりすることなく、そのまま反対方向行きのバスに乗ってしまった彼女の現実に、ストレートにつないでしまうのである。
 現実と言っても、彼女の間違いに気付いて必死にバスを追い掛ける8人のクラスメートは現実にはあり得ないだろう。間違って乗ったバスの運転手が、彼女の記憶喪失の原因となった交通事故で彼女をはねた運転手だったというのも、考えてみれば現実にあり得たかどうかは判らないのである。にもかかわらず、舞台は様々なイメージの延長線上にこれらのシーンを置くことで、彼女と周囲の人間との間に生まれた思いやりとか感謝の思いとかいう、なかなか正面切っては言いにくい(恥ずかしい)感情を見事に浮かび上がらせて見せるのである。
 何とも不思議な作劇術と言うしかない。だが、最後に舞台上にこみ上げる温かな雰囲気は、彼女と周囲の人間がたどり着いた確かな現実に違いない。最後に2つのラストシーンを用意して、彼女が記憶を取り戻す(いかにもありそうな)大団円を横に退けるようにして、記憶は戻らないがその不自由を丸ごと認め合う彼女とクラスメートの輪に自然に収斂させたところに、実に控え目だが熱い作者の思いが込められていると思った。
 役者たちもみんないいと思った。上手いというのとはまったく違う。そういう言い方をするなら、下手な子も混じっていたと思う。ここの役者たちは、みんな舞台上にしっかり存在してみせるという点で抜きん出ていると思った。高校演劇特有の力みやわざとらしさといったものとは無縁のところで、実に自然にそこに立っていたり動いていたりしていたと思う。高校生はすぐにいろいろやりたがってしまうのだけれど、そういう誘惑を排して、一見控え目だけれど非常に繊細で品のある演技を目指していたのだと思う。特にナオコをやった女子の、何もしない(ように見える)存在感は際立っていた。
 3人の男子も良かった。告白のシーンはいかにもという感じでやっているように見えるが、ありふれた高校演劇のこれでもかとは明らかに異なる抑制が見えて、実にいい気分で笑わせてもらえた。何も考えず思い切ってやっているだけのように見えて、実はこのあたりまでという線引きが3人の中で共有されていたのだろうと思った。これはなかなかできることではない。全員の声の大きさなども恐らく計算されたもので、出すのは簡単だけれど、ちょうどいいところにみんなが調整するのは簡単なことではないだろう。意図された自然な会話というのは、高校演劇では非常に珍しいものだと思う。
 最初の方で、みんなが楽器を演奏するシーンがとても良かった。この音の小ささが何とも言えず新鮮だった。最初、スピーカーから聞こえるか聞こえないかという小さな音(リズム?)が出ているなと思っているうちに、一人また一人と非常に臆病な音が加わっていく感じが良かった。お互いにつながりを作ることの難しさと不安を表しているように思えて、何と言えばいいのだろう、一気に劇世界に引き込まれるような気がした。わたしは大音量もけっこう使ったが、この、気付かない人もいるかもしれないような小さな音というのには非常に弱いのだ。
 これでもかと押していくことが多い高校演劇特有の風潮の中で、芝居というものが持つ繊細な楽しさと遊んでいるような舞台作りに好感を持った。いい舞台を観せてもらったなと思った。

甲府西高校「盤上の沖縄戦」
 わたしは知らなかったが、既成台本なのだろうか。最初花道から登場した女子の自然な動きに目を奪われた。二人芝居だが、もう一人の女子も自然に動けていて、碁盤を挟んだ2人のやり取りはとてもリラックスした雰囲気で良かったと思う。これだけで最後まで持って行ってくれたら、とてもいい舞台になったのにと思った。台本がそうなっていたのかもしれないが、一々前に出て沖縄戦の事情を演じるところで流れが途切れてしまい、この部分のそれらしい演技はあまり効果的にはなっていないと感じた。この日観た4校の中ではわたしは2位だと思ったので、少人数で大変なのかもしれないが、装置は代用品ではなくぜひパネルを作って欲しいと思ったことを言っておく。

 昼休みにこのお店を探して、牛すじ煮込みのランチ700円を食べた。
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 食後に、前の道から。
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 これ、甲斐駒ヶ岳だよね。すぐ近くにこういう山が見える街というのはいいなと思った。
 食後の一服を済ませてホールに戻ると、Mさんと事務局のMさん(あれっ、イニシャル同じだ)がいた。事務局のMさんは甲府南が終わると予定があると言って帰ったが、Mさんとわたしは最後まで観て一緒に普通列車で帰った。甲府16:46発の立川行きは、乗ってみたらセミクロスシートの車輌だった。ボックス席を確保できたから、判っていたら飲み物などを買ってから乗ったのにと思った。
 いろいろな話をしたが、先日の埼玉県大会で、時間オーバーの学校に対して非常に不明朗な処置が取られたことを知った。わたしはもう現場を退いた人間だからこれ以上は書かないが、一貫性のない扱いは今後に禍根を残すだろうと感じた。

 ここまで書いて、アップする前にツイッターを確認したら、山梨の結果をMさんがリツイートしてくれていた。わたしが観た4校からは、甲府南が最優秀、北杜が3位で関東進出を決めていた。北杜が関東に行くということだから、一点だけ付け足しておきたいと思う。
 彼らが作るオブジェはずっとカバーされた形で舞台にあったが、最後にその姿を見せるのはよほど考えないとまずいことになると思う。遠慮なく言わせてもらえば、あの程度のものではプランさえあれば1時間でできてしまうと思った。見せるのであればやはり観客を唸らせるインパクトが欲しいし、最後まで見せない(途中も舞台に出さない)処理を考えた方がいいような気がした。まあ、外野の無責任な感想ですから、無視してもらっていいのですが。
by krmtdir90 | 2017-11-29 21:40 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

映画「火花」

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 原作を読んだ時点で、これを映像化するのは非常に難しいだろうと思っていた。だから、この映画はあまり期待しないで観に行った。だが、結果は予想外と言うべきもので、終始楽しく観ることができた。実に好感の持てる映画になっていた。原作に忠実な映画化でありながら、原作とは別のもう一つの「火花」になり得ていたと思う。
 小説には小説の特性があり、映画には映画の特性がある。小説の映画化が、えてしてこの垣根を越えられず失敗することが多い中で、この映画は原作を踏まえつつ映画にしかできない表現を生かして、見事に映画「火花」として完成していたと思う。
 小説「火花」は、徳永と神谷がたどった10年間を徳永の一人称で描いている。そこにあるのは、徳永が見た神谷という人間と徳永自身の感性である。これが非常に面白く書き込まれた小説だった。映画がこれに囚われ過ぎれば失敗してしまうし、そうかと言って、無節操にこれを離れることは許されることではない。この映画はそこをどう突破したのか。

 映画という表現には一人称はあり得ない。一人称的表現を目指した映画もないわけではないが、映像というのは基本的に対象の外形を写し取るものであって、その内面はその写し取り方から推測させるしかない。小説の映画化において、特に主人公たちの存在感が薄まってしまうように感じられるのはこのためである。この映画でも、神谷の印象は小説ほど濃いものにはなっていない。
 一方で、主人公以外の登場人物の存在感が増しているも映画の特性によるものである。「スパークス」で徳永の相方を務める山下や、神谷の彼女である真樹、また出番は少ないが、「あほんだら」で神谷の相方である大林、同年代の芸人集団から抜け出し売れっ子となるピン芸人の鹿谷、神谷の新しい彼女の由貴といったところ。こうしたところは画面に映し出されることによって、それだけで具体的なものとなり印象的な存在となっていく。
 とりわけ徳永の相方・山下は映画の中で拡大され、徳永・神谷に対するもう一つの極として、2人を鮮明にする触媒のような役割を担うことになった。徳永と山下がスパークス解散を話し合う公園のシーンをじっくり見せた(映像的には両者は同格として映される)ことによって、彼らの解散ライブが非常に悲しく感動的なものになったと思う。

 監督・脚本の板尾創路(いつじ)は、映画の特性を小説を映画化する際の武器として使いこなしている。小説にも出てきたシーンなのに、それがきわめて印象的な映画独自のシーンに変貌しているケースが見られた。井の頭公園で奇妙な太鼓を叩いているミュージシャンに、神谷が絡んでいくシーンは素晴らしかった。ああ、こういうことだったのかと納得させられた。
 また、小説の始まりで、徳永が神谷に弟子にしてくれと頼む熱海の居酒屋のシーンがある。女店員のお腹が大きいのを見て、神谷が触っていいかと頼み、元気な女の子だと当てずっぽうを言うのは映画独自に作られたやり取りである。そして、終わり近くになって2人が再び熱海に行き、同じ居酒屋に行くのも小説にあるシーンである。だが、小説では女店員は別の人になっていたが、映画では元の女店員がいて、彼女はもちろん昔のことを覚えているはずもないのだが、そこに小学生ぐらいの女の子が出てきて、母親である彼女に店の隅で宿題を教わり始めるのである。
 映画が作ったこのシーンが、徳永と神谷がたどった10年という時間を強烈に照射することになった。あの時生まれてもいなかった子どもが、もうこんなに大きくなってしまっていたのだ。長いようで短い、短いようで長い、歳月は確実に彼らの上を通り過ぎていったのである。これは映画にしかできない見事な表現だと思った。

 又吉直樹が徳永と神谷の濃密な時間経過として描き出した物語を、板尾創路はもっと俯瞰的な集団劇として再構成したのだと思う。小説にあったエピソードはほとんど取り入れられているが、それをただなぞるだけではなく、映画独自の表現としてしっかり昇華させているところが素晴らしいと思った。その結果、小説の時には見えなかった様々なものが見えてきたと思う。
 小説では、スパークスは一時的にかなり注目された時期があったようになっていたが、映画は一貫して売れないまま10年の月日を経過させている。一方、神谷の強烈な個性はあまり前面に出されることはなく、彼の語り(漫才論とか生きる姿勢とか)などは描写としてはかなり後退させられることになった。しかし、彼らが必死になって追い求めたもの、思い通りにならず彼らの指先からこぼれていった切実な思いは、しっかりと描き出されていたのではないか。
 神谷が徳永に、勝つことができた一握りの芸人の背後には淘汰された無数の芸人がいると語るシーンは、小説にも映画にも共通したシーンである。だが、「淘汰された奴らの存在って、絶対に無駄じゃないねん」という神谷の言葉は、映画においてより痛切に響いていたように思う。「絶対に全員必要やってん」という言葉がストレートに胸に入って来た。

 監督の板尾創路という人は、みずからも漫才をやっていた過去を持ち、その後タレント・俳優・映画監督などとしてやってきた人のようだ。1963年生まれというから、今年で54歳ということになる。1980年生まれ、37歳の又吉直樹より、芸人の世界のあれこれを長いこと見てきたということだろう。監督自身がインタビューの中で「芸人のドキュメンタリーに近いもの」を作りたかったと述べているようだが、この映画の自然さは、監督自身の来歴に裏打ちされたものというのがよく判る映画になっていたと思う。
 徳永をやった菅田将暉(すだまさき)、神谷をやった桐谷健太の2人が素晴らしかった。山下の川谷修士は漫才をやっている人のようだが、コンビを組んでスパークスを演じた菅田将暉は、まるで本物の漫才コンビのように見えたのは感心した。徳永・神谷の漫才的掛け合いも実に面白く、それを生み出した監督と役者の才能のきらめきを感じた。いまのところ思ったほどのヒットになっていないようだが、観て損はない楽しい映画だと思う。
(立川シネマシティ1、11月24日)
by krmtdir90 | 2017-11-26 13:21 | 本と映画 | Comments(2)

「アナログ」(ビートたけし)

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 同じ芸人だった又吉直樹が小説を書いて、芥川賞を取ったことがたけしを刺激したのだろうか。映画の方では世界的な名声を獲得したたけしだが、小説はそんな簡単な(と言ってしまっては映画に対して言い過ぎかもしれないが)ものではなかった。
 数ページ読んだだけで、これはダメだと思った。数十ページ読み進んだところで、もう読むのをやめようかと思ったが、たかだか170ページだから一応最後まで読んでみた。結果、箸にも棒にもかからない愚作だということを確認した。感想文を書く価値はないと思うが、こんなものが小説として大々的に売り出されている出版界の堕落には、一言言っておかなければならないと思った。
 新潮社の編集者には矜恃というものはなかったのだろうか。小川乙三(「砂上」)のような編集者はそうはいないかもしれないが、たけしの名前なら売れるだろうという下心がこれほど見え透いてしまっては、編集者としては失格と断ぜざるを得ない(その点、又吉についた編集者は本物だったということだろう)。

 それにしても、たけしもたけしだと思う。こんなものはとても小説とは言えないということに、自身が気付いていないとすればこれも大きな問題である。調子に乗って言いたいことを言ってしまう(やりたいことをやってしまう)のがたけしの「売り」だとしても、そういう位置を獲得したからこそ、勇み足では済まされないこともあるのではないか。
 まず第一印象は、文章に落ち着きがないということだった。自分の文章がどういうことになっているのか、冷静に見詰めてみる客観的視点がどこにも感じられなかった。端的に言ってしまえば、描写というものがきちんとできていない。言葉をちゃんと選べていないし、物語を作るためにどういう操作が必要なのかがまったく判っていない。物語ることと説明することの違いが全然意識できていない。要するに、小説というものがどれほど繊細な作戦で組み立てられなければならないものなのかが、理解されていないと思った。
 そんな未熟な作品であっても、たけしにしか書けないようなハッとする表現がどこかにないかと探したが、最後まで注目するようなところは見つからなかった。まったく残念なことだが、たけしは小説というものを甘く見ていたのではないか。

 「アウトレイジ」をあまり観たいとは思わないが、芸人のたけしが映画というものを自分のものにしたことは凄いことだと思っている。そこで最後まで戦えばいいのではないか。芸人の又吉は小説を自分のものにしたが、彼は安易に映画を撮ろうとは考えないだろう。自分には小説しかないということが彼にはよく判っている。わたしはたけしがやってきたことを評価しているが、それ以上にいまの又吉を評価するというのはそういうことである。
 小説と称しているこの内容に触れる必要はまったく感じない。面白いと思わなかったのだから、言いたいことも出てこないのである。税別1200円は無駄遣いだったと思う。これから読んでみようと思っている人はやめた方がいい。
by krmtdir90 | 2017-11-25 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「人生はシネマティック!」

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 やはりイギリス映画はいい。1940年、ドイツ空軍の激しい爆撃にさらされるロンドンが舞台。日常が死と隣り合わせの戦時下でも、人々はわずかな休息と娯楽を求めて映画館に通う。政府はそんな国民を鼓舞するため、情報省映画局を中心に戦意高揚映画(プロパガンダ映画)の製作を続けている。この映画は当時の映画製作現場を取り上げながら、困難の中で映画製作に奮闘する人々の姿と、その中で次第に女性として自立していくヒロインの姿を描いている。
 わたしには何より、映画に関するバックステージものというところが良かった。ヒロインが秘書をしていたコピーライターが徴兵されてしまい、代わりに書いた広告コピーが映画局の目に止まり、彼女は何の実績もないまま新作映画の脚本家(補助員といった位置づけ)としてスカウトされる。働き盛りの男たちはみんな戦場に駆り出されてしまい、製作現場は慢性的な人手不足に見舞われていたのである。
 このヒロインのカトリンを演じたジェマ・アータートンがすごくいい。一見したところは地味で控え目な印象なのだが、要所で筋の通った芯の強さを見せてくれる。好演である。地に足のついた感じというか、いかにもイギリス映画らしい人物造形が好感が持てた。

 彼らが取り組むのは、いわゆるダンケルクの戦い(ドイツ軍に包囲されたイギリス兵40万人の撤退救出作戦)で、双子の姉妹が父親の漁船で海に出てこの作戦に貢献したという「実話」の映画化である。脚本チームは彼女を入れて3人、中心となるトム・バックリー(サム・クラフリン)は優秀だが付き合うには難しい男のようだ。最初カトリンは戸惑いを隠せないが、彼女の見せる的確な反応や判断を通して、次第にその才能は周囲に認められるようになっていく。
 こうしてあらすじを書き連ねても仕方がないのだが、映画としての語り口が非常に巧みなこともあって、次々に彼女や製作現場に降りかかる困難を乗り越えていく姿が、実に面白く生き生きと描き出されていくのである。かなりめげそうになる事態でも、彼らは決して深刻になることなく対処していく。監督はロネ・シェルフィグというベテラン女性監督だったようだが、大仰にならなずあくまで自然に淡々と進めて行く演出は素晴らしいと思った。
 カトリンには実質的に結婚している夫がいたのだが、彼女が脚本の仕事に忙殺され、撮影開始とともにロケ地に長いこと同道してしまったことから、2人の仲は破局を迎えることになってしまう。失意の彼女は、いつしか映画製作の現場にすっかり入り込んでしまった自分に納得するしかない。映画としてのストーリーは、このあと彼女と脚本家トム・バックリーとの関係に自然に移っていくことになる。2人の間に恋が芽生える、この展開は予想通りといえば予想通りなのだが、それが何の違和感もなく感じられたのはロネ・シェルフィグ監督の力だったと思う。2人がぎこちなく接近していくところを、この監督は実に暖かく丁寧に描き出して見せる。

 だが、これでハッピーエンドになるのだなと思わせておいて、次のシーンでいきなりトムを事故死させてしまったのには驚いた。「人生」はそんなに簡単にラブストーリーを成就させてはくれないのだ。今度こそショックで立ち直れなくなってしまったヒロインを訪ね、彼女を絶望の淵から救い出すのは、映画の現場ではさんざん彼女を困らせていたプライド高き落ち目のベテラン俳優アンプローズ・ヒリアード(ビル・ナイ)なのである。このシーンが実にいい。彼を始め、この映画は脇役がみんな実にいい味を出していて、特にこのビル・ナイという老役者は見事だったと思う。演じ過ぎないし、監督も過剰な演出はしていないところが何とも言えない。
 結局この映画は、最初からラブストーリーだけで終わらせるつもりはなかったのだ。この映画は最初から、カトリンやトム、アンプローズを始めとした多くの登場人物をみんな鮮やかに描き分けて、それらの人々が戦時下の困難の中で一つのチームとなって、それぞれの持ち場持ち場で映画への思いを貫いてみせる映画だったのである。

 脇役が実に良かった。最初はどうということもなく出てくるのだが、出番が重なるにつれて(出番はそんなにあるわけではない。あくまでも脇役なのである)存在感を増して行く感じがあった。上手いだろうと主張してしまう脇役なら注目はしないのだが、あくまで控え目にそこにいるだけ。それが次第に光ってくる、その積み重ねがこの映画の奥行きになっていたと思う。イギリスではそれなりに名のある役者たちらしいが、わたしはまったく知らない人たちだった。
 情報省映画局から政府の意向を受け、脚本チームの監視役として折に触れて顔を出す女性局員、レイチェル・スターリング。老俳優アンプローズ・ヒリアードのエージェント、エディ・マーサン。彼の死後、エージェントの仕事を引き継いだ姉のヘレン・マックロリー。彼らがよく通ったビストロのウエイター、と書いたところでプログラムなどを調べたが、どこにも名前が載っていなかった。こんな小さな脇役が印象に残るというのは、映画であれ芝居であれ絶対に佳作に違いない。この映画は、そうした脇を固める役者たちがんどん鮮明になっていく映画だった。
 撮影開始時点では問題だらけだった映画製作の面々が次第に一致団結していき、ある晩、借り切ったバーのようなところで息抜きの飲み会を持つところが印象に残る。双子を演じた主役女優や、例の老アンプローズ・ヒリアードが歌を披露するシーンがすごく良かった。そういう脇役たちが作る親密な雰囲気の中で、ヒロインの思い通りにならない運命が点描されるところなど、上手い映画だなあと思わないではいられなかった。

 トムの死やカトリンの離脱、様々な曲折で一時は暗礁に乗り上げながら何とか完成された映画と、最後に満員の映画館でカトリンが対面するシーンは感動的だった。映画の登場人物たちとともに、この映画の監督であるロネ・シェルフィグの映画への「愛」が溢れていると思った。
 ロケ現場でのテストフィルムに偶然収められていたカトリンと生前のトムの他愛のない喧嘩のシーンが、完成された映画の中にさりげなくワンカットだけ紛れ込んでいるなどというのは、まったく憎い演出と言うしかないではないか。「人生」は思い通りにいかないことだらけだが、それほど捨てたものでもないのではないか。こんなに温かい気分にさせてくれる、後味のいい映画はそんなにあるものではない。記憶に残る傑作だったと思う。
(新宿・武蔵野館、11月21日)
by krmtdir90 | 2017-11-22 21:02 | 本と映画 | Comments(0)

高校演劇2017・埼玉県大会(2017.11.18・19)

 今年も埼玉県高等学校演劇中央発表会を観に彩の国さいたま芸術劇場に行ってきた。10校の舞台を観せていただいたが、そのうち何校かについて感じたことを書かせてもらう。

 最初に秩父農工科学高校「Solid Black Marigold」を取り上げたい。昨年までわたしは農工の舞台の好意的な観客ではなかった。舞台作りの総合的力量はずっと認めているが、単刀直入に言ってしまえばKさんが書く台本が好きになれなかったのである。だが、今年は違った。
 もしかすると、今年は全国や国立があって余裕がなかったのかもしれない。Kさんからすると、今回の台本はあまり満足の行くところまで持って行けなかったということかもしれない。いつになく素材が生のまま出ている感じがして、作者の問題意識などもかなりストレートに並べられてしまった印象があった。未整理と言ったらいいだろうか。それでももちろん、最後にはそれなりのまとめはつけていて、それはさすがだなと思う一方で、ちょっと意地悪な言い方になるが、広げたものを懸命に回収しようとしているKさんという人が見えているのが面白いと思った。いつもならもっとかっちりとコーティングを施し、もっとガードを固めて隙を見せない世界を組み立てるのにと思った。そう考えると、今回の台本は甘かったのだろうか。
 わたしは褒め言葉のつもりで書いているのだが、今年の台本には幾つか破れ目のようなところがあったと思う。そこが実は、わたしが共感できる入口のようになっていたのではないかと思う。突き詰めるばかりがいいとは思えないのである。本当はまた誰か死ななければならなかったのかもしれないが、そこまで追い込まない(追い込めなかった?)今回の台本にKさんの可能性があるような気がした。ラストで、カナトの呼び掛けに誰一人呼応する者がなく、背後にみんなが無表情のまま立っている「絵」は怖かった。

 あとは付け足し。シリア?問題とイジメ問題とを重ね合わせる視点は思いがけず、なるほどと思ったが、台本としては取って付けた感じが拭えず、書き切れていないと思った。問題があの女の子(メルバ?)一人に閉じているところが弱いのではないか。あと、装置がなぜ廃墟なのかということがここで判るのだが、装置に役割を負わせ過ぎているようにも思えた。物語の構造からすれば、当初の装置はもっと教室的であるべきだし、それが突然廃墟のように見えてくる(実際にどうやればいいのかは判らないが)、つまり「教室→シリア」でないと衝撃力は生まれないと思う。
 もう一つ、マリーゴールドの正反対の花言葉が効果的に使われていたが、黒いマリーゴールドの使い方は成功しているとは思えなかった。「黒=絶望(親愛の情の死滅)」というのは図式的過ぎて、あまりいいとは思えない。あと、ラストでモニター画面にマリーゴールドが映し出されたが、これが黒くなったら嫌だなと思っていたが、そうはならなかったのでホッとした。いまは簡単にああいう映像が使えるのかもしれないが、果たしてそれが効果的だったかどうか。わたしの時代なら、無数のマリーゴールドの花を降らせるところだなと思った。

 今年一番びっくりしたのは越谷南高校「宵待草」だった。Yさんが台本を書くというのは聞いたことがあったが、こういうものを書くとは思わなかった。まったく思いがけない舞台で、楽しんで観させてもらった。ただ、こういう背伸びを認めない審査も多いから、関東は無理だろうと思っていたが、予想を覆して最優秀に選ばれたのは本当に良かった。
 わたしは高校生の無謀な挑戦というのが大好きで、ずいぶん跳ね返されてきたけれど、Yさんも生徒たちもそれが無謀であることを判ってやっているところに共感を覚えた。どうやったところで高校生には手に負えない芝居というのはあるわけで、その前提の上で、変に判った気にならずに、正攻法でそこに近付こうとしているところが素晴らしいと思った。最も困難が伴うリアリズムでやろうとしているから、足りないところはまだまだいっぱいあるけれど、それはまだやれることが無数に残っている(終わりはない)ということでもある。これは楽しい。

 以下はこれも付け足し。Yさんに少し話を聞いたら、この台本はもともと卒業生のために書いた2時間超の台本をカットしたものなのだという。それでなるほどと思ったのだが、もう少しカットの仕方は工夫できるのではないかと感じた。わたしは自分では書けなかったから、既成の2時間超を毎年カットしていたような気がする。だからカットの難しさは承知しているつもりだが(自分の本をカットするのはまた違った難しさがあるのかもしれないが)、時間の経過も含めて展開のぎこちなさはまだ修正できるような気がした。時代の雰囲気をどう入れていくか(残すか)が鍵なのだと思うが、これでもう一苦労というのは作者冥利に尽きるのではないだろうか。
 あと、装置のことで少々。上手が混み合い過ぎてバランスが悪かった。上の大会は広い舞台になると思うから(芸術劇場でも可能だったはずだが)、台上はもっとフラットにして、役者が複雑な動きをしなければならない作りは直した方がいいような気がした。もう一点、一番不満だったのはカフェのドアの作り。外から来た役者はここで後ろ向きになるしかなく、中の人はここで一度見切れてしまうしかない。このドアを入ることと中に迎え入れることとが展開上大きな意味を持つ箇所があるのだから、ドアを挟んだ両者がしっかり見える構造を(どうすればいいかは判らないが)工夫する必要があるのではないだろうか。

 新座柳瀬高校「Lonely My Sweet Rose」は残念だった。だが、上記2校を上と見る審査の観点はそれとして理解できるものだったと思う。今回の柳瀬の舞台はもちろんコメディではないが、では何を作ろうとしたのかが、台本としてもう一つ鮮明にできなかったということではないかと思った。事前のツイッターでは「王子さまとバラの儚い(切ない)恋」とまとめていたが、本当にその視点にまとめ切れていたかどうか。ラストシーンを視覚的に豪華にする方向でやっていたが、照明やドライアイスのない状態で王子さまとバラの花に何をさせたかったのかがはっきりしなかったような気がした。
 最後が「わー、きれい」だけで終わるのでは、演劇的なカタルシスとは言えない。「恋」に着目するのであれば、旅立つ前の王子さまとバラのやり取りの部分と、王子さまがバラの気持ちを理解できずに自分の星を後にするあたりを、(単純に説明的なシーンを増やせということではなく)もう少し拡大してみる必要があったような気がした。そこが明らかにされて初めて、その後の王子さまの「気付き」の過程がドラマチックなものになるのではないか。
 素材が有名な「星の王子さま」だったことも影響したのか、いつもは原作から大きく飛躍してみせるMさんの魅力があまり発揮できていなかったような気がした。今回、単サスを始めとする照明効果に頼り過ぎてしまったこともあって、そういう台本の「弱さ」がかえって際立ってしまったのかもしれないと思った。だからといって、「星の王子さま」を何度も舞台化したと言っていた審査員の台本が、Mさんの台本より優れていたという気はまったくしないのだけれど。

 最後に芸術総合高校「朝がある」についても触れておく。率直に言わせてもらうと、全国に行った「…アントニン・レーモンド建築…」の呪縛に囚われるのはもうやめた方がいいのではないか。あの舞台を最初に観た時、わたしは全体が「スタイリッシュ」に頼るところがどうしても好きになれなかったのだが、その後全国まで行ったということは、役者たちの芝居がその後格段に良くなったということだろうと思っている。
 今回の台本は、そもそも役者たちのセリフのやり取りがほとんど(まったく)ないのだから、芝居として良くなる要素は最初からないと言うしかない(どこまで行っても、モノローグとパフォーマンスでしかない)。潤色・再構成とあったが、その台本がつまらないというのがすべてだった気がする。それを照明などの「見た目」で誤魔化していただけで、「スタイリッシュ」としても「…アントニン・レーモンド建築…」にははるかに及ばないと感じた。これを3位とした審査結果には違和感があるが、まあ、それは言っても仕方がないことなのでここまでにする。
by krmtdir90 | 2017-11-21 22:26 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(4)

「砂上」(桜木紫乃)

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 映画を観た帰りに、立川駅の中にある小さな書店で見かけて購入した。帯に小さく「作家デビュー10周年記念作品」とあった。「直木賞作家の新たな到達点!」というのも気になった。家に帰って、映画の感想文の方が先だなと思っていたが、ちょっと1、2ページ覗いてみようと思ってしまったのが失敗だった。そのままやめられなくなってしまって、結局その日のうちに最後まで読んでしまうことになった。そうなのだ。桜木紫乃の小説は1ページ読み始めたら止まらなくなってしまうのだ。

 読み始めて、今回の話はこれまで桜木紫乃が書いてきたものとはかなり違った題材を扱っていることが判った。著者インタビューの中で「2回は切れないカードを切った、一度しか書けない話だと思います」と語っているらしい。
 舞台は北海道の江別市(桜木紫乃もいまここに住んでいるらしい)。主人公の柊令央(ひいらぎれお)は、いつか作家になれたらと思いながらいろんな文学賞に応募を続けてきたものの、夢叶うこともなく40歳になってしまった女性である。彼女は別れた元夫から受け取る月5万円の慰謝料と、中学の同級生(男)が経営するビストロでアルバイトをして得る月6万円の給料で細々と暮らしている。同居していた母のミオはつい最近亡くなったらしい。物語は、東京から小川乙三(おとみ)という女性編集者が彼女を訪ねてくる場面から始まる。
 編集者は、令央が過去に応募した小説の多くを読んでいて、その中から「砂上」という短編を、もう一度本格的な小説として書き直してみる気はないかと持ち掛ける。今回の話は、主人公の令央がこの編集者との何回かのやり取りを経ながら、小説「砂上」を完成させていく過程を中心に物語が進んで行く。これは、みずからの人生を半ば諦めかけていた40歳の女性が、様々な曲折を経ながら一人の小説家として脱皮していく物語なのである。

 調べてみると、桜木紫乃はいま52歳のようだから、10周年となる作家デビュー(短編集「氷平線」2007年)は42歳の時だったことになる。インタビューで「これは実話じゃないかと邪推されるようなお話」を書きたかったと述べているらしい。小説に出てくるビストロも「江別駅前に実際にあるんですよ」とか、こういうコメントをシャアシャアと出すところがいかにも桜木紫乃らしい。
 もちろん彼女は「実話」は書かないし、この物語は最初から最後まですべて作りものの「嘘」である。しかし、「ホテルローヤル」の時がそうだったように、みずからの手の内にあるものは当然そこに反映されてくるわけで、それは「嘘」を「嘘」として成立させ、最後まで「嘘」をつき通すための「強化剤」のような役割を果たすものだと思う。今回の話では、桜木紫乃はこれまでほとんど見せることのなかった小説家としての「手の内」を、かなり思い切って表に出したのではないだろうか。確かにこれは小説家としては「2回は切れないカード」だろう。それがこの小説のいままでにない面白さになっていると思った。

 令央の書く「砂上」という小説の中で、彼女は自身と母との間にあった「ある秘密」を書こうとしている。彼女にははるか年の離れた妹(美利)がいるのだが、この妹は彼女が15歳の時に生んだ実の娘だったのである。令央の妊娠が明らかになった時、母のミオは「産みなよ。あたしの子として育てるからさ」と告げるのである。この「実話」を彼女はこれまで幾度となく書こうとしてきたのだが、その都度中途半端なものにしかならずに跳ね返されてきたのである。編集者・乙三は、なぜそうなってしまったのかというところにストレートに切り込んでいく。
 編集者・乙三の吐く言葉が、主人公・令央がこれまで曖昧にしてきた生き方や書き方の弱点を容赦なく突いてくるのである。その言葉によって、母親・ミオと娘・令央の関係は次第に明瞭なかたちを取り始め、小説としての「嘘」を意識して行くにつれて、令央は母親に対する見方を劇的に変化させていくことになるのである。それは40歳になった彼女自身の現在をも、どんどん鮮明なものに変えていくのである。
 この編集者の造形には、恐らくこれまで桜木紫乃が出会ってきた「実体験」が相当に反映していると思われる。桜木紫乃は「嘘」として設定したこの編集者と、小説家になりたいと思う「嘘の」主人公とを、かなり楽しみながら造形しているようにも見える。だが、それはもちろん桜木紫乃の「嘘」である。それはたぶん、そんなに簡単なことではなかっただろう。しかし、デビュー10周年を迎えた桜木紫乃は、その主人公が「嘘」というかたちの「真実」に近付いていく過程を、「実話じゃないか」と思わせるような手口で書いてみせるのである。

 確かに、桜木紫乃自身もデビュー前後に同じような過程を踏んだのかもしれない。そう「邪推」させるところが、10周年を迎えた桜木紫乃の計略なのである。この主人公と編集者の会話シーンは、「対決」という言葉を使いたくなるくらいスリリングで面白かった。編集者の言葉の一つ一つに、桜木紫乃の小説作法の鍵が隠れているような気がした。「嘘」をつくに当たって、こんなふうに彼女の「手の内」を晒してくれたことが、思いがけず新鮮で興味深かったのである。作家として「余裕」がなければこういうことはできないだろう。
 村上春樹の「職業としての小説家」をちょっと思い出した。これは桜木紫乃版「職業としての小説家」と位置づけられるかもしれない。
 最後に、つまらないことかもしれないが、今回の登場人物の名付け方はまったくいただけないと思った。なぜもっと普通の名前にしないのだろうと思った。名前に対する違和感がずっとついて回るというのは、せっかくの面白い小説を少しだけつまらなくしたような気がした。
by krmtdir90 | 2017-11-17 21:10 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ザ・サークル」

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 最近やっとツイッターやフェイスブックに出会うことができた者としては、これらに何となく感じていた違和感のようなもの(危惧と言ってもいい)を、きわめてタイムリーなかたちで暴き出してくれたように思う。これはいままさに進行している事態を描いた映画であって、SNSというシステムが孕んでいる危うさをリアリティを持って(少し誇張して)見せてくれていた。
 怖いのは恐らく、これまでは人間にとって「当たり前」だったことが、知らないうちに変容してしまっていることではないか。これまでそれほど疑ったこともなかったことが、気がついた時にはすっかり違ってしまっていたということが起こっているのかもしれない。すでにその中に取り込まれてしまっていて、もしかするともう手遅れというところに行ってしまっているのかもしれないという恐怖を感じた。

 実際わたしは、ツイッターやフェイスブックを始めるに当たって何か思うところがあったわけではない。軽い気持ち。誰でもそうだったのではないか。やってみると、それらとつながることは少しも難しいことではなかった。だが、たぶんその手軽さがわたしを少し躊躇させたのだと思う。わたしはいまのところそれらを覗き見ているだけで、自分からその中に入って何かを発信してみようという気持ちにはなれないでいる。
 ツイッターを始めて少ししてから、せっかくだからと「いいね」ボタンをあちこち押してみたことがあった。だが、同じ頃ちょっとだけわたしが書き込んでみたことに対して、即座に「誰々さんが『いいね』しました」という通知が来るのを見て、逆に引いてしまう気持ちが起こったのである。フェイスブックは限られた範囲内でのことだからいいのかもしれないが、ツイッターはどこの誰だかまったく知らない人が「いいね」と言って来るのである。これは逆に、「いいね」ボタンを押したわたしのことも相手に伝わっているということである。

 積極的に書き込みをする人にとっては、「いいね」が増えていくことが喜びになることは容易に想像できる。これを、いままでになかった魅力と感じる向きもあるのだろう。フォロワーになるというやり方もこの気分を助長することになる。そこに確かな「つながり」が形成されたような気がして、これまで感じたことのない充足感のようなものが生まれているのかもしれない。
 ツイッターの側もそうした「つながり」が広がっていくように、「おすすめユーザー」なるものを定期的に紹介してくれたり、「ハイライト」というかたちで興味ありそうな書き込みを見られるようにしてくれたりする。フェイスブックの「知り合いかも」も同じだが、これらがそれなりの的確さで表示されるというのは、わたしがどういうところを覗いてどういう行動を取っているか(どこで「いいね」したかといったこと)が、情報(履歴)として逐一ストックされ分析されているということになるだろう。ネットワークにつながるということは、こちらが意識するしないにかかわらず、そうした一種の監視システムの中に身を投じるということである。

 好むと好まざるとに関わらず、現代はスマホという身近な機械によって、手軽にそうした「つながり」を持てる時代になってしまった。「ザ・サークル」という映画では、このネットワークがさらに先に進んで行く可能性が描かれている。だが、それは当然のことながらプラス面・マイナス面の両方を含んでいるものである。進歩は多くの場合、バラ色の面ばかりを強調しながら進んで行くことになるが、それに乗せられていると思いがけない陥穽が待っていることもあるということである。
 「すべてがオープンになれば、世界はもっと良くなる」というような売り文句は、立ち止まってよく考えてみた方がいいということなのだろう。「みんながSNSでつながることは良いことである」というのも、果たしてそうなのか一度疑ってみるべきことなのではないか。みんながやっていることだからと時代の流れに無警戒に乗り続けていると、思わぬしっぺ返しを食らうことがないとは誰にも言えないのである。この映画はバラ色の可能性と同時に、そういうマイナスの側面も的確に描いている。そこでは、「善意」とか「正義」といったものが明らかに変質して(歪んで)しまっていることが見て取れるのである。

 ともあれ、わたしはツイッターやフェイスブックの手軽さの先に、(大袈裟かもしれないが)何となく大きな価値観の転回が待っているような気がして、これらを使うのは少し立ち止まって観察してからにしようと思っているのである。自分を公開するという意味ではブログも同じことなのだが、ブログは決して手軽なものではないし、その「面倒さ」の中に信用できるものがあるのではないかと思っている。いまのところはそれで十分のような気がしているのである。
 あまり映画の内容に触れていない感想になってしまったが、映画の方はSNSの危うさといったものにしっかり目配りをしながらも、あくまでエンターテインメントとして楽しめるものに仕上がっていたと思うので、この内容に即して問題提起したりするのは野暮というものである。ヒロインのメイを演じたエマ・ワトソンが非常に魅力的、また、世界中にユーザーを持つ超巨大SNS企業「サークル」のカリスマ経営者ベイリーを演じたトム・ハンクスも好演だった。監督・脚本のジェームズ・ポンソルトは、なかなかキレがあって良かったのではないだろうか。
(立川シネマシティ1、11月14日)
by krmtdir90 | 2017-11-16 16:45 | 本と映画 | Comments(0)

映画「立ち去った女」

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 チラシは4種類作られたようだ。とりあえず、2種類だけ貼り付けておくことにする。

 2016年製作のフィリピン映画である。先日観た「ローサは密告された」もそうだったが、近年のフィリピン映画は各所で注目を浴びていて、中でも本作のラヴ・ディアス監督は「怪物的映画作家」と呼ばれて、他とは別格のひときわ大きな存在感を示しているらしい。世界的な評価も高くなるばかりで、本作は同年のベネチア国際映画祭でグランプリに当たる金獅子賞を、フィリピン映画としては初めて受賞する作品となったらしい。
 ラヴ・ディアス監督が「怪物的」と称される理由は幾つかあるようだが、まず最も大きな特徴として、作品の尺が桁違いに長いことが挙げられるようだ。過去には5時間、10時間、9時間、8時間といったとんでもない作品が並んでいて、日本初公開となった本作の3時間48分というのは彼としては最も短い作品なのである。「牯嶺街少年殺人事件」で3時間56分を経験したから長さの見当はついたが、やはり観に行くのにはそれなりの決意と覚悟が必要だった。

 映画が始まってすぐ、この映画の(監督の)次なる大きな特徴が判ってきた。カメラを固定したまままったく動こうとしないワンシーンワンカットの長回しである。しかも、そのワンシーンが異様に長いという印象があった。
 当然カメラはかなり引き気味に置かれていて、シーンごとの構図は非常に計算された(しかも美しい)ものなのだが、人物は相対的に小さめなものとなり、光線の具合などで表情がほとんど読み取れないような場合もあった。夜のシーンなどでは完全な陰になってしまって、表情どころかそれが誰なのかさえ最初は判然としない場合もあったのである。
 さらにこの映画は、通常の映画のように、ロングやアップの切り替えとか細かいカットの積み重ねなどを行わないから、それら定石の積み重ねで自然に物語を浮かび上がらせるようにはなっていなかった。物語はもちろんあるのだが、長いワンシーンは物語に関することだけを映しているわけではないので、観る側はシーンごとにもっといろいろなことを考えてしまうのである。観ているうちに、この映画(監督)は通常のやり方で物語を作ろうとはしていないのであって、何か一般的な映画とは全く異質のものをここに作り出そうとしていることが判ってきた。それは何だったのか。

 この映画は、物語として整理しようとすると(長尺だけれど)非常に簡単な説明だけで終わってしまう。主人公は50歳半ばと思われるホラシアという女性(チャロ・サントス・コンシオ)で、無実の殺人罪で30年を刑務所で過ごしてきたようだ。ある日、所内で親友だったペトラという女性が真犯人だったことが判明する。ペトラは所長に真実を告白した後、自殺したらしい。こうして、ホラシアは突然釈放されることになるのだが、この時、ホラシアに罪を着せた黒幕が、彼女が捨てたかつての恋人ロドリゴだったことも明らかにされる。自由になった彼女は昔の家に戻るが、家を管理していた女性から夫の死亡と子どもたちの離散を知らされる。
 以上がこの物語の「前提」なのだが、このあと彼女が取る行動は次の3つである。①連絡の取れる状態だった娘との再会(これはすぐに実現する)。②自分を陥れた男ロドリゴへの復讐(この一部始終が映画の大半を占めるが、通常の意味で実行の障害となるようなものは存在しない)。③行方不明の息子の捜索(映画の最後に少し描かれるが、手掛かりなどはないようだ)。
 で、物語の中心となる②の「復讐」の経過だが、これが上に書いたように一筋縄の描き方にはなっていない。彼女が「復讐」の気持ちを持ってロドリゴの住む島に渡ったのは確かだが、そこでの彼女の行動を映画は「復讐」の視点からだけ一面的に捉えようとはしないからである。

 もちろん彼女はその気持ちを片時も忘れてはいない。しかし、そこだけを切り取って、観客に判りやすく並べるようなことをこの映画はしないのである。確かに彼女はロドリゴの屋敷の位置を確かめたり、夜ごとその近辺に出没したり、教会のミサで彼が座る席を聞き出したり、護身用と称して実行用の拳銃を手に入れたりはしている。だが、そうした行動はそれ以外の様々な彼女の行動の一部分として描かれていて、事態(彼女の気持ち)がどんなふうに推移しているのかは、必ずしも明確なかたちで描かれているわけではないのである。
 彼女が教会で出会う少し頭の弱いらしい物乞い女のマメンや、彼女が時々出掛ける安食堂を切り盛りしている足の悪い女将のネナとか、そういう一見本筋とはつながらないように見える人々との関わりなども、同じようなシーンのウェイトで印象的に映画の中に並べられているのである。さらに、ロドリゴの屋敷のあたりで毎晩出会うバロット(アヒルの卵)売りの貧しい男との様々な交流、また、夜道でてんかんの発作を起こした「女」を介抱してやり、それがきっかけで、その後思いがけず関わりが深まっていくことになる孤独なゲイの「男」ホランダとのあれこれなど。この映画(監督)は、物語を進める上で何が最適なバランスなのかといったことにまったく頓着しないかのように、そうした脇道と見えるシーンでの彼女の姿を丁寧に写し取っていくのである。
 その結果、ホラシアという主人公の女性は、「復讐」という単一の色に染められてしまうことなく、一言では表すことのできないきわめて多面性を持った存在として浮かび上がってくることになった。

 昼間の彼女が、たとえば教会などではレース織りの布を頭に被り、ごく普通の中年女性の衣服で静かに登場してくるのに対し、夜になると、バロット売りの男に「バットマンか?」とからかわれるような、黒ずくめのズボン姿にキャップを目深に被るというような、思いがけず男性的な衣服で現れるようなところ(初め、落差があり過ぎて同一人物なのかよく判らなかった)。これは明らかに彼女の二面性(多面性)を象徴的に表しているものだろう。
 彼女はある晩、男たちに「強姦」され瀕死の姿で助けを求めて来たゲイのホランダを、彼女の部屋で親身になって介抱してやり、その後かなりの期間を部屋で静養させてやったりする。その理解を超える親切と献身的行為がどこから来たものなのか、その理由が終盤近くになって彼女自身の口から語られることになる。ホランダが「なぜわたしみたいなつまらない者に優しくするのか」と問うたのに対し、彼女は「あなたがあの晩転がり込んで来なければ、わたしはロドリゴを殺しに行っていたのだ」と事情を語るのである。「あなたは本当のわたしを知らないのだ」と。
 このあたりのワンシーンワンシーンは物語の展開上非常に重要な意味を持っているのだが、そこに見えてくる物語上の関係性や人物としての一面などは、物語的なつながりを超えてそれ自体がきわめて興味深い予想外の相貌を示すのである。たとえば夜のホラシアが、ロドリゴの屋敷近くにあるスラムの一角で、子どもたちの一人(娘)と言い争いをする母親を見かけて、弾かれたように母親に走り寄り、激しく罵りながら叩きのめすシーンがあったりする。一緒にいたバロット売りの男に必死で止められるのだが、彼女が突然見せる狂気のような暴発はまったく理解を超えたものである。

 結局、ホラシアの「復讐」は、彼女の親切にお礼をしたいと考えたホランダによって実現されることになってしまう。だが、そこに至るホランダの心の揺らぎと決意は説明的に描かれるのではなく、それ以前に配置されたワンシーンワンカットの長回しの中におのずから含まれていたことが、後になって思い当たるようなかたちになっている。積み重ねられるワンシーンワンシーンは、ただ物語に都合良く奉仕するのではなく、常に複合的な意味合いを孕みながら推移していくのである。
 上に書いたホラシアとホランダのやり取りの少し前に置かれた、2人が「ウェストサイド物語」の中の「サムウェア」を歌うに至る長いシーンは印象的だった。「どこかに新しい生き方が、どこかに自分たちの場所が」という歌詞が心に染みた。すでにこのあたりで上映時間は3時間を超えていたと思うが、いつの間にかこの映画の不思議な語り口にすっかり引き込まれてしまっていて、まったく動こうとしないカメラのフレームに捉えられた2人の表情や仕草、やり取りの間合いといったものが、用意された説明や解釈で色付けされるのではなく、ただそこに展開され存在しているそのこと自体の面白さとしてひしひしと迫って来るような気がした。この映画(監督)が作り出す各シーンの「魔力」に完全に取り込まれていたのだと思う。

 ホラシアが、眠っている間にホランダが拳銃を持ち出して姿を消したこと気付いた後、彼女の主観と思われる乱れた映像に切り替わるところが、この映画では唯一の説明的シーン(映像が一つの方向に向いて意図されてしまった)になっていたと思う。恐らくここは、意見の分かれるところかもしれない。この種の作為(手持ちカメラの激しく揺れる映像や、意識的にピントを外した画面など)が必要だったのかどうか。最もドラマチックな箇所には違いないが、こうしたところさえ端正に切り取られたフレームのまま撮って欲しかったような気もしたのである。
 ともあれ、ラヴ・ディアスという監督が作り出す特異な映画世界は十分に堪能することができた。非常に重苦しい映画だったと思うが、映画を観るという体験のあり方が根底から揺さぶられるような映画だった。物語は単純だが、映画としては実に多様な側面を持っていて、まだ注目すべき点はいくらでも見出すことができる。いまのところ、そのほんの一部を書いただけに過ぎないと思うが、この映画がとても語り尽くせない奥行きを持っていることも事実なので、とりあえず「今回はここまで」という感じなのである。モノクロの3時間48分は非常に新鮮だったが、やはり疲れた(いい疲れではあったのだけれどね)。
(渋谷イメージフォーラム、11月10日)
by krmtdir90 | 2017-11-13 16:52 | 本と映画 | Comments(0)

猫の最期

 我が家の猫のサスケが昨日(11月11日)の17時20分に息を引き取った。享年15歳、雄のロシアンブルーだった。慢性腎不全の末期と診断され、もういつ亡くなってもおかしくないと言われていたのだが、結局40日ほど生き長らえたことになる。食事をほとんどしなくなってガリガリに痩せてしまったが、皮下点滴を継続したことがそれなりに効果があったようだ。
 最初のうちは病院に連れて行ってやってもらっていたが、大変なので末娘がやり方を教わって、後半は仕事から帰って来て家でやるようにしていた。ただ、衰弱とともに液の吸収が悪くなっていくようで、このところは一日おきの実施になってしまっていた。

 この間、元気な時はもぞもぞ動いたり、近くに行くと顔を上げてこちらを見たりして、ニャアという鳴き声をもう一度聞くことはできなかったが、猫なりに精一杯頑張っていたのだろうと思う。
 昨日は、朝の段階で急に呼吸が荒くなり、かなり苦しそうな様子が見えて、その後一旦落ち着いてぐったりと休んでいたが、夕方になって再び苦しそうにしていると妻に呼ばれて行ってみると、すでにほとんど動きがなくなっていた。ただ、最後にグッと小さな声を出すところには立ち会うことができた。それが最後になり、以後はまったく反応がなくなってしまった。

 末娘がネットで調べて予約を取り、きょう(12日)の午前中、高尾にあるペットの葬祭場で骨にしてもらってきた。いろいろなやり方があったようだが、一応一番丁寧なかたちの「立会火葬」というものにしてもらい、近くに住む次女と孫たちもやって来て、人間の場合とほぼ同じ段取りで骨壺に収めてもらった。
 骨は一旦家に持ち帰り、一年以内であれば葬祭場が引き取って、付属の墓地に合祀してくれることになっているらしい。火葬を待つ間に墓地の方にも行ってみたが、林間のこぢんまりしたところに、円形の合祀墓と個別の墓などが並んでいた。なるほどと思ったが、個別の墓までは必要ないということでみんなの意見は何となく一致した。

 病気を早期に発見してやることはできなかったが、猫としてはそれなりに恵まれた一生だったのではないかと思っている。
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by krmtdir90 | 2017-11-12 17:23 | 日常、その他 | Comments(2)

映画「続・激突!/カージャック」

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 数週間前にNHKのBSプレミアムで放映されたのを録画しておき、それをDVDにダビングしながらテレビで視聴したものである。日本では1974年に公開された映画で(製作も同年)、わたしはその時に観ているのだが、久し振りに見直してみてやはりいい映画だったと再確認した。
 これはスティーブン・スピルバーグ監督初の劇場用映画である。前年(73年)、日本で劇場公開された「激突!」(製作は71年、アメリカではテレビ映画として製作された)が大ヒットしたため、それと何の関係もないこの映画に、続編を詐称した何とも酷い邦題がつけられてしまったのである。当時は配給会社の戦略でこういうことがよく行われていたのだ。この映画の原題は「THE SUGARLAND EXPRESS」という(素晴らしい)もので、こんな碌でもないタイトルにするくらいなら、このままカタカナ表記にしておいてくれたら良かったのにと思う(以下、この文章では本作を「シュガーランド・エクスプレス」と書かせてもらうことにする)。

 確かに「激突!」は傑作だったと思うし、このあとスピルバーグは「ジョーズ」(75年)「未知との遭遇」(77年)と立て続けにエポックメイキングなヒット作を連発していくことになる(そしてわたしはその多くを見続けていくことになる)のだが、個人的にはこの「シュガーランド・エクスプレス」のストーリーが、最も印象的で記憶に残るものだったということになるような気がする。1969年にテキサス州で実際に起こった事件を基にして作られた映画だったようだが(冒頭に字幕も出る)、これを映画としてどう料理してみせるかというところで、スピルバーグの心温かい姿勢が非常に好感度の高い作品となって結実していたと思う。
 まったくの成り行きからパトカーを一台(警官と一緒に)ハイジャックしてしまう2人は、言ってしまえば何とも始末に負えない無鉄砲な「子ども」に過ぎないのだが、だからこそ先の読めない彼らのその場しのぎの言動に、これを追跡する警官隊も振り回されてしまうのである。彼らの乗った一台のパトカーの後を、何十台ものパトカーと報道陣、そして野次馬の車までが加わって延々ついて行くしかない、その滑稽な車列を引き気味のアングルで捉えたところがこの映画の真骨頂(印象的な見せ場)になっている。
 「シュガーランド・エクスプレス」というタイトルは、この映画の魅力を余すところなく伝えていると思う。だが、配給会社はこの一筋縄ではいかない面白さをどう売ったらいいのか、的が絞れなかったのかもしれない(当時のポスターを冒頭に掲げたが、惹句に「明日に向かって撃て!」からの剽窃と覚しき文句まで見える。まるで映画の中身を表していない。いやはや、呆れてしまう)。

 犯人の若い夫婦を演じたゴールディ・ホーンとウィリアム・アザートンがいい。目先のことしか考えられない単純で直情的な妻のルー・ジーン(ゴールディ・ホーン)と、彼女の魅力につい引きずられてついて行ってしまう人のいい夫のクロヴィス(ウィリアム・アザートン)という役どころである。恐らくまともな生活など一度も送ったことがないまま、若い勢いだけで関係を持ち、何の計画もなく子どもまで作ってしまったということなのだろう。
 ずっと窃盗などのケチな悪事を重ねてきたらしい2人だが、ルー・ジーンがバスに乗って、4ヶ月後に出所を控えたクロヴィスに面会に来るところから映画が始まる。彼女もつい最近まで服役していたらしいのだが、出所してみると2歳の息子ラングストンが福祉局の判断によって里子に出されてしまっていたということなのだ。彼女は衝撃を受け、息子をを取り戻すため2人でシュガーランドに向かおうと持ち掛けるのである(しかも、それは「いますぐに」ということなのだ!)。
 刑務所というか、軽犯罪の受刑者を対象とした更生施設のようなところらしいが、屋外でかなりオープンなかたちで催される集団一斉面会日?の設えが興味深い。ここで要するに面会人に紛れてクロヴィスが脱走するという無茶な計画を、彼女は離婚をちらつかせて有無を言わせず決行させてしまう。ゴールディ・ホーンのあっけらかんとした人を食ったような(当人は必死で思い詰めているのである)表情と、ウィリアム・アザートンのあっけにとられて困ったような(当人は妻に捨てられてしまうのが本気で怖いのだ)表情が何とも言えない。

 始まりからして先の見通しも何もあったものではない、まったく行き当たりばったりの粗雑な行動なのだが、スピルバーグの視線はこの2人に対してまったく冷たいところがない。無学でわがままでメチャクチャなルー・ジーンの危なっかしい一挙手一投足が、ただ息子に会いたいという切実な思いから出ているという一点において、肯定的に捉えられるものとなっているのである。
 ちょっとした油断から拳銃を奪われ、彼らの人質になってしまったパトロール中の警官スライドを演じたマイケル・サックスもいい。スピルバーグは彼を単なるステロタイプの警官にはしていない。犯人2人の言うままに動きながら、最初は職務上彼らを何とか説得しようとするのだが、いつの間にかルー・ジーンの一途な思いとクロヴィスの優しい心根に共感を覚えるようになってしまう。その人の良さはもしかすると警官としては危ないものなのかもしれないが、スピルバーグは次第に2人を助けたいと思い始めてしまうこの新米警官の心情の推移も温かく丁寧に写し取っている。
 さらに、ハイジャックされたパトカーを追う警官隊の指揮を執ることになる、ベテランのタナー警部を演じたベン・ジョンソンもすごくいい。長年の経験から、犯人2人が決して凶悪犯ではなく、粗暴だが信じ難い「子ども」なのだということを見抜いてからは、何とか血を見ることのない結末に持って行こうと努力し始めるのである。彼らはまだ誰も殺してはいないのだし、ただシュガーランドにいる息子に会いに行きたいだけなのだということを理解して、強攻策を避けて彼らの後について行きながら投降することを粘り強く勧めるのである。

 漠然とした閉塞感に満ちた現代の殺伐とした風潮からすると、まるで牧歌的と言ってもいいストーリー展開である。「激突!」で巨大なタンクローリーに時代の不気味な悪意を象徴させてみせたスピルバーグが、一転してこんな人間味溢れる(コメディタッチと言ってもあながち間違いとは言えない)描き方で一つの犯罪を捉えてみせたことが驚きだった。映画としての基本的構造はカーチェイスを見せ場とする一種の犯罪アクション映画ということになるのだろうが、結果的に出来上がったものは他の誰にも撮れないようなユニークな人間ドラマだったのである。
 テレビのニュースで彼らのことを知った周辺の住民たちが、この奇妙な追跡劇を一目見ようと集まって来て、2人は行く先々で次第に盛大な歓迎を受けるようになっていく。奪われた息子を取り返しに行くという彼らの動機が人々の共感を呼び、人気者になってしまった彼らの車にはぬいぐるみやいろんな差し入れが投げ込まれたりするのである。思わぬ展開に有頂天になるルー・ジーンのおバカとしか言いようのない反応を、ゴールディ・ホーンが生き生きとキュートに演じている。彼女の魅力はこの映画で余すところなく発揮されたと思うが、同時にスピルバーグという監督の才気(そして優しさ)がこの映画で一気に開花したような気がする。この後のスピルバーグは映画監督として一気に認められ、様々な大作を手掛けていくことになるが、その前夜に撮られたこの小さな映画はいかにもスピルバーグらしい掛け値なしの佳作だったのではないかと思う。

 2人の逃走の途中にはまだいろいろなことが起こる。警察無線を聞いていた隣の州の警官2人が、面白半分にパトカーで(州が違うとパトカーの色も違うみたいだ)出掛けて行き、ハイジャックされたパトカーを止めようとして危機一髪の大混乱になったりする。また、同様に無線をチェックしていた近隣の住民3人が(住民でも警察無線を傍受できるらしい。もちろん違法行為なのだろうが)、ライフル銃を片手に2人を「狩り」に出掛けて行って激しい銃撃戦になったりもする。
 登場人物たち(人質の警官スライドや追跡を指揮するタナー警部)の綱渡りの「善意」が一瞬で暗転してしまうような、こうした危ない事態がいとも簡単に始まってしまうアメリカ社会の怖さを、スピルバーグ監督は映画の中にきちんと描いている。特に銃撃戦の方は、どう転んでも(死者が出ても)おかしくないような危険を孕んでいたが、ルー・ジーンは何と彼らを見失ってしまっていたタナー警部に無線で居場所を伝えて助けを求めるのである。駆けつけた警部か激しい怒りの矛先を向けるのは、勝手な「私刑」を実行しようとした(勘違いも甚だしい)住民3人組の方である。
 スピルバーグはこのカージャック劇の犯人2人を終始責めてはいない。むしろ、当人たちの気持ちとは裏腹に、どんどん悪い方に転がって行ってしまう彼らの不運な人生を浮かび上がらせるだけである。ようやくたどり着いたシュガーランドの里親の家の前で、子どもを取り戻すために車を降りたクロヴィスは、待ち伏せた警察の狙撃手に撃たれて絶命することになってしまう。だが、人質の警官スライドはその直前に、彼を助けようとして「これは罠だ」と行くのを止めているのである。そして、すべてが終わって彼と対面したタナー警部は、そういうふうにしか終われなかったこの事件のことを、苦い気持ちで振り返るしかないのである。

 画面がブラックアウトしたあと、逮捕されたルー・ジーンは15ヶ月の服役ののち出所して、息子のラングストンを取り戻したことと、スライドとタナー警部はその後も警察官として職務に励んでいるということが簡単な字幕で示される。それは実に素っ気ない終わり方なのだが、観ている者をとりあえず「よかったな」という気持ちにさせてくれるものである。
 「シュガーランド・エクスプレス」は、その後SFXなどを多用した大作に傾斜していったスピルバーグ監督が、その始まりのところで(恐らく)低予算で撮った「小さな」映画だったと思うが、もっと注目され見直されてもいい映画なのではないかと思った。なお、下に掲げたのはアメリカでのポスターと思われるが、監督のスピルバーグの名前は下の方に小さく申し訳程度にしか載っていなかったのである。
(テレビ視聴、11月8日)
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by krmtdir90 | 2017-11-09 17:19 | 本と映画 | Comments(5)


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