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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「blank13」

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 監督の斎藤工(たくみ)という人については何も知らなかった。ウィキペディアを見ると「俳優・映画評論家」となっていて、若い頃から多方面で活躍してきた人のようだ。今年36歳だという。映画監督としては短編を何本か撮っていたようだが、長編劇映画はこれがデビュー作だったらしい。
 長編と言っても上映時間はたった70分だし、「blank13」という(風変わりな)英字タイトルも素っ気ない感じがして、何となくそこらの映画とは異質の雰囲気を感じて観に行ったのである。座席数98という、シネマシティとしては小さめのハコでの上映だったが、月曜日の昼間なのに客席はけっこう埋まっていた。あまりお客が集まる映画ではないだろうと思っていたのだが、予想は見事に外れてしまった。

 感想としては、実に面白かったと最初に言っておきたい。斎藤工監督の製作意図というか、どういう映画を撮りたいのかというのがよく見えていて、それが70分の画面の隅々にまで行き渡っていると感じられた。初めての監督作品として、実に潔い作り方をしていると思った。あれもこれもと説明し過ぎたり描き過ぎたりする映画は多いけれど、夾雑物をどんどん削ぎ落として、本当に必要なところだけを70分にギュッと凝縮していると思った。これは、なかなかできることではない。
 タイトルを映画のほぼ真ん中(35分ぐらい経過してから)に持って来て、前半と後半で描写のトーンをがらりと変えてみせたところも見事だった。非常に計算の行き届いた画面作りをする人で、最初から引き込まれて最後まで眼が離せなかった。
 斎藤監督は小さい頃から映画を浴びるほど見続けた人だったようで、どういう撮り方をすれば映画の魅力が出せるのかをよく判っているのだと感じた。全体的な作りに大袈裟なところがまったくなく、控え目で淡々としていながら、登場人物の様々な思いは鮮明に浮かび上がらせていることに感心した。最初から最後まで半端なところがなく、安心して身を任せることのできる映画だった。

 タイトルは「空白の13年」とでも訳すのだろうか。小さな集会所のようなところで営まれる寂しい葬式から始まる映画である。死んだのは松田雅人という男で、喪主は雅人の子どもである2人の青年である。ギャンブルに溺れ、13年前に多額の借金を残して蒸発してしまったこの「ダメ父親」をリリー・フランキーが演じたのだが、演じるというより、まさにそういう人間としてそこに存在してみせるところが素晴らしかった。こういう困った役どころをやらせたら、この人の右に出る役者はいないと思った。映画は、現在執り行われているこの葬式を基点に、家族の様々な(辛い)過去に向かってフラッシュバックしていく。
 小学生だったコウジ(大西利空・高橋一生)、中学生と思われる兄のヨシユキ(北藤遼・斎藤工)、妻(母)・洋子(神野三鈴)の3人が、この父親をどう思っていたのかということが説明的に描かれることはない(そういうシーンは作られていない)。家族が暮らす貧しいアパートには、年中チンピラが大声で借金の取り立てに来ていたし、薄暗い室内で4人が息を殺して居留守を使うシーンなども描かれていたが、兄弟が父親に反抗したり、家族が言い争ったりする場面は(そういうことがなかったとは思えないが)まったく描かれないのである。
 父が消えた後、母は新聞配達や内職、そして夜の仕事などで兄弟を育てるのだが、その心の内を吐露させるようなシーンもこの監督は作らない。兄弟も含めて、家族で交わされる会話は極端に少なく、彼らの思いはその間合いや佇まい、眼光の中などに微かに窺われるだけである。

 兄弟が父親を嫌悪していたのは明らかだが、妻であった母親が何を考えていたのかはずっと判らない。家族のどういう場面を切り取って描くかは監督の意図によるが、それなりの修羅場がなかったとは思えないこの夫婦に関して、斎藤監督は深入りすることを避けているように見えた。36歳の監督が描きたかったのはそういうことではなく、この父親に翻弄され辛い毎日を耐えるしかなかった兄弟の思いであり、彼らにとって父親とは何だったのかということなのだろう。「空白の13年」の受け止め方は、母と子どもではまったく異なっていたはずだが、映画が描くのは、兄弟の中でずっと続いていた父への厳しい感情が最後に変化する瞬間なのである。
 母親の、妻としての思いが描かれていないわけではない。彼女が喪服の帯を締めるシーンは描かれている。しかし、彼女は葬式には行かないのである。彼女が寒々とした公園のベンチに腰を下ろし、少年野球の練習をぼんやり眺めているシーンも映し出されている。映画のラストは、喪服の彼女がアパートの窓枠に腰掛けて、13年前に夫が残していったハイライトに火を点け、小さく咽せながら吸ってみるシーンで閉じられている。ずっと不在というかたちながら、この部屋に確かに残っていた夫の気配は、いま完全に消えたのである。彼女の夫への感情というものは、とても簡単に説明できるようなものではないことだけは、この監督はしっかり描き出していたと思う。何も言わなくても、彼女はこういうふうに生きたということは確かに納得させられたと思う。
 それらしいエピソードを作って安直に答を出してしまうような、そういう描き方になっていないところが素晴らしいと思った。この煙草のシーンは、恐らく記憶に残る名シーンの一つになるだろう。

 家族が父親の消息を知ったのは、彼が胃ガンで入院して余命3ヵ月という状態になってからである。いまはそれぞれ自立して別々に生活しているらしい3人が、母のアパートに集まって見舞いに行くかどうかを相談するシーンがある。このシーンも言葉は極端に少なく、そのことが逆に3人の複雑な思いを浮かび上がらせている。母と兄は行かないと言い、弟コウジもそれに同調するが、彼には小さい頃に父にキャッチボールをしてもらったり野球を見に連れて行ってもらったりした思い出があり、後日、一人で病院に見舞いに行くのである。
 このシーンが素晴らしい。交わされる言葉はやはり極めて少ない。2人して病院の屋上に行くのだが、その立ち位置の微妙な距離感とかやり取りの間合い、比較的遠めに置かれたカメラの位置取りやカットの割り方など、新人監督離れしたその巧みさには舌を巻いた。
 この監督の素晴らしさは、一つ一つのシーンが実に多くの情報を含んで作られているところにあると思う。何でもない小さなセリフやショットが実に多くのことを語っていて、それが自然に滲み出て積み重なっていくのである。コウジと父の間を、野球というものがずっと繋いでいるのだが、それは父がいなくなった後で母とする下手くそなキャッチボールとか、葬式の席で会葬者の老人が明らかにする、帽子からボールを出すマジックを父が覚えたがっていたというようなエピソードに響き合っていく。
 こういう細かいことに触れ始めたらキリがない。実に豊かな70分なのである。

 この映画は後半になって、葬式にやって来た数少ない参列者の口から、空白の13年間の、家族の知らない父親の様々な姿が明らかにされ、その空白が意外なかたちで埋められていくという展開になる。このそれぞれ個性的で、それぞれいかがわしく、みんな一目で貧しい生活をしていることが判ってしまう参列者たちを、キャスティングの妙というか、前半の重苦しい雰囲気から一転して、コメディと言ってもいいような語り口で描いていく変化は鮮やかだった。彼らはみんな心から死者を悼んで、みずからの意思で参列していたのである。
 すぐ近くの寺で盛大に行われている葬式の様子を、対比的に並べて見せたアイディアは秀逸である。多くの参列者は恐らく義理で来ていることが見えていて、中で一人だけ、ずっと不自然なほど嗚咽していた女は、金で雇われた「泣き屋」だったことが終盤に明らかにされている。
 前半ずっとフラッシュバックで登場していた父親は、後半はもう姿を見せることはない。しかし、その(リリー・フランキーの)イメージは、参列者の語るそれぞれささやかなエピソードでどんどん変化していき(ふくらんでいき)、家族にとってはどうしようもない存在でしかなかった父の人生の、思いがけない全体像が浮かび上がってくるのである。哀しくて切なくて笑いたくなるような、この描き方は何とも強烈な印象を残したと思う。

 それでも兄弟は、最後まで父親を嫌いだったと言うしかない。兄として喪主挨拶に立ったヨシユキは、途中で言葉に詰まって外に出てしまうのだが、当時思春期にさしかかっていたと思われるヨシユキには、その感情は憎しみと言っていいような圧倒的なものだったのかもしれない。彼はすぐ間近に行われている寺の葬式を眺めながら、しゃがんでぼんやりと煙草を吸うのである。
 兄の後を受けて挨拶に立った弟のコウジは、小さい頃父の優しさに触れた思い出を持っているから、参列者が語ってくれたことに感謝の言葉を述べながら、それでも最後に、やはり父を嫌いだったと付け加えざるをえないのである。
 2人が最後に見せる反応はきわめて抑制されたものだが、カメラはその姿を作為や情緒で染めてしまうことなく、じっと静かに見詰めるだけである。母や自分たちに数え切れない辛苦を強いた父を許すことなど、とてもできないことなのは確かである。それでも、自分たちの感情がどうしようもなく揺さぶられてしまったことも確かなことなのである。
 最後の展開では、日本映画ではなかなかないことなのだが、かなり感動させられてしまった。父がコウジの作文を最後まで大切に持っていたなどというのは、ベタと言えばベタなのだが、リリー・フランキーのあの表情に重なると、ちょっと泣けてしまうエピソードではないか。

 たった70分の中に印象深いショットやシーンがてんこ盛りで、その豊かなリアリティに脱帽という感じだった。これだけたくさんのものを描いているのに、たった70分で十分という、斎藤工監督の才能は特筆すべきものがあると思った。
 付け足しだが、「勝手にふるえてろ」の松岡茉優が、コウジの恋人のサオリという役で出ていた。地味な役だから最初は気付かなかったが、目立たないところできちんと役を演じていて、自然な存在感を出していたところが良かったと思う。映画自体が地味な映画だから、登場人物もみんな地味な存在の仕方をするしかない。こういう、監督の求めた方向性の中で、着実に個性を発揮してみせるというのは簡単なことではない。本当に巧い役者にしかできないことだと思う。
 年末のベストテンには当然名前が挙がってくると思われる、実に見どころの多い映画だった。
(立川シネマシティ1、2月26日)
by krmtdir90 | 2018-02-27 10:17 | 本と映画 | Comments(0)

「未来の年表/人口減少日本でこれから起きること」(河合雅司)

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 数年前、日本創世会議・人口減少問題検討分科会が発表した「将来推計人口と消滅可能性都市896」のリストが大きな話題になった。このレポートは25年後となる2040年を想定して、人口減少によって全国の自治体がどういうことになってしまうのかを描いて見せたものだった。この時は増田寬也氏の唱えた対応策に山下祐介氏を始めとする多くの反論が提起され、地方自治体をどうするのかという視点で様々な議論が巻き起こった。
 今回、著者の河合雅司氏は当然これらの議論を踏まえつつも、もっと全体を俯瞰するような視点で人口減少の問題点を浮かび上がらせようとしたようだ。「はじめに」の中で氏は次のように述べている。
 書店には少子高齢社会の問題点を論じた書物が数多く並ぶ。しかし、テーマを絞って人口減少社会の課題を論じるにとどまり、恐るべき日本の未来図を時系列に沿って、かつ体系的に解き明かす書物はこれまでなかった。それを明確にしておかなければ、講ずべき適切な対策とは何なのかを判断できず、日本の行く末を変えることは叶わないはずなのに、である。

 本書は200ページほどの簡易な新書だが、その約7割を使って今後50年ほどの間に起こるであろう事態を、時系列に沿って可能な限り具体的に説明している。その根拠となっているのは、国立社会保障人口問題研究所というところが2017年に出した「日本の将来推計人口」というデータのようだが、それに基づく河合氏の考察は、少子化も高齢化も現在進行形の事態であって、これに歯止めをかけることはできないという明快な前提に立っている。
 1949年に269万6千人あまりだった(戦後のベビーブームだ)年間出生数は、2016年には97万6千人あまりに落ち込み、初めて100万人の大台を割ったのだという。母集団が小さくなっているのだから、歯止めも何も、上記研究所の推計では2065年には出生数は55万7千人になってしまうと予測されているようだ。子どもが生まれないのだから人口が減るのは当然のことで、2017年に1億2653万人だった日本の総人口は、2065年には8808万人ほどになると予測されている。河合氏は「こんなに急激に人口が減るのは世界史において類例がない。われわれは、長い歴史にあって極めて特異な時代を生きているのである」と述べている。

 2065年にはわたしはもう生きてはいないが、子どもや孫たちは恐らく生きているだろう。半数の自治体が消滅すると予測されている2040年には、孫たちはちょうど働き盛りの年齢に差しかかっているはずである。その時、日本の社会は果たしてどんな姿になっているのか。本書が描き出す未来図は少しセンセーショナルに書かれているところがあるのかもしれないが、引用されている様々なデータの数字はすべて事実なのである。わたしは(たぶん)「逃げ切れる」からといって、この問題は無関係と切り捨てる気にはどうしてもなれない。
 本書でも繰り返し触れられていることだが、この人口減少が急激な高齢化とともに進行していることは重大である。何歳からを高齢者と考えるかは意見の分かれるところだが、2024年の日本では国民の3人に1人が65歳以上、6人に1人が75歳以上になると計算されている。一応わたしもそのくらいは生きていたいと願っているが、この時、老後の生活の基盤となる社会保障制度や医療・介護といったところは果たしてちゃんと機能しているのだろうか。
 いまから僅か10年足らず先の話なのである。本書は、恐らく10年も経たないうちに、日本社会のあちこちの場面に重大な影響が出ているだろうと予測している。これは決して絵空事ではない。

 それは、次々に高齢化していく世代の後を埋めるべき、働く世代の減少(社会の支え手の不足)という問題があるからである。少子化に歯止めはかからないのだから(その根拠は本書の中で明確に説明されている)、この事態は今後ますます深刻化していくはずである。このままでは、現在はあるのが当たり前と思っている便利で豊かな生活も、それを支える様々な分野で、その機能が維持できなくなってしまう可能性が高いと述べられている。
 河合氏は年を追って考えられる様々な問題を、きわめて広範囲から拾い上げている。その幾つかを書き写してみよう(カッコ内は、その例が挙げられている本書時系列における年次)。
 2016年の時点で44%の私立大学が定員割れとなっているが、今後、地方の国立大学も含めて、多くの大学が倒産の危機に晒されるだろう(2018年)。社会インフラの老朽化が進み(水道事業が例示されている)、一方で利用者減が進行する中では、それらの維持・更新が難しくなっている(2019年)。様々なインフラを支える技術者の不足と高齢化も深刻になっており、とりわけIT分野における技術者不足は今後拡大するばかりである(同年)。介護・医療にかかる経費の増大を受けて、政府が介護政策を在宅にシフトしている結果、働き盛りの40~50代を中心に介護離職者が大量に発生する(2021年、いわゆる老老介護の問題は2024年)。高齢化に伴って認知症患者も増大しており(2025年で730万人、65歳以上の5人に1人)、在宅では認認介護という現実も広がっていく(2026年)。若年層の減少により、献血者の不足から輸血用血液の不足が深刻化する(2027年)。生産年齢人口の極端な減少で、全国の都道府県の80%が生産力不足に陥り、百貨店・銀行・老人ホーム、さらには映画館やハンバーガー店なども地方から消えて行く(2030年)。全国の住宅の3戸に1戸が空き家になる(2033年)。国内死亡者数がピークを迎え、深刻な火葬場不足に陥る(2039年)。・・・。

 書いているときりがないのだが、これらの事態はいずれも、裏付けとなる詳細なデータとともに示されていて、そうなってから慌てて対策を考えてもどうにもならないことばかりである。河合氏は、もはや漠然とした希望的観測や楽観論は捨てなければならないと警鐘を鳴らす。できるだけ早急に国のかたちを作り替えなければならないと述べる。「求められている現実的な選択肢とは、拡大路線でやってきた従来の成功体験と訣別し、戦略的に縮むことである」と述べている。
 だが、それは簡単なことではない。本書は続く3割のページを使って、「日本を救う10の処方箋」なるものを具体的に提案している。だが、ここにくると、その容易ならざる状況から、本当にそんなことができるのかという、少々現実離れした論調が急に目立ち始めるように思われた。だが、河合氏の真剣な提案に、わたしなどが軽々な感想を差し挟むことは控えなければならない。
 実際、どういう対策を講じるにせよ、人口減少や少子高齢化を一気に解決できるような妙案などあるはずもなく、その進行を少しだけ遅らせることしかできないのである。

 確かに、これから確実にやって来る困難な事態をトータルに把握し、そこから生じる一つ一つのテーマをを長期戦覚悟で、今後の行政や政治の課題として地道に取り組んでいくしかないということなのだろう。対処療法で問題を先送りするばかりでは、事態の悪化が日本の社会構造を根本から蝕み、それらを一気に台無しにしてしまうような日が近付いているのだ。きわめて深刻な岐路にいまの日本はさしかかっているのである。
 本書では触れられていないが、働き手の不足がすでに各所で顕在化していることなどは、少し注意すればわたしの周囲でもいろいろ実感されるようになっている。運送業に関わるトラック運転手の不足(それと高齢化)は慢性的になっているようで、宅配業者が荷物の受け入れ総量を減らす方向で動き始めたことがニュースになっていた。引っ越し業者の運転手不足もひどいようで、この春には大量の引っ越し難民(入学や転勤に引っ越しが間に合わなくなる)が出るだろうというニュースがつい先日出ていた。
 どんどん減り続ける働き手のことを正しく認識すれば、その実情に合わせた業界内の仕組みの作り替えが必要なのだが、ほとんどのところで現状を維持することが至上命題になってしまうから、歪みは大きくなるばかりなのだろう。働き手が減れば労働の総量は減るのが当然で、効率化だの何だのは長時間労働の言い訳にしかならないのである。

 本書はすでにかなりの反響を巻き起こしているようだが(帯に「30万部!」と書いてある)、ここに示された内容は特に若い世代にとっては対岸の火事ではないだろう(もちろん高齢者にとっても無関係で済ませられることではない)。この本に関連して、今後どのような議論がなされていくのか注視していきたいと思う。
by krmtdir90 | 2018-02-25 16:48 | 本と映画 | Comments(2)

映画「バーフバリ」2部作「伝説誕生」「王の凱旋」

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 「バーフバリ/王の凱旋」というインド映画が主に若い世代を中心に支持されているらしいのを知り、ちょっと観てみようという気になった。だが、調べてみると、これは2部作として作られたものの後編であることが判った。もちろん後編にもあらすじなどの紹介はあるだろうが、どうせ観るなら前編からちゃんと観た方がいいと思った。あちこち当たってみると、キネカ大森というところで前編をやっているのが見つかった。しかも、特別上映だから料金は1000円均一だという。シニアは1100円だから料金のことは関係ないが、普段は行かない映画館というのが何となく面白そうで、少し早起きをして大森まで小さな旅を楽しんできた。
 スマホで検索して、立川から南武線で川崎に出るというルートを取った。南武線を乗り通すというのは、たぶん初めてだったのではないかと思う。駅間距離が総じて短い路線のようで、これまで縁のなかった駅を次々たどっていくのが楽しかった。
 で、10時25分から前編にあたる「バーフバリ/伝説誕生」を観たのだが、この映画館では15分のインターバルの後、後編の「バーフバリ/王の凱旋」の上映もあることを行ってから知った(もちろん普通の別料金だったが)。後編は日を改めて新宿あたりで観ようと考えていたのだが、続けて観られるなら観てしまった方がいいのではないかという気分になった。一旦外に出て(映画館は西友の5階にあった)、近くのコンビニでサンドウィッチと缶コーヒーを仕入れ、座席で慌ただしく昼食にした。最初から昼食を用意して、続けて観る計画の人も館内にはけっこういたようだった。
 上映時間は「伝説誕生」が138分、「王の凱旋」が141分と割と長めで、遠くまで旅して来ていることもあって帰りはさすがに疲れたが、やはり続けて一気に観てしまったのは非常に良かったと思った。

 わたしは昔、映画ファンだった頃から、スペクタクル超大作というのにはまったく興味がなく、「十戒」とか「ベン・ハー」「クレオパトラ」といった有名なものも(たぶん)観ていないと思う。当時は映画がまだアナログだった時代で、膨大な物量と製作費をかけて(ハリウッドで)作られたこれらの映画は、1万人の群衆シーンを撮るためには1万人のエキストラを集めなければならない時代だった。当然、製作費を大幅に超える儲けを出すことが必要になるわけで、そこに興行成績至上の何となく不純な動機を感じ取っていたのかもしれない。
 現代では映画製作はデジタルとなり、コンピューター上のCGやVFXでほとんどのシーンが製作可能になっている。この「バーフバリ」がどれほどの製作費をかけ、どれほどの興行成績を目指したものなのかは知らないが、とりあえずそういうことよりもわたしには、現代の最新鋭の技術が最大限活用されたこの映画で、現代のスペクタクル超大作がどれほどのところに到達しているのかということを、目の当たりに確認したいという興味が大きかったように思う。
 インドは、年間製作本数、映画館数、観客動員数などでいずれも世界一となる映画大国だが、落ち目のハリウッドではなくインド(通称ボリウッド)でこの超大作が作られたというのが面白いことだと思った。チラシには「世界興収300億円突破」などと書いてあるが、昔から「映画史上最大の」という謳い文句には冷ややかだったわたしが、まあ歳を取ったこともあるのだろう、この映画ではその「史上最大」を大いに楽しませてもらうことになった。

 わたしはまったく不勉強なのだが、この映画はインドの有名な叙事詩「マハーバーラタ」の物語を下敷きとしていたらしい。簡単に言えば、遠い昔のインドの架空の王国を舞台にした、親子三代にわたる王位継承争いを軸に展開する物語である。まさに波瀾万丈の物語だが、もちろんそのストーリー展開や内容の善し悪しなどを細かく云々するような映画ではない。だから、今回はその「史上最大」の描き方とか俳優のことなど、映画としては周辺に属することを中心に印象や感想を書いていこうと思う。

 まずは最新鋭の技術を駆使した画面作りだが、ここまでやるのかという圧倒的なシーンの連続に驚かされた。眼が離せなかった。恐らくいまの若い人たちは、コンピューターゲームなどでこの手の画面作りには慣れているだろうが、それでもこのド派手なスケールにはさすがに脱帽したということなのかもしれない。カメラのアングルや動きなどに一切の制約がないというのが、アナログで育ったわたしなどにはまずもって驚くべきことで、これらコンピューター処理で何でもできるようになったことの反映だとしても、現代の映画は凄いところまで来たのだなと認識を新たにした。
 何万?という軍隊が対峙する王国同士の戦闘シーンや、手を変え品を変え繰り返される主人公たちの身体を張った争いのシーンなど、現代ではこういう画面作りになるのだと自然に理解されたが、何と言えばいいのか、その目まぐるしさと言ったらとても尋常のものではないと思った。
 「伝説誕生」の最初のあたりで、主人公が巨大な滝(大瀑布)をよじ登っていくところなど、高所恐怖症のわたしは見ているだけで恐怖感いっぱいになり、お尻のあたりがムズムズし続けて参った。現実にはこんなことあるわけないじゃないかという画面作りなのだが、技術を駆使した臨場感は並のものではなく、観客をハラハラドキドキさせるツボが押さえられているから、エンターテインメントはこうでなければならないのだと納得するしかなかった。
 一方でこの監督(S.S.ラージャマウリ)は、人物をきちんと描くべきところもしっかり押さえて描いているので、そのあたりのバランスが非常に良く、観客が映画の中にスッと入り込めて、物語の対立構造(そんなに大層なものではないが)などを受け止めやすいものになっていると思った。

 ボリウッド映画の特徴である歌と踊りなどもちゃんと入っていて、恋のシーンではじっくり見せながらあくまで美しく、スケールやアイディアで見せるところは斬新なカットを重ねて、それぞれ上手に決まっていて見事だった。整列した象まで動きの中に取り入れてしまったり、空に浮かんだ帆船の甲板上で展開する群舞など、次から次へと繰り出される奇想天外な見せ場が実に楽しかった。すべてが作りものなのは判っているのだが、これだけ楽しませてくれるのならそれでいいではないかという気分になった。技術の勝利である。
 物語としては古代史劇のような色合いが強いのだが、そこにファンタジー的な空想要素も色濃く混ぜ込んだ感じで、架空の英雄譚・冒険譚としては非常に良くできた物語だと感じた。「伝説誕生」の主人公シヴドゥのたどる数奇な運命ということなのだが、滝(大瀑布)の上に広がる世界で、マヒシュマティ王国の圧政に対する抵抗勢力の女戦士アヴァンティカと出会い、王宮に25年間幽閉された王妃デーヴァセーナの救出に向かうというのが前半の展開。
 見事救出に成功したシヴドゥの前に、王国に忠誠を誓う奴隷にして最強の戦士カッタッパが現れ、シヴドゥがマヒシュマティ王国の王子マヘンドラ・バーフバリであることを告げ、彼の父であるアマレンドラ・バーフバリの生涯を語り始めるのである。このあと映画は「伝説誕生」の後半から「王の凱旋」の中盤にまたがって、マヒシュマティ王国の50年にわたる歴史と王位継承争いなどを描き出していく。継承争いに敗れたアマレンドラ・バーフバリは非業の死を遂げ、まだ赤ん坊だった王子は国母シヴァガミの犠牲によって救い出され、滝(大瀑布)の下の村で拾われ、村長の子どもとして育てられることになるのである。

 こうして物語は「伝説誕生」の冒頭部につながり、すべてを知ったシヴドゥは、「王の凱旋」の終盤では王子マヘンドラ・バーフバリとして抵抗勢力の先頭に立ち、女戦士アヴァンティカらとともに父の仇である現国王バラーラデーヴァとの最後の戦いに挑んでいく。
 映画がどういうふうに進んで行くか、観ているとストーリー展開の先がほとんど読めてしまうのだが、それは観ている者がこうあってほしいと望んでいる展開なのだ。その期待に完璧に応えてくれる爽快感はなかなかのものである。最後のバーフバリとバラーラデーヴァの対決などは、バーフバリが勝つことは見えているのだが、とにかく一進一退組んずほぐれつの戦いを延々と見せて飽きさせない。お互いこんなにやったら身体なんかボロボロになってしまうだろうと思うのだが、そんなことはまったくお構いなし、先が見えている決着だからこその猛烈なサーヴィスなのである。
 この2人を演じたプラバース(シヴドゥ、バーフバリ・父と王子の二役)とラーナー・ダッグバーティ(バラーラデーヴァ)という役者は筋骨隆々、目を見張るばかりのマッチョなのだが、これだけの肉体がこの神話的世界を実現するためには必要ということなのだろう。一方、ヒロインとなるデーヴァセーナのアヌシュカ・シェッティ、アヴァンティカのタマンナーといった女優は、アクションシーンも立派にこなせる男勝りの一面も見せながら、大人の色気もしっかり漂わせているところが魅力的だった。男も女も、日本映画のアイドルっぽいひ弱さではとても太刀打ちできない存在感で、映画スターとしての自信に満ちた風格を感じさせていたと思う。カッタッパのサティヤラージ、シヴァガミのラムヤ・クリシュナといったベテラン俳優も、非常に重要な役回りをしっかり演じて脇を固めていたと思う。ボリウッドの成熟を感じさせる映画だった。
(キネカ大森、2月19日)
by krmtdir90 | 2018-02-21 13:53 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ロープ/戦場の生命線」

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 最初に「1995年、バルカン半島のどこか」という字幕が出る。この映画は2015年のスペイン映画で、フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督(脚本も)もスペインの監督だが、映画は母国を離れて1995年のバルカン半島での出来事を描こうとしている。そこが厳しい紛争地域で、停戦直後のことであるというのは映画の中で理解できるようになっているから、鑑賞に際してそれ以上の予備知識は必要ではなかった。映画はここで活動を続ける「国境なき水と衛生管理団」という国際NGO(非政府組織)の姿をとらえている。
 少しだけ調べておくと、この紛争というのはユーゴスラビアの解体と6カ国の独立に関わる内戦のことで、1995年に停戦となるのは、そのうちクロアチア紛争とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の2つである。対立関係などは複雑でよく判らないが、バルカン半島の広い地域が、長期にわたって泥沼化した戦闘地域となっていたことは確かで、これがこの映画の背景となっている。
 映画の舞台となる地域(山岳地帯の村々)には、停戦直後から国連のPKO(平和維持活動)部隊が入っているが、武装解除は難航しており、小競り合いがあちこちで続いていて、各地に残っている地雷がNGOやPKO部隊の活動の大きな障害となっているようだ。
 「水と衛生」というのは、有名な「国境なき医師団」(ノーベル平和賞を受賞した)の重要な一分野であるようで、こういう困難な地域で活動しているにもかかわらず、その基本的立場を反映して彼らは銃などの武器をまったく携行していないらしい。

 村の井戸に死体が投げ込まれて利用できなくなってしまうというのが発端である。その現場で、ロープで死体を引き上げようとする「国境なき水と衛生管理団」の4人の活動が映画の中心的ストーリーとなる。上のチラシは主要登場人物を井戸をのぞき込む図柄に配置したものだが、上下の4人がその活動家たちである。
 右下がチームリーダーのベテラン、マンブルゥ(ベニチオ・デル・トロ、プエルトリコ系アメリカ人)、左下が同じくベテランのビー(ティム・ロビンス、アメリカ人)、右上の若い女性が新人のソフィー(メラニー・ティエリー、フランス人)、左上が旧ユーゴスラビア人で通訳を務めるダミール(フェジャ・ストゥカン)である。
 死体を結んだロープが古く、途中で切れて使えなくなってしまったために、彼らは二手に分かれて使用可能なロープを探しに行くことになる。ロープなんかすぐに見つかりそうなものだが、長い間紛争下にあった山岳地帯ではこれが容易なことではない。ようやく見つけた集落の店では主人に外国人には売れないと冷たく追い返されるし、警備所の建物で国旗掲揚に使われていたロープは停戦維持を示すものだから降ろせないと拒絶されてしまう。
 彼らを乗せた埃まみれの4WDは、急峻な斜面にへばりつくように続く無舗装の細い道路を行くしかなく、途中には道を塞ぐ牛の死体とともに地雷が仕掛けられていたりするのである。彼らの活動は、常に死と隣り合わせの困難と不条理の中にある。そうした中で交わされる彼らの会話の、一見投げ遣りにも見える様々なユーモアが、彼らの使命感の奥にある複雑な思いを浮かび上がらせる。

 上のチラシで左横から顔を出しているのは、NGO本部から現地視察に派遣されて来たカティヤという女性(オルガ・キュリレンコ、ウクライナ人)で、リーダー・マンブルゥの元恋人という設定になっている。PKO部隊に支援要請(要請は却下される)に行ったマンブルゥ(とソフィー)は駐屯地でカティヤに出会い、彼は一瞬面倒なことになったという顔をするのだが、彼女は以後グループと行動を共にすることになる。
 グループにはもう一人、途中で保護したニコラ(エルダー・レジドヴィック)という現地少年が同行しているのだが、映画は紛争が少年の家族をバラバラにしたことなども徐々に明らかにしていく(マンブルゥと少年の間に生まれた小さなつながりなども)。
 少年の家族に起こったことは過酷な運命と言うしかないものだが、一方で映画はマンブルゥとカティヤの「痴話喧嘩」を長々と映したりして、彼ら活動家たちのきわめて人間くさい一面も丁寧に浮かび上がらせている。最初チームに合流した時、マンブルゥにきつい冗談をかまされて気を悪くしていたソフィーが、今度は2人のたわいない言い争いを可笑しそうに見ているのが楽しい。
 彼らが取り組んでいる仕事は、こうした紛争地域においてはきわめて重要な英雄的行為に違いないのだが、映画はそれをことさら称賛したり美化したりして描くことはしない。むしろ、それが住民を始め紛争当事者にとって本当に必要なことなのかどうかといったことを、彼らは常に疑ったり無力感に苛まれたりしながら、試行錯誤に満ちた行為を続けるしかないということを描いている。

 途中で、井戸に死体を投げ込んだのは、給水車で水を売りに来て(もちろん密売である)資金稼ぎをする武装勢力らしいことが明らかになる。給水車に群がる村人たちを見ながら、彼らは自分たちの無力を噛みしめるしかない。ようやく手に入れた(その辛い経緯については触れない)ロープで死体を引き上げ始めても、突然現れたPKO部隊によって作業は一方的に中止させられてしまう(部隊がやって来た皮肉な経緯についても触れないでおく)。彼らの援助活動は基本的には民間の活動であって、国連軍の命令は彼らには絶対的なものなのである。
 グループは本部からの指令を受けて、また次の新たな活動地に向かって行く。難民収容所のトイレが溢れてしまったというので、雨が降ったら大変だぞなどと話していると、急に大粒の雨が4WDの窓を叩き始める。彼らの活動はこんな思い通りにならないことの繰り返しなのだ。
 最後に、ピート・シーガーの「花はどこへ行った」がかかったのには驚いた。PPMではなく、誰のカバーが使われたのだろうと思っていたら、マレーネ・ディートリッヒの歌唱だったようだ。思いがけない選曲だったが、実に効果的でグッときてしまった。
 映画は井戸をめぐるほぼ2日間の出来事を描いたのだが、結局、彼らの活動では何も進展せず何も解決しないまま終わることになってしまう。だが、件の死体は大雨で井戸の水が溢れたため、住民たちの手で簡単に引き上げられたことが最後に示される。何とも皮肉な結末だが、どんな大雨が降ったとしても、深い井戸が溢れることは現実にはとてもあり得ないと思われるので、これは映画を一種の不条理劇(喜劇)のように終わらせたかったということなのだろうか。面白い映画だったが、ここだけがちょっと納得いかないまま残ってしまったと思う。
(新宿武蔵野館、2月16日)
by krmtdir90 | 2018-02-17 17:33 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ゆれる人魚」

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 「変な映画だなあ」というのが最初の感想。何となく変な感じのするチラシに釣られて観に行ったのだが、実際に観たら「とてつもなく変な映画」だった。配給会社もこれをどう売っていいのか決めかねたようで、チラシ下段に「ポーランド発、きみょうきてれつまかふしぎな、ホラーファンタジー」とあるところに、その戸惑いが正直に出ているような気がした。配給側としてはとりあえず「ホラーファンタジー」という言葉に映画を集約したことになるが、すぐにそれではこぼれ落ちてしまうものが一杯あることが判るので、それを「きみょうきてれつまかふしぎ」という言葉で表したのだろう。その気持ち、とてもよく判る。
 この映画、原題はポーランド語で「Corki dancingu(ダンシングの娘たち)」というもので、一緒に付けられた英語題は「The Lure(誘惑)」となっている。「ダンシング」というのは、映画の主な舞台となったナイトクラブを指す言葉で、ポーランドがまだ共産主義陣営の一員だった1980年代に流行し、その後、資本主義に変わると急速に廃れてしまった一種のエンターテインメント施設だったようだ。映画に描かれたように、ライブ演奏とショーを楽しむステージにダンスホールの付いたレストランで、資本主義陣営の文化につながる夜の社交場といった存在だったらしい。
 いずれにせよ、配給会社はこの原題を生かしても何も伝わらないと考え、原題を離れて「ゆれる人魚」という(よく判らない)邦題を掲げたのだが、これは非常に的確な対応だったと思う。少なくとも「スリープレス・ナイト」の馬鹿げた対応とは正反対の、この映画と観客とを何とかつなぎたいという誠実な姿勢が見えて好感が持てる。何しろこんなヘンテコな映画はそうはないので、そこのところはこの邦題とチラシで十二分に伝わっていたと思う。

 映画というのは基本的に、リアルな映像表現を基盤とするしかないものだと思うが、人魚という空想上の産物を、こうした異様なリアリズムで造形することへの驚きがまずあった。
 この映画は、人間になりたいと願う人魚が人間の男(王子)に恋心を抱き、それを一途に貫いた結果海の泡となって消えてしまうという、アンデルセンの「人魚姫」を踏まえたストーリーになっている。世に流布している人魚のイメージは、ラブストーリーを際立たせるためにかなり擬人化され美化されたものになっていると思う。だが、ここに登場する人魚の姉妹はあくまで魚類であって、人間を餌として認識する肉食獣であることが基本の性格とされている。
 人間の姿になっている時でも、彼女たちは魚の生臭さを周囲に漂わせていて、そのことが始めの方で妙に強調されていたりする。彼女たちは水がかかると元の姿に戻ってしまうのだが、ここで現れるいかにも重量感のある長い尾ひれは、深緑色のぬめりのある鱗に覆われていて、この人魚が気持ち悪いほどに魚であることを感じさせるのである。一方で上半身は当然ながら若い娘のそれであって、これも当然のことながら乳房を普通に晒して平然としていたりする。人間の姿で現れた時も最初はオールヌードであって、彼女たちに服を着せることを考えるのは、彼女たちをダンシングにデビューさせようとする人間たちなのである。
 後半には彼女たちが実際に人間を喰うシーンなども出てくるから(当然、血まみれのシーンである)、人間の男(バンドマンの男だ)に対する恋はあっても、そこだけに特化した口当たりのいい展開にはまったくならないのである。この映画が描くのは人魚の恋と言うよりは、彼女らと人間との相容れない奇妙で気持ちの悪い関係なのだと思う。

 監督のアグニェシュカ・スモチンスカは1978年生まれの女性監督で、これが長編映画デビュー作だったようだが、何を考えてこんな奇妙な映画を作ったのか謎である。一つには、大人になる直前の思春期の少女が持っている感情のアンバランスや気味悪さといったものを、この人魚姉妹のあり方に仮託したのではないかという気がした。2人が乳房を露わにしていても不思議とエロチックな感じはしなかったし、ダンシングのショーでエロを売り物にしたようなダンスなどを見せても、どことなく青臭い未熟さが勝っていたように感じられたのである。
 大人の人間になり切れない少女の不安定な揺らぎを、この監督は何ともシュールな感性で現前させたように見えた。彼女たちを肉食の獣(魚類)と設定することで、大人以前の生理的な実感というのが思いがけないかたちで拡大されたのではなかろうか。彼女たちが見せる無防備な危うさといったものは、ベタといえばベタだけれど、初めて煙草を吸ったりお酒を飲んだりするシーンとか、また男を誘うシーンのぎこちなさなどに鮮明に表れていたように思う。それらは明らかに、大人になっていく少女たちが通る通過儀礼の一端を示している。
 陸に上がって、様々な打算や欲望がからみ合う大人たちの世界で生き始めた人魚の少女たちという設定は、最初は憧れであったとしても、海にいた頃の安定した少女時代を大きく歪めてしまうことになるのだろう。バンドマンに恋する姉のシルバー(マルタ・マズレク)のことを不安に感じながら、みずからは男を誘い出し餌にして(食べて)いく妹のゴールデン(ミハリーナ・オルシャンスカ)の蠱惑的な表情が怖い。それは、恋によって人間に絡め取られていくのか、人魚の本性によって人間と対峙していくのかという、非常に切実な分岐点を表しているのだろう。

 この映画にはもう一つ、きわめて思いがけない仕掛けが施されていた。それは、この映画が実に正統的なミュージカル映画としての側面を持っていたことである。ダンシングにおけるショーのシーンがたくさんあるから、そこでの歌やダンスが描かれるのは当然なのだが、ダンシングに入り込んだ2人が先輩歌手の女性に連れられて、大きなショッピングモール(80年代のシンボル的存在だった「セザム」という店らしい)に洋服や靴を買いに行くシーンが、「ラ・ラ・ランド」冒頭の高速道路のダンスに匹敵するような、大掛かりでパワフルな群舞によって構成されていたのである。
 これには唖然としてしまった。だが、そういえば最初に姉妹が海中から顔を出して、陸の人間に呼び掛けるところから歌は始まっていたのだ。しかも、この時の歌詞が「私たちを岸に上げて/怖がる必要はないわ/決してあなたを/食べたりなんかしない」という人を食ったもので、何だよこれはと思いながら、映画の変な世界に見事に導入されていたのである。
 音楽のことはわたしはよく判らないのだが、80年代のポーランドのダンシングで演奏されていた楽曲なども生かしながら、その時代のビートの効いた音楽を現代風にアレンジしたものなども交えて、ミュージカルとしても非常に聞きどころ・見どころの多い仕上がりになっていたということらしい。
 一方で、解釈に困るようなヘンテコなシーンなどもけっこう混ざっていて、死んだように見える人物たちを点滴で蘇生させるシーンの意味はまったく判らなかったし、シルバーの尾ひれを切断して別の人間の下半身と取り替える手術のシーンは笑ってしまった。こういうグロテスクなシーンが平然と入って来ることを始めとして、映画全体としてはまるでごった煮のようないろんな要素が渾然一体となって、危ういバランスを取りながら走り切ってしまう感じだったのである。

 この映画はジワジワとカルト的な人気が出そうな気がする。わたしが若い頃だったら、もしかするとサウンドトラックのCDを買ってしまったかもしれない。
 わたしのポーランド映画(監督)初体験は確かロマン・ポランスキー監督の「反撥」(1965年・映画としてはイギリス映画だが、ポランスキーが共産主義体制のポーランドを出て初めて撮った映画)だったと思うが、あれも思春期の少女(カトリーヌ・ドヌーブだ!)の不安定な心情と説明不能の狂気を描いていたと記憶する。いまにして思えば、あの映画も神経に来るような「変な」映画だった気がする(そんなに覚えているわけではないが)。これは、ポーランド映画特有と言っていいことなのかもしれない。何となくあの暗い感じが「ゆれる人魚」にも通底しているような気がした。
(新宿シネマカリテ、2月13日)
by krmtdir90 | 2018-02-14 21:27 | 本と映画 | Comments(0)

映画「スリープレス・ナイト」

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 日本版のチラシやポスターは、どういうつもりか完全なネタバレの文句が書き連ねてあるので、上にはインターネットで探したアメリカ公開版(たぶん)を貼り付けておく。但し、以下の文章は当然ながらネタバレである。

 時々、こういう何も考えなくていい明快な(スカッとする)娯楽映画が観たくなる。いわゆるクライム・アクション(サスペンス?)ということになるのだろうか。わたしはポスターの文句などちゃんと読まずに行ったからよかったが、最近の犯罪もの・警察ものは何らかの「ひねり」を効かせないと成立しなくなっているようで、そのぶん単純明快というわけにはいかなくなっているところがあり、そこが一つの見どころになっている映画だった。
 ちょっと判りにくいところがあるから、そのあたり、前もってスッキリさせちゃいましょうというのが配給会社の思惑だったのかもしれないが、もしそうだったとすると、あまりに観客を馬鹿にしているのではないかと言っておきたい。

 いきなりのカーチェイスで、大量の麻薬を強奪する黒人2人組がラスベガス市警の殺人課の刑事だったという幕開きは、主人公ヴィンセント・ダウンズ(ジェイミー・フォックス)とその相棒を明らかな汚職刑事として登場させている。次に、彼らに疑いを持つ内務調査官ジェニファー・ブライアント(ミシェル・モナハン)とデニソンというコンビも登場するのだから、この設定は少なくとも映画の中盤以降までは維持されなければならない。
 後半になって、実は麻薬組織の潜入捜査官だったという事実が明かされるのだが、その提示の仕方は唐突で、こうした場合に裏付けとなる伏線や影の上司の存在なども描かれないから、そう言われてもすぐには納得できない判りにくい描き方になっていた。この監督(バラン・ボー・オダー)はこの映画がハリウッドデビュー作だったようだが、そのあたりの整理の仕方が不十分で(脚本も都合良く進みすぎて)、確かにアクションシーンの連続で最後まで持って行かれてしまうが、あとで考えると腑に落ちないところもけっこうあったような気がする。
 だが、だから配給会社が事前にその弱点を埋めておくというのは話が違うのではないか。まあ、今更言っても仕方がないことなので(わたしも直接被害を受けたわけではないので)、この問題はここまでにしておく。

 とにかく観ている間はずっと面白く、途中幾つかの繰り返しでダレるところはあったものの、ほぼ息つく間もなく最後まで楽しめたと思う。こうした映画でストーリーのご都合主義などを云々しても野暮というものだろう(但し、上にも書いた語り口のキレの悪さはマイナスだと思う)。上映時間は95分、あとに何も残らないノンストップアクションとして(面白い要素はギュッと詰め込まれているし)、暇潰しにはちょうどいい長さだったのではなかろうか。
 それにしても、SFXなどに頼らない本来のアクション映画もどんどん過激になっているようで、役者というのは大変な仕事だなと思ってしまう。
 主役のジェイミー・フォックスは、単純に強さ際立つだけの作りになっていないところが良かった。女性調査官のミシェル・モナハンは熱演だったが、力のある監督ならもう一つ魅力的に描けたのではないかと思った。麻薬組織側の癖のある悪役たち(ダーモット・マローニー、スクート・マクネイリーら)もなかなか楽しかった。ミシェル・モナハンの相方デニソン(デヴィッド・ハーバー)は、出て来た時から何となく胡散臭い奴だなあと思っていたら、案の定、最後に麻薬組織と内通していたのが明らかになったので笑ってしまった。
(MOVIX昭島、2月12日)

by krmtdir90 | 2018-02-12 18:30 | 本と映画 | Comments(0)

諏訪湖の御神渡り(2018.2.9)

 先週、5年ぶりに諏訪湖の御神渡りが出現したと報じられたので、お酒の買い出しのついでに見てこようとしたら、妻も行くというので、久し振りに2人で日帰りドライブをしてきた。

 事前に調べて行かなかったので、どのあたりで見られるのか判らず湖岸の道を走っていたら、人だかりがしているところがあったので、少し離れた駐車場に車を止めて歩いて行った。
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 率直な印象を言えば、それほど大したものとは思えなかった。岸から遠望するだけなのでそう感じたのかも知れないが、もう少し隆起しているかと想像していたのである。
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 湖は全面結氷したとはいえ、氷はあまり厚くなっていないようで、厚さにかなりムラがあるのが見て取れた。御神渡りより、湖岸に押しつけられて盛り上がった氷の方が印象的だった。
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 酒蔵(舞姫)で応対してくれた青年に聞いてみたら、久し振りの出現だが高さが足りないと言っていた。
 いつになく寒い日が続いているように感じるが、以前はまだまだこんなものではなかったのかもしれない。20年ほど前に、湖岸通りから初島まで子どもたちも一緒に歩いて渡った記憶があるのだが、いまとは比較にならないくらい厚い氷が張っていたのだろう。

*御神渡り(おみわたり)とは:全面結氷した湖面が昼夜の寒暖差で収縮と膨張を繰り返し、長い亀裂ができて盛り上がる現象。マイナス10度以下の日が1週間ほど続く必要があり、近年の温暖化でなかなか出現しなかった(全面結氷しない年も多かった)。諏訪湖では、地元・八剱(やつるぎ)神社の宮司の見立てにより出現が宣言される。湖を挟んで向かい合う諏訪大社・上社の男神が、下社の女神に会うために湖上を通った跡とされている。

*帰ってから調べてみると、幾つかビューポイントというのがあったようで、それを丹念に回ればもう少し隆起したところも見られたかもしれない。というのが、いつもわたしの後の祭りパターン。
by krmtdir90 | 2018-02-10 12:05 | 日常、その他 | Comments(1)

映画「ジュピターズ・ムーン」

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 ハンガリーという国のことをほとんど何も知らない。知らない国というのは実にたくさんあって、そういう国から来た映画というのはそれだけで強い引力を持っている。
 ハンガリーのコーネル・ムンドルッツォという監督が、ハンガリーを舞台にして撮った映画だということに興味を覚えた。宣材などにSF映画とあるのも気になった。ただ、これは広義ではそう呼ぶこともできるかもしれないが、一般的な意味合いのSFとは異なって、ファンタジー的要素を絡めて現実世界を描こうとした映画だと思った。
 ハンガリーは現在、EU諸国の中では難民問題に最も強硬な姿勢を取っている国として知られているようだ。調べてみると、EU内部のこの問題に対する足並みの乱れには各国相応の理由があり、周囲を7つの国に囲まれた内陸国ハンガリーでは、国境の管理が常に大きな課題としてあった歴史も関係しているだろうと思われた。

 映画は南にあるセルビアから、シリア難民が集団で国境を越えようとするところから始まる。ボートに分乗して川を渡っている時に国境警備隊に発見され、混乱の中で多くの水死者を出すことになってしまう。必死に走って逃げ延びようとする一人の青年が、警備隊の一人に銃撃され、重傷を負って難民キャンプに収容されることになる。これが主人公のアリアン・ダシュニ(ゾンボル・ヤェーゲル)である。
 難民キャンプでアリアンを診察する医師はシュテルン(メラーブ・ニニッゼ)と言い、国境でアリアンを撃った警備隊員(かなり上の地位と思われる)はラズロ(ギェルギ・ツセルハルミ)という男である。威嚇ではない難民への発砲は違法とされ、ラズロは事実をもみ消すためシュテルンを訪ねるが拒否される。このあと、逃亡するアリアンとそれを助けるシュテルン、追跡するラズロという映画の基本的構図が出来上がる。
 これだけではどこがSFなのか判らないと思うが、アリアンは銃撃を受けた後で身体に変調を来たし、重力を操って空中に浮遊する能力を身につけてしまったのである。銃創もいつの間にか治癒していて、診察室でこのことを知ったシュテルンは、半ば信じられない思いでアリアンをキャンプの外に連れ出すのである。

 難民の青年アリアンが宙に浮かぶというのは何を意味しているのだろうか。フィクション(F)としてはあり得てもサイエンス(S)としては説明できない事態が、このあとの映画のストーリーを転がしていくことになる。
 シュテルン医師は酒に酔って医療ミスを犯した過去があり、死亡した患者の遺族に高額の賠償金を払わなければならない現実を抱えている。彼はキャンプで難民を違法に入国させる手引きをして稼いでいたのだが、アリアンの空中浮遊をネタに金儲けできるのではないかと考えるのである。それは神の起こす奇跡のようでもあり、かつて働いていた病院の患者から重篤な富裕層に狙いをつけ、この奇跡を見せることで多額の金を手に入れることに成功する。
 アリアンは違法入国という弱い立場にあり、国境での混乱の際に共に逃げていた父親とはぐれていたのである。一方シュテルンは、アリアンの父を探し一緒に国外に逃がす手助けをすると約束することで、その資金稼ぎなのだとアリアンを納得させるのである。国境警備隊のラズロに反抗したことから、難民キャンプの医師を解雇されてしまっていたシュテルンは、アリアンを新たな金づるとして手に入れたことになる。

 シュテルンは神の奇跡を利用することしか考えていないから、それが何を意味するのかを考える視点は持ち合わせていない。アリアンの方は、当面シュテルンについて行くしかないことは判っているが、彼を全面的に信用してはいないから、2人の間に信頼関係が生まれている訳ではないのである。そうこうするうちに、追跡者ラズロもアリアンが宙に浮かぶ事実を知ることになる。しかし、彼もまた自己保身しか考えていないから、追跡は激しさを増すが、アリアンの奇跡が何を意味するのか考えることには興味が向いていないように見える。
 細かい経緯は省略するが、途中にはきわめてスリリングなカーチェイスがあったり、地下鉄での衝撃的な自爆テロに巻き込まれそうになったりする。舞台になっているのは首都ブダペストだが、最後のホテル・ブダペスト(だったと思う)での大捕物(対決)に至るまでの間に、シュテルンの中に神の奇跡を受け止めようとする変化が生じ始めている。
 地下鉄のテロから危ないところで逃れたアリアンは、脱出口の外の道路から中空に浮遊していくのだが、これを目撃した女性が「天使を見た」と呟きながら祈っているのに、シュテルンは出会っている。地下鉄駅でアリアンを見失っていたシュテルンは、彼女の視線の先にあったビルの屋上でぐったりしているアリアンを発見する。抱擁したあと、シュテルンは彼の前に跪いて解けた靴紐を結んでやるのである。それは明らかに、天使に跪いているように見える構図になっていた。

 ホテルでは、シュテルンはラズロと警官隊の追撃に追い詰められ撃たれてしまうが、最後の力を振り絞ってアリアンの逃走を手助けする。自分に構わず「行け」と促すシュテルンの眼差しを一瞬受け止め、アリアンは高層階の巨大なガラス窓を破って外に飛び出す。そのままブダペストの街並みの上空に浮遊するのである。夕日が彼を照らしている。
 果たしてアリアンは天使だったのだろうか。様々な宗教説話の中に宙に浮かぶ無数の天使が姿を見せていたのは確かだし、多くのファンタジーの中にも空を自由に飛ぶ様々な存在が描かれてきたのも事実である。それが空想上の産物なのは判っているが、もしかすると現実にもあり得ることだったのかもしれないというのが、たぶんこの映画の底流をなす考え方である。
 少なくともシュテルンは、最後にその存在を肯定的に捉えようとしていたように見えた。増え続ける難民の中の一人が天使だったということに、何らかの寓意を読み取ろうとするのは安易に過ぎるだろうが、少なくともそういう設定を使いながら、コーネル・ムンドルッツォ監督が難民問題やテロの問題に接近を試みたことは確かなことだと思われた。
 説明は一切ない。何とも不思議な印象を残す映画だった。
(新宿バルト9、2月6日)
by krmtdir90 | 2018-02-08 15:27 | 本と映画 | Comments(0)

映画「苦い銭」

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 この映画を作ったワン・ビン(王兵)監督は陝西省西安市出身の中国人で、その映画はこれまでみんな中国国内で撮影や製作が行われている。だが、海外の映画祭などでは高い評価を受けているものの、国内では(この映画も含めて)まだ一本も上映されたことはないのだという。
 ワン・ビン監督はインタビューの中で、国内の映画館で上映するためには中国政府の検閲を受ける必要があり、自分は検閲を受けたことはないし、受けるつもりもないのだと述べている。この映画も、中国から出資を受けていないので中国映画ではないのだという。確認すると、確かに2016年製作のフランス・香港合作映画となっていた。
 彼の撮る映画は政治的なものではないが、中国の国家体制が自由な映画製作を阻害している部分があるということなのだろう。彼はそこを巧みにすり抜け、中国という国の隠れた側面を明らかにするような映画を撮り続けているようだ。それは中国政府にとってはあまり好ましい内容ではなく、できれば外に出したくない側面があるのではなかろうか。そのあたりの駆け引きのようなことはよく判らないが、とにかくこの映画は、驚異的な経済成長を遂げている現在の中国にあって、外からはなかなか見ることができない影の一面を捉えたドキュメンタリーになっている。

 主に2014~15年にカメラを回したと最後に字幕が出る。日本では中国人観光客の「爆買い」が話題になっていた頃だ。ちょうど同じ頃、一方にはたった1元(約17円)の「苦い銭」に一喜一憂する貧しい人々の生活があったことが記録されている。この映画が捉えるのは、農村部から都市部へと押し寄せる「農民工」と呼ばれる出稼ぎ労働者の姿である。彼らは出稼ぎに出ることを「苦い銭を稼ぎに行く」と言っているらしい。
 カメラが入った浙江省湖州市は、出稼ぎ労働者が住民の80%を占めると言われているところで、個人経営の縫製工場が1万8千を超えるほどひしめいているのだという。映画はこうしたことをナレーションなどで説明することはしないので、わたしはこれを後からプログラムなどに基づいて書いている。映画は一つの小さな縫製工場(子ども服を作っているようだ)にカメラを据え、そこで行われている過酷な労働と生活の実態を実に克明に描き出している。

 ワン・ビン監督のドキュメンタリーの撮り方は非常に特徴的なもので、対象を監督の意図で切り取ることを注意深く避けているように見えた。監督自身が回しているらしいカメラは、確かに選ばれた対象を捉えているのだが、そこで何が起こるかは判らないまま写し取られたもののように思われた。一つ一つのシーンが非常に長いものになっていて、そこで起こっていること、あるいはそこにいる人物のあり方がそれらしく関連付けられる(意味付けられる)ことがないまま、ずっと写し取られていくだけなのである。そこで自然発生的に見えてくることを、カメラ(監督)は長い時間をかけて粘り強く待ち続けている。
 それはかなり単調な映像の連続になるのだが、単なる傍観とは明らかに違っている。捉えたい何かはたぶん監督の中にあるのだと思うが、それが期待通りに撮れるかどうかは判らないということである。ずっと見続けていると、監督の予想と違った方向に事が進んでしまうことも多いのかもしれない。しかし、意図を前面に出さずにずっと見続けることで、そこに思いがけず起こってしまったことを捉えてしまうこともあるはずである。そうして集められた膨大な(たぶん)ラッシュフィルムの中から、何をどんなふうに拾い上げるかというところで、恐らくこの監督は勝負しようとしているのではないかと思われた。

 映画は最初、何の説明もなくある家族の居間に入り、そのとりとめのない会話を映し出す。どうやら、この家で16歳になった娘が出稼ぎに行くことになり、出稼ぎの先輩である年上の娘(恐らく親戚か何かなのだろう)が迎えに来ているのだということが見えてくる。次に出稼ぎ先に向かうバスの車中、さらに昼夜を越えて行くらしい長距離列車の車中の様子が捉えられていく。16歳の娘、年上の娘、さらにもう一人、これも係累と思われる若い男の3人連れである。
 このあたりまでで、上に書いたワン・ビン監督のドキュメンタリー技法はほぼ理解される。普通なら要点を短いカットで繫いでしまえば済むところを、この監督は据えっぱなしのカメラの長回しで延々と写していくのである。夜行列車は満席で、3人の他にも座席からはみ出した乗客などもいて、全体として貧しい人々の様々な生活感が自然に浮かび上がってくるようになっている。
 3人は駅に着き、迎えのオート三輪で縫製工場に向かう。彼らはそこで働き始めるのだが、いわゆる説明的なカットが重ねられるわけではないから、ああここで働き始めたんだなということが判るだけである。普通ならこの3人がドキュメンタリーの対象になって、彼らに寄り添いながらこのあと映画が進んで行くのかなと思うのだが違った。3人のうちの若い男は、当然のように行われている長時間労働に嫌気がさしたのか、一週間であっさり辞めていなくなってしまうし、残った2人の娘たちもカメラ(それを操作している監督)の対象からは離れていってしまうのである。

 思いがけない展開と言うしかないが、このあとワン・ビン監督はこの縫製工場に働く幾人かの出稼ぎ労働者(そんなにいるわけではない)にスポットを当て、彼らがいま置かれている状況とか思いなどを次々に明らかにしていくのである。一人一人の中に隠れていた個人のドラマが次第に浮かび上がり、それらが徐々に響き合いながら、出稼ぎ労働の現場が抱える様々な問題や中国社会そのものが抱える大きな矛盾をも露呈させてしまうのである。
 25歳の女性は既婚者で、子どもを故郷に残して夫婦で出稼ぎに来たらしい。夫が工場で右手の先を切断する事故に遭ったようで、彼はいまは商売が成り立っているようにも見えない雑貨屋?を開いている。始終夫婦喧嘩が絶えないようで、その一部始終をカメラが捉えたりするのである。彼らはカメラがそこにあることは判っているが、「スタート」「カット」がかかるような撮影ではないから、ずっと回しっぱなしのカメラを抱えた監督がそこにいることを、いつの間にか気にしなくなってしまうように見えた。この長々と続く「しょーもない」喧嘩の有り様は、何とも言えず可笑しく切ないものである。
 行きがかり上この喧嘩を止めに入る45歳の男は、最近は安易な金儲け話のマルチ商法に興味があるようだ。彼と同室の同じ45歳の男は、先の見えない状況に押し潰されたように、近頃はギャンブルと酒浸りの毎日を送っていることが明らかにされる。この男が酔って工場内をうろつき回り、大きな鋏をちらつかせながら相手をしないようにしている女性工員に執拗に絡んでいくところは怖い。また、29歳の青年が仕事が遅いからと解雇され、別の工場に行ってみるが恐らく続かないだろうとカメラ(監督)に語りかけて立ち去っていくところも捉えられている。。

 彼らはみんな、貧しい生活から抜け出したいと出稼ぎ労働に出て来たのだが、より多く稼ぐためには信じ難い長時間労働を受け入れるしかなく、それをしたからといって豊かになれるほどのお金は稼げないのである。彼らが旧式のミシンに向かい、一連の縫製工程を延々と繰り返すさまを、カメラは対象を変え視点を変えつつ何度も映し出して見せる。だが、そんな気の遠くなるような単純作業の対価が何元になるのかといった会話を聞いていると、彼らが貧しさから抜け出すことなど到底あり得ないことが判ってしまうのである。
 彼らが暮らす汚いアパート(寮?)の様子も映し出されるが、そんな最低の暮らしに甘んじて必死で「苦い銭」を稼いでも、貯められる金額など高が知れているのである。舞台となった縫製工場の社長という男も出てくるが、彼もまた儲けを出して豊かに暮らしているようにはまったく見えないのである。どう足掻いたところで誰も抜け出せない負のスパイラルなのだ。
 貧しいところに生まれてしまった者は、それをどこまでも続けていくしかない。カメラ(監督)はまだ19歳の同室の娘たちも捉えているが、いまは近くの工場で働く男たちの遊びの誘いをどうするか悩んでいるだけだが、やがて自分たちの未来に豊かな生活など望めないのだということに気付く時が来るのだと思うと辛い。

 印象的なシーンがたくさんあった。だが、それらがすべて出口のない貧しさの諸相なのだと考えると、何とも胸塞がれるような気持ちになった。これは中国社会の現実を写したものだが、日本でもこれと同じ下層社会が出来上がりつつあるのではないか。
 映画の最後は、工場前の路上で出荷する完成品を梱包する作業を映し出す。みんな総出で、何百という単位を巨大な袋に押し込んでいくのだが、卸に持って行った時これがどれほどの値で引き取られていくのか、それに関する会話もあったと思うが、信じ難いほど安い値段であることは見えているのである。どう考えても、同じ貧しい家の子どもたちが着せられる服である。豊かな家の子どもたちは、ここで作られるような服を着ることは決してないのだろう。安い労働力で作られた安い衣料は、国内であろうと国外であろうと、安価であることが価値であるような人々の間でしか消費されることはない。そして、そういう需要は確実に、日本にもかなり大きなかたちで存在しているのである。
 上映時間2時間43分、貧富ということの越え難い溝について考えてしまう映画だった。ワン・ビン監督のドキュメンタリーは、観る者に多くのことを考えさせるような描き方をしていると思った。まいった。 
(渋谷イメージフォーラム、2月5日)
by krmtdir90 | 2018-02-07 14:40 | 本と映画 | Comments(0)

映画「スリー・ビルボード」

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 わたしが映画から離れていた20年ほどの間に、映画は様々な意味で大きく変わったのだと思う。アナログからデジタルへという技術的転換も大きかったが、この数年、再び映画に戻って来た者から見ると、最近の映画が実に多様なかたちでこの世界を描けるようになったことに驚くのである。どんな種類の映画であっても、映画というのは常にその時代を映し出す鏡のような部分を持っていると思うが、その多様性というのは現代がどんどん多面的なものになってきて、単一の視点や価値観ですっきり割り切れなくなっていることの反映なのだろう。物事を手軽に単純化してしまうことの嘘は昔から判っていたが、では本当のところはどうなっているのかということについて、映画はずいぶん多角的に深掘りできるところまで来ているのだなと驚くのである。
 いま改めてこんなことを言うのは恥ずかしい気もするが、20年のブランクがあったのだから仕方がないということである。長い休止期間を経て再会してみると、映画はなんと面白いところまで来たのかと嬉しくなるのである。愛も悲しみも怒りも諦めも、要するにすべてが一筋縄ではいかない多面的な様相でそこに描かれるようになっていた。善も悪も(あるいは正義などというものも)、どちらとも決めかねる複雑な姿をしているのが普通なのだということが前提となってきた。昔もそういう映画はあったのかもしれないが、わたしはそういうことに気付けなかったということなのかもしれない。決めつけることができないのが人間の姿なのであって、その多面性・多様性が人間の面白さなのだということを多くの映画が描き出すようになった。これは素晴らしいことである。

 ということで、この映画になる。予告編は見ていたけれどそれ以上の予備知識はなく、道路脇の3枚のビルボード(広告看板)が関係したクライムアクションといったところかと、ある意味軽い気持ちで出掛けて行ったのである。ところが、とんでもなかった。ヘビーウェイトのボクサーがノーガードで延々と打ち合うような、圧倒的な緊迫感と先の読めないストーリー展開にどんどん引き込まれた。クライム映画と言ってもいい、アクション映画と言ってもいい、サスペンス映画と言ってもいいと思う、とにかく徹頭徹尾面白いエンターテインメント映画なのだが、登場人物すべてが単純に決めつけることのできない複雑な内面を持つものとして描かれていたことが素晴らしかった。考えてみれば当然のことなのだが、すべての人物が多面的な存在として存在していたことに驚かされたのである。
 監督・脚本のマーティン・マクドナーは、イギリスやアイルランドでずっと活躍していた劇作家だったようだが、最近では映画の脚本も書き、みずからも監督として着々と実績を積んできている人のようだった。なるほど、セリフがみんな生き生きしているし、言葉と言葉の絡み合いがまったく思いがけない方向(深み?)にストーリーを展開させていく。そのスリリングで繊細な呼吸に圧倒されてしまった。出ている役者もみんな良かったし、監督としてのカットの重ね方やシーンの描き方も見事だったと思う。まだ2月になったばかりだが、2018年のベストワン、少なくともベストスリーには確実に入ってくる映画だと思った。まあ、それはそれとして。

 アメリカ、ミズーリ州のエビングという架空の田舎町が舞台である。実際にあった出来事のように見えるが、すべてがマーティン・マクドナーの創作したストーリーで、それが実話と思えるようなリアリティを獲得しているところが見事だと思った。演出も素晴らしかったが、何よりも脚本が実に緻密に組み立てられていることに感心した。
 町に通じる寂れた直線道路の脇に、長い間忘れられていたような3枚の大きなビルボードがある。それがある日、真っ赤な地色に黒い文字で挑発的なメッセージを記したものに変わっていた。「レイプされて死亡」「犯人逮捕はまだ?」「なぜ?ウィロビー署長」。広告を出したのは町に住むミルドレッドという中年女性で、彼女の娘は7ヵ月前に何者かにレイプされて焼き殺されていたのである。その後一向に進展しない捜査にしびれを切らし、怒りを募らせての思い詰めた行動だった。このミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンドという女優が凄い。
 メッセージは田舎町の狭いコミュニティに当然のことながら大きな波風を立てるのだが、彼女は様々に降りかかってくる圧力や脅しに対して、少なくとも外見的には微塵も揺るがない頑固さを見せる。固く結んだ口許に強烈な決意を漂わせ、時に表情一つ動かさずに皮肉やユーモアの言葉を吐いたりする。その存在感は圧倒的なものがあり、敵に回したウィロビー署長(ウディ・ハレルソン)とその部下のディクソン巡査(サム・ロックウェル)に対して、まるで格闘技を思わせるような熾烈な戦いを挑んでいくのである。
 アメリカ中西部の小さな田舎町、その保守的な風土の中では、ミルドレッドの行動は次第に孤立を深めていくしかない。だが、彼女がなぜそんな過激な行動に出たのかということについて、映画は彼女の複雑な内面、つまり単なる怒りや不信だけでは説明できない悲しみや後悔といった要素を徐々に明らかにしていく。フランシス・マクドーマンドはその交錯する心情を的確に表現して、ミルドレッドという女性の苛立つ内面を鮮明に浮かび上がらせていく。見事と言うしかない。

 一方で、ウィロビー署長とディクソン巡査の造形も見事なものだった。ディクソン巡査というのは絵に描いたような過激な人種差別主義者で、キレるとすぐに暴力を振るうようなトラブルメーカーで、署内でも際立った問題児として登場していた。単純な映画なら、彼は典型的なヒール(敵役)として役を全うするだけだったかもしれない。ところが、この映画は彼の複雑な内面に次第に分け入っていき、後半思いがけない変貌を遂げていく姿を丁寧に描き出していくのである。
 ミルドレッドのビルビードでは無能と切り捨てられたウィロビー署長も、単純な色分けを空しくするような多面性を持って描かれている。署員や町の人々に信頼されていた彼は、実は癌に身体を蝕まれて余命宣告を受けていたのである。彼は映画の中盤で自ら命を絶つことになるのだが、彼が妻や子どもたちに残した遺書とともに、ディクソン巡査(新たに赴任してきた黒人署長に反抗し、直前に警官をクビになっているのだが)とミルドレッドにそれぞれ残した手紙が、この映画のストーリーを大きく展開させるきっかけとなっている。舞台劇で鍛えたマーティン・マクドナーの脚本が実に巧みに組み立てられている気がするのだが、3人の主要登場人物の生き方が、一面的な見方では見えてこない矛盾を孕んだものとしてそこにあることが自然に納得させられてしまうのである。特に、これまで数々の悪をなしてきたと思われるディクソン巡査の心の奥に隠れていたものを、ウィロビー署長の手紙の言葉が次第に溶かしていくところは素晴らしかった。
 ストーリー的にはまだまだいろんなことが絡み合っているのだが、それらに触れ始めたらきりがないだろう。とにかく最後に、到底一緒に行動することなどあり得ないと思われたディクソンとミルドレッドが、一つの車に乗って「犯人」を「殺しに」行く展開は予想を遙かに超えるものだった。

 敢えて細かくネタバレさせることはないのかもしれないが、やはり触れておきたい気がするので書いておく(以下、核心に触れるネタバレ)。
 この映画(脚本)は、住民たちがお互いのことをほとんど何でも知ってしまっているような(ウィロビー署長の癌のことも町の人たちはみんな知っていたのだ)、息苦しさに満ちた田舎町の濃密な人間関係を背景に、現代の人間が陥っている生きにくさや救いのなさといったようなものを鮮やかに描き出していると思う。だが、少なくともこのラストシーンには、困難から一歩先に突き抜けていく可能性を見せているのではないかという気がしたのである。エンディングとしては結論を先送りする曖昧な終わり方なのだが、この2人は恐らく最後までは行かないだろうという気配をわたしは確かに感じ取った。いや、明らかにそういうふうに描かれていたと思う。
 具体的に書こう。バーの片隅で酔い潰れていたディクソンが、偶然隣り合わせになった男2人の会話からレイプ事件の犯人だと直感するところは、ちょっと都合が良すぎるのではないかと思っていたら、マクドナーの脚本はそんなことはとっくにお見通しだった。ディクソンが手に入れた男のDNAは犯人のものとは一致せず、事件は結局最後まで解決することはないのである。だが、映画(脚本)の主眼は別のところにあって、この経緯からディクソンとミルドレッドの間に一つのつながりができることの方が重要なのだった。男の居場所は特定できていると言うディクソンの誘いに乗って、2人は一緒にこの男に会いに行くことになるのである。説明が難しいのだが、この時ディクソンはライフル銃を用意しているのであって、7ヵ月前の事件には無関係のこの男を、この2人がなぜ一緒に殺しに行く気になるのかという疑問は確かに存在したと思う。ミルドレッドの娘ではなかったが、男がどこか別の場所で別の娘をレイプして焼き殺したことは事実に違いないからだろうか。

 実はこの映画(脚本)には、映画の中で展開する出来事に絡めて、ここ数年の間に実際に起こった幾つかの事件を想起させるような言及がさりげなく隠されている。日本でも報道されたかもしれないが、特にアメリカではどれもかなり話題になった事件だったようだ。
 一つは、カトリックの神父が信者の少年少女に性的虐待を加えていたという事件。これはミルドレッドのビルボードをやめさせようと説得に訪れた町の神父を、彼女が毅然として追い返す際に持ち出された話題である(彼女はカトリック信者だったと思われるが、事件の後では神を信じられなくなってしまったことが見て取れる)。二つ目は、同じミズーリ州で起こった白人警官による黒人青年射殺事件(2014年だったようだ)。これは当初のミルドレッドがディクソン巡査やウィロビー署長と対峙する時に、「警察は黒人いじめに忙しくて本当の事件を全然解決してくれない」と主張することと呼応している。州内で最近起こった出来事だから、彼らの念頭には常にそのことが貼り付いていたはすなのである。
 そして三つ目がラストの展開に関係するのだが、DNA鑑定でシロと判定された男にはアリバイもあって、男は事件当時は軍隊にいて、「砂っぽい場所」に行っていたことが新しい黒人署長の口からディクソンに伝えられるのである。映画ではそれ以上の言及は行われないが、この映画について書かれたものをネットなどで探して読んでみると、アメリカ人からすればこれがイラク戦争を指すのは明らかなことで、イラクで5人の米兵がイラク人少女を輪姦し家族もろとも焼き殺した事件を容易に想起させるものなのだという。事件は2006年に起こったことのようだが、男がイラクにいた時にレイプと焼殺を行ったのであれば、全く同様のことが繰り返された可能性は非常に大きいと言わなければならない。そういう可能性を匂わせているのだとすれば、これは実に巧みな作劇と言わなければならない。

 エビングの町で起こった事件とは結びつかなくても、他の場所で全く同様の罪を犯した男がまだ捕まっていない(平然と帰国して日常生活に復帰している)のだとすると、それは何らかのかたちで裁かれなければおかしいのではないか。2人が現在置かれている不幸な(理不尽な)状況を考えれば、彼らの思いがそういうかたちで一致したとしても納得できるような気がした。
 だが、この映画が真に素晴らしいのは、車で男のところに向かう2人を、その途中できわめて中途半端なかたちで放り出してみせたことだろうと思う。最後のところの2人のやり取りを正確には記憶していないのだが、憑かれたように行動に移してはみたものの、2人の中にはいつの間にか「あんまり」積極的になれない気分が起こってきている。「どうするか」と曖昧に問いながら、「行きながら考えよう」というようなセリフをどちらかが言ったと思う。そこで画面はプツンと途切れるのである。
 実は幾らか前のレストランのシーンで、聖書にあるという「怒りは怒りを来(きた)す」という言葉がキーワードのように浮かび上がっているのである。この映画には上に書いてきた3人の他にも、鮮やかに造形された幾人かの脇役が登場してきているのだが、その中の思いがけない一人が口にした言葉である。怒りと怒りが真正面からぶつかり合うような展開の中で、この映画(脚本)はどうすればその連鎖を断ち切れるかということを一貫して問い続けている。事件の解決は最後まで見えず、仮に事件が解決しても、それが答にならないないことをこの映画(脚本)は解っている。
 言葉にしてしまうと安易に聞こえるかもしれないが、それでも敢えて言葉にするなら、それは「赦し」というものなのではないだろうか。

 激しい感情がこれ以上ないというほどぶつかり合ったあとに、この映画は不思議な静けさを連れて来たように思う。誰のどの感情にもそれなりの理由があり、それが普通はとても認められないようなものであることも多いのが普通なのだ。ディクソン巡査が屈折したマザーコンプレックスを抱えていたり、ゲイである可能性にもさりげなく触れられている。母親としてのミルドレッドが反抗期の娘を持て余していたことや、娘が母を強く忌避していた具体的事実も途中で明らかにされている。そうしたことが彼らの言動を縛り、その感情の底流になっていたことが十分に窺えるのである。
 だからこそその感情は簡単には引っ込められないものになってしまうのだが、何かが変わらなければ「怒りは怒りを来(きた)す」状況は果てしなく続くばかりなのである。この映画(脚本)は登場人物を一面的に決めてしまうのではなく、様々な背景を持った多面的な存在なのだということを描き出しながら凝視している。そこに小さな破れ目(糸口)を見出せるかどうかが、この映画(脚本)の核心だったのだと思う。それはこの上なく困難なことだったに違いない。
 短絡的な神の啓示のようなものが降りて来るわけではない。だが、2人に訪れた「ためらい」のような気配はスッと理解できたし、そこに至る過程も映画は実にさりげなく描き出していたのだと思う。そのことが観ていて実に面白かったし、これに惹きつけられていった大きな理由だったと思う。感情に任せて突っ込んでしまうことも彼らには往々にしてあったけれど、その先にフッと小さな晴れ間が見えるようなエンディングになっていたと思う。
(立川シネマシティ1、2月3日)
by krmtdir90 | 2018-02-04 21:05 | 本と映画 | Comments(0)


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