18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

<   2018年 07月 ( 10 )   > この月の画像一覧

映画「人間機械」

e0320083_185769.jpg
 最近、世界中から興味深いドキュメンタリー映画が次々に届けられるのは、映画製作がデジタルに切り替わったことと無関係ではないだろう。フィルムだった時代と比べて撮影がどのくらい容易になったのか知らないが、このところのドキュメンタリー映画は明らかに進化しているのが判り、積極的に見に行こうという気持ちを起こさせてくれる。デジタル方式で上映が容易になったことも大きく、公開される機会も増えているということなのだろう。

 この映画が描くのはインド北西部、グジャラート州にある巨大な繊維工場の労働現場である。そこが信じ難いほど劣悪な労働環境であることを、カメラは容赦なく、しかしある意味端正とも言えるようなカメラワークで次々と映し出していく。近年のドキュメンタリー映画が、安易な方向付けやナレーションなどを極力排除し、映し出される映像そのものに語らせるという方を向き始めているのはいいことだと思う。この映画ではその映像とともに、機械が出す圧倒的な騒音の単調な繰り返しがほぼ途切れることなく捉えられていて、そのことが実に多くのことを語っているように思われた。
 終盤近く、すべての音が途切れて無音のイメージショットに切り替わった時の衝撃は大きかった。ああ、この強烈な音の中で働いていたのだなと実感された。だが、工場で作られたカラフルな布地を労働者たちが思い思いに身にまとい、無言でカメラを見詰めるこのシーンは何を意味していたのか。女性が全く出てこないこの映画の中で、この労働で作られているのが女性たちに消費される布地なのだということを改めて認識させたかったのだろうか。
 実際、美しい布地の出来上がりに接しているだけでは、この過酷な労働現場の有様はとうてい想像できないだろう。こうした実態をほとんど知らなかったのだが、機械化された繊維工場ということから何となく連想される小綺麗で清潔なイメージは、完全に裏切られてしまうことになる。薄暗い迷宮を思わせる工場内をカメラは縦横に移動しながら、巨大な機械の傍らで単調な作業に従事する労働者の姿を克明に捉えていく。そこでは、布地の大きな塊や染料の容器を運んだりする、けっこうな重労働も含まれていることが見て取れる。

 男たちの汗にまみれた貧しいシャツと黒ずんだ皮膚の色、疲れ切って何を見ているのか判然としない視線と暗い表情というようなものを、カメラはかなり長回しのショットを多用しながら凝視していく。中には、まだ子どもと言った方がいいような若者の姿も混じっている。機械から延々と吐き出される布地を手の先に受けながら、何度も居眠りしてしまいそうになる少年の姿、また、積み上げられた布地の上や脇で、たぶんしばしの休息を取ろうとするうちに、死んだように眠り込んでしまった男たちの姿なども捉えられている。彼らはみな無表情で、全身が限界まで疲れ切っていることが明らかに見て取れる。その姿から生気をを感じ取ることはきわめて難しいのである。
 この映画では、布地が作られていく工程などはまったく興味の対象になっていない。ここで働く者たちもそんなことは意識していないし、自分がどんな生産ラインのどんな工程を担っているのかも判っていないのだろう。彼らは毎日、延々と続く単調な作業の繰り返しに耐えているだけなのであり、何を感じ何を考えながらここにいるのかまったく覗うことができないのである。
 時折挟み込まれる短いインタビューによって、彼らが極端に安い賃金で一日12時間も働かされ、労働組合も作れないでいるといった事情が次第に明らかになっていく。だが、この映画はそうしたことを告発する方向に進もうとはしていない。ただ、想像を絶する劣悪な環境下で働く彼らの姿を淡々と積み重ねていくだけである。あえて告発の姿勢を示さなくても、そのことは映画の中に有無を言わせぬかたちで記録されているのであり、こうして映画が公開されることで大きな意味を持つことが信じられているのだと思う。

 プログラムの解説によると、急激な経済成長を遂げたインドにあって、ほとんど規制の掛からない急速な工業化が進められた結果、こうした前近代的で非人道的な労働現場が多数放置され、貧富による格差と社会的な分断が拡大し続けているのだという。こうした工場で働く人々の多くは出稼ぎ労働者で、彼らは年間10ヶ月ほど就労し、1、2ヶ月だけ故郷に帰るというパターンで働いているらしい。8時間を超える労働に超勤手当が付くことはなく、法定の最低賃金以下で働くことが長期間当然とされてきた現実があるようだ。
 監督のラーフル・ジャインによると、グジャラート州のこの地域には1300ほどの工場が集まっていて、撮影された工場はその中でも一番いいと言われている工場なのだという。わざわざ劣悪な環境を強調したわけではないのだ。
 インタビューの監督の言葉の中に印象的だったものがあるので、書き抜いておきたい。「労働者に対してこの映画で何が出来るか」という問いに答えたものである。「この映画は、労働者階級のために作られた映画ではないです。彼らは映画を観る余裕さえないですからね。我々、中流・上流階級の人たちが、余裕のある人たちが考えて、それに従って行動を起こして行く、そのための映画だと思います」。

 非常に印象に残るシーンがたくさんある映画だったが、その背後に見えている容易には動かしがたい現実に暗然たる思いにさせられる。この現実に対して、何らかの感想を述べることが簡単にはできない映画だった。中国の縫製工場での出稼ぎ労働を描いた「苦い銭」を思い出したが、ドキュメンタリーとしてはこちらの方がシンプルなぶん、一つ一つのショットが多くのことを含んでいるような気がした。だが、どちらもドキュメンタリー映画の役割といったものを正面から受け止め果たそうとしている、記憶されるべきドキュメンタリー映画に違いないと思った。
(渋谷ユーロスペース、7月26日)
by krmtdir90 | 2018-07-28 18:05 | 本と映画 | Comments(0)

映画「菊とギロチン」

e0320083_20353999.jpg
 瀬々敬久監督、構想30年、上映時間189分の入魂作というので、それなりの覚悟をして見に行ったが、彼にしてはかなりわかりやすい作りになっていて、終始面白く見ることができた。監督得意の群像劇だったが、展開する人間関係にまとまりがあって、何より「ヘヴンズストーリー」のように関係のないストーリーが突然割り込んで来たりはしないので、ストレスなく物語の流れに身を任せることができた。
 大正末期、関東大震災(1923・大正12年9月1日)の直後を舞台に、当時日本各地で興行が行われていたという女相撲の一座と、これも当時実在したらしいアナキスト結社のギロチン社という、非常に興味深い2つの集団を結びつけたアイディアが素晴らしいと思った。この結びつきは現実にあったものではないが、想像力の中でこの異質な集団を出会わせたことで、そこに思いもよらない熱い化学変化を起こすことに成功していたと思う。映画としてはあちこちに破れ目を残しながらも、エネルギッシュな演出でぐいぐい押し切ってしまう瀬々監督の力業が見事に決まった感じがした。瀬々監督の代表作となる一本ではないだろうか。

 数ある見世物興行の中でも、女相撲というのは常に官憲の(風紀を乱すという)偏見や弾圧に晒され、にもかかわらず、貧しい民衆の根強い支持を受けてしぶとく生き延びたものだったようだ。映画は玉岩興行という女相撲の一座(もちろん架空の一座である)の興行の様子を、非常に生々しく画面上に再現して見せている。物語の中心をなす花菊(木竜麻生)・十勝川(韓英恵)を始めとする女力士たちや、座長の玉三郎(渋川清彦)といった面々の存在感が半端ではなく、特に厳しい特訓を受けて出演したという女優陣の力士としての取り組みの一部始終には目を見張った。
 瀬々監督の彼女たちに対するリスペクトがよくわかり、彼らの稽古や生活の様子なども丁寧に描かれていて、個性豊かな女たちの姿をしっかり描き分けていたのも見事だった。瀬々監督はやればできる監督なのであって、いろんな映画でついいろいろなところに視点を広げてしまいがちなのだが、この映画では珍しく腰を据えて、一座の様々な側面をとことん見詰めようとしたことがうまく作用していたのだと思う。
 一座には不幸な境遇の女たちが救いを求めて加わることも多く(それを受け入れてきた座長・玉三郎の懐の深さが印象的で、演じた渋川清彦ははまり役だったと思う)、花菊は後妻となった農家の乱暴な夫から逃げて来たのであり、十勝川は遊女だった過去を持つ朝鮮籍の女だったのである。彼女たちは偶然見かけた女相撲にみずからの突破口を求めたのだが、その「強くなりたい」という思いが、「強くなって自由に生きたいのだ」という願いにつながっていることが、有無を言わせぬかたちで画面から伝わってきたのが素晴らしかった。この切実さの熱量は並のものではなかった。

 これと比べると、ギロチン社の男たちの方ははなはだ心許なかったと言わざるを得ない。もともとアナキズムというものに対する傾倒に頭でっかちなところがあり、生活の重みを一身に背負った女たちの前では、空理空論に踊るだけの何とも頼りないひ弱さを露呈させてしまうのである。時代に対する彼らの危機感や使命感は一途なものだったかもしれないが、現実から理想へと架橋する実現可能な方策がまったく見えていないから、方向の定まらない議論を果てしなく続けるしかないのである。ギロチン社の男たちの多くは実在人物として登場していたようだが、女相撲の面々と異なり、一人一人の個性がほとんど見えてこなかったのはこのためだったと思われる。瀬々監督は意図的にそうしたのかどうかはわからない。
 彼らの幾人かがたまたま見に行った女相撲に衝撃を受け、彼女たちの生き方に思わず吸い寄せられていくというのは理解できる。と言うより、この部分に説得力がなければこの映画は成立しなかったはずで、それは論理や計算で割り切れるようなものではなかった。この2人、中濱鐵(東出昌大)と古田大次郎(寛一郎)というのは実在人物だったようだが、彼らと花菊・十勝川との「恋?のようなもの」を設定したことが、この映画に魅力的な奥行きを与えている。
 もちろん、映画はその「恋?」の行方を追ったものではなく、実際、ほどなく中濱と古田は逮捕されて死刑になっているのである。映画が描くのは、大震災直後(9月16日)に殺害された大杉栄の復讐を口にしながら、どんどん八方塞がりになっていく時代状況の中で、闇雲に動き回るしかなかった自称アナキストの男たちのわずかな燦めきのようなものだったのかもしれない。

 女相撲とギロチン社という、何のつながりもなかった女たちと男たちの情熱を、想像上の物語として共振させるという企みは成功したのではないか。「差別のない世界で自由に生きたい」という願いが、驚くような切実さで浮かび上がってきたのは驚きだった。瀬々敬久という人は、どんなかたちで映画を撮っても、現代というものとストレートに対峙するところから映画を組み立てているのかもしれない。この映画の、まさにアナーキーと言うしかないエネルギーの発露は希有のものだったと思う。
 女相撲もギロチン社もすでに過去のものだが、いまこれらを甦らせたいと考えた瀬々敬久監督の思いは確かに受け止めた。
(テアトル新宿、7月24日)
by krmtdir90 | 2018-07-27 20:35 | 本と映画 | Comments(0)

久し振りに「くっぱ」の芝居

e0320083_22204653.jpg
 卒業生の「くっぱ」こと髙橋ちぐさからメールが来て、久し振りに役者をやるから見に来てほしいというので行って来た。彼女は、両国にあるスタジオアプローズというところにずっと出入りしているらしく、そこのプロデュースによるC.a.T.第2回公演となっていて、演目は堤泰之作「煙が目にしみる」というものだった。
 見始めてすぐ、ああ、これはどこかで見たことがあるなと思って、帰ってから調べてみると、数年前の関東大会で千葉県の高校がやったのをたまたま見ていたのだった。高校生と比較しても仕方がないが、今回はちゃんとオトナがやっているわけだから、それなりに見せるべきところをきちんと演じてくれていて(当たり前だけれど)、なるほどなと思った。煙草を小道具としたやり取りなど、ホントに煙草を吸うオトナでないと出せない呼吸というのがあると思う。味のある芝居を幾人かは(全員がとは言えなかった)見せてくれていたと思う。
 髙橋くっぱは、原田泉という、芝居の流れにちょっと異質な笑いでアクセントをつける夫婦の役どころだった。こういうキャラクターが合っているのか、夫役の役者とともに楽しそうに演じていてよかった(昔のイメージとは違うのだが、もう何十年も前のイメージとは違って当たり前ということなのだろう)。位置づけとしては脇役だが、こうしたところがしっかりした演技をしてくれると芝居にふくらみが出る。
 ただ、芝居全体として見ると、演出に若干繊細さが欠けている(作戦の欲しいところが上手く作り切れていない)ような感じがあったので、脚本の面白さをどこまで出せていたかという点では、やや物足りない印象も残った。くっぱの役も(あえてダメを出すなら)、もう少し押さえ加減で(丁寧に)やった方がいいように感じたところもあった。
 楽しい時間をありがとう。また連絡ください。
(7月25日、マチネ)
by krmtdir90 | 2018-07-26 22:22 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

映画「ゲッベルスと私」

e0320083_21495930.jpg
 オーストリアのウィーンに拠点を置くブラックボックス・フィルム&メディアプロダクションというドキュメンタリー専門のプロダクションが製作した映画らしい。最初に映画の基本情報を転記しておく。2016年・オーストリア映画、原題「A GERMAN LIFE」、上映時間113分、ドイツ語、モノクロ・ハイビジョン、画面サイズ16:9。監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、オーラフ・S・ミュラー、ローラント・シュロットホーファー(4名による共同監督)。

 映画は、ナチス政権下のドイツで、ヒトラーの右腕と言われた国民啓蒙宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの下、1942~45年の3年間、大臣官房秘書室に勤務したブルンヒルデ・ポムゼルという女性のインタビューを構成したものである。彼女はベルリン陥落とともにソ連軍に拘束され、5年間の収容所生活ののちドイツに戻ったが、当時のジャーナリズムにセンセーショナルな取り上げられ方をしたため、以後マスコミの取材などには一切応じないようにしていたらしい。
 この映画が作られたということは、製作者たちの説得を彼女が受け入れたということになるが、映画の撮影が行われた2013年には彼女は何と103歳になっていたのだという。インタビューは1回につき1時間と区切って行われ、合計30時間分の記録が残されたということらしい。ナチスの中枢で働いていた人物がいまも生きていたというだけで驚きだが、この人物のインタビューが記録されたことはまさに奇跡的だったと言っていいのだろう。彼女は映画完成からほどなく、2017年1月に106歳で亡くなっている。

 完成した映画では、インタビュアーの質問などはすべてカットされていた。ナレーションや音楽などもまったく付け加えられないかたちで、彼女が語った言葉だけが(もちろん取捨選択は行われているが)残されることになった。一つ一つ言葉を選んで語る彼女の映像(年齢を考えると非常にしっかりしたものである)は、様々な角度から捉えられた顔の表情のアップだけで構成され、異様に深く刻まれた爬虫類を思わせるような顔の皺が繰り返し強調されている。
 その上で、この映画は映画にしか出来ない一つの表現を付け加えている。大戦当時の様子を映し出す様々なアーカイヴ映像を、インタビューの間に挟み込むという編集を行ったのである。映像はプロパガンダなど一定の意図の下で製作されたものだが、その旨を字幕で明らかにし、すべてオリジナルなまま挿入して、彼女の言葉とのズレを浮かび上がらせるような効果を持たせている。ポムゼルに対するインタビュー映像と合わせて、映画製作者たちはすべてを可能な限り手を加えないかたちで提示し、その総体から何が見えてくるかを確かめようとしているように感じた。

 ポムゼルは嘘はついていないかもしれないが、たぶん彼女の言葉がすべて真実であるとも言えないに違いない。ナチによるユダヤ人「虐殺」を「信じられないかもしれないが」知らなかったという彼女の言葉を、そのまま受け入れることは難しいと思う。ユダヤ人「迫害」ならどうだったのか。彼女の友人だったユダヤ人女性エヴァ・レーヴェンタールの消息についてはどうだったのか。ゲッベルスの下で多くの文書をタイプしていた彼女が、何も知らなかったというのはどうしても無理があるような気がする。戦後の70年を生き抜く中で、彼女の記憶は取捨選択されるしかなかっただろうし、不都合な真実が記憶から消された可能性は大きいに違いない。
 だが、その矛盾をほじくり返して彼女を非難することは誰にも出来ない。それは意味のないことである。彼女は、ドイツ国民全体には罪があるけれど、自分には罪はないのだと必死で自分を納得させて長い戦後を生きてきたからである。それしか彼女の生きる道はなかったし、多くの平凡なドイツ人にとってもそれ以外の選択肢はなかったのだと思う。

 この映画は何かを告発しようとする映画ではない。彼女の言葉に嘘はなくとも、その内容が恐らく真実とは微妙にズレている事実を浮かび上がらせることが、この映画の意図したことだったように思う。たぶんそれは自然なことなのであって、それを前提としてもなお、彼女の言葉には現代社会の様々な状況に対してストレートに響いてくる多くの示唆を含んでいるということなのである。
 彼女が政治には無関心で、ただ上司に信頼され一生懸命働いて満足していただけなのだというのは本当だろう。だがその中で、見ようとすればたぶん見えたもの、あるいは見えていたのに目を背けて見ようとしなかったものもあったということなのだろう。しかし、あの体制の下で、そこから逃げることは絶対に出来なかったという彼女に反論することはできない。彼女があの時代を後悔していることは確かだが、そこで必死に上昇しようと生きたことを否定することはできないのである。

 何も余計なことを付け加えず、思いがけずインタビューできた機会をしっかり見詰めようとした映画である。製作者たちの色をまったく付けなかったことで、見る側がいろいろなことを考えてしまう映画だった。岩波ホールの客席はだいたい高齢者が多いが、今回はいつも以上にそれを感じた。若い人や政治家が見るべき映画だと感じたが、かなりかったるい印象があるから難しいのだろうなァ。
(岩波ホール、7月17日)
by krmtdir90 | 2018-07-18 21:50 | 本と映画 | Comments(0)

「泥濘(ぬかるみ)」(黒川博行)

e0320083_2073671.jpg
 黒川博行が新作を書いたというので、早速買って来てしまった。読み始めた時間が遅かったから、翌日の午後に読み終わった。
 疫病神シリーズはこれが第7弾になるらしい。すっかり嵌まってしまったが、常に期待を裏切らない安定感は大したものである。このシリーズのいいところは、いつも登場してくる主要人物の設定が実に面白く出来ていて、新作でまた彼らに会えるというのが楽しみになってしまうのである。ここまで続くと書く方は大変かもしれないが、黒川博行には新しいものに色気を出したりせず、ずっとこのシリーズを書き続けてもらいたいと思っている。

 確かに、書いていれば毎回何らかの新機軸を入れなければならないから、そこのところは苦労しているのだろうと思う。最近では桑原の破門というのが大きな鍵になり、それが2作続いて解決したあとの新作である。
 今回は帯の惹句にもある通り、桑原が撃たれて一時心肺停止になるというのがヤマになっている。これまでも桑原はけっこうあれこれやられていたが、心肺停止というのはギリギリのところまで行ってしまった感じである。もちろん助かることは判っているのだが、書く方としては、もうこの線で先に行くことはできなくなってしまったということである。今回二宮は捻挫で済んでいるが、堅気の彼をこの先に行かせるのはシリーズとしては禁じ手になってしまうし、次を考えるのは大変だろうななどと思いながら、早くも次を待つ気分になってしまうのである。

 シリーズとして読み継いでいると、主要人物(の書き方)に微妙な変化が生じてきているように感じるところもある。
 二宮にとって桑原は疫病神という位置づけが始まりだったが、二宮の側の巻き込まれ感は次第に薄まってきており、最近では二人はすっかり「いいコンビ」になってしまったように見える。口では相変わらずお互いをボロクソに言っているが、今回は最後に悠紀の口から「啓ちゃんと桑原は友だちやんか」とか「どこまで行っても桑原と縁が切れへんねん」などと言わせたりしている。桑原が死に直面したことで、二宮の気持ちが見えてきたところもあったように思う。
 二宮については、父親が二蝶会の元幹部だった関係で、現二蝶会組長の嶋田に可愛がられているということが、けっこう大きなファクターになってきているような気がする。
 桑原が塀の中にいた時に読書の楽しさに目覚め、凶暴なヤクザのくせにけっこうな読書家であるなどという側面も、最近かなり強調されてきたことだと思う。

 単行本は税込み1944円だったが、映画の1100円(+交通費・プログラム代)と比べると安いものだと思う。もっとも、どちらにも当たり外れはあるわけで、当たりを探す手間を考えると、読書より映画の方が楽かななどと考えてしまう今日この頃である。
by krmtdir90 | 2018-07-13 08:00 | 本と映画 | Comments(0)

映画「君が君で君だ」

e0320083_205144.jpg
 期待外れが2本続いてしまった。監督が松居大悟だというので見に行ったのだが、これまでに見た2作と比べるとあまり面白くなかった。
 どうしてそういうことになったのか。「私たちのハァハァ」(2015年)の脚本は舘そらみ・松居大悟となっていて、一応共同脚本というかたちだが、主に書いたのは舘そらみの方だった。「アズミ・ハルコは行方不明」(2016年)には山内マリコの原作があり、脚本は瀬戸山美咲となっていて松居大悟は絡んでいない。対する今回の映画は、原作・脚本:松居大悟とあって、完全に彼のオリジナル脚本だったようだ。恐らくこのことが面白くなかった原因ではないかと思っている。
 設定に説得力がないというのはかなり決定的なことだと思う。だが、映画というのはそれですべての可能性が閉ざされてしまうというものでもないだろう。問題は、その設定で何をしたかったのかがよく判らないというところだと思う。どんな突飛な設定であっても、それを動かしていくうちに思いがけないものが見えてくるということもないわけではない。だが、この映画にそういうものは見えてこなかった。どう考えても通俗的としか言えないような終盤の展開は、「ちょっと、これではダメだろう」と言うしかないような気がした。
 この設定を面白がっているのは松居大悟だけであって、この展開に説得力ありと納得しているのも松居大悟だけだったように思う。

 要約すると、「愛する女性が憧れる人になりきり、自分の名前すら捨て去って、10年間にわたり彼女を見守り続けた3人の男たちの愛の行方」というのだが、「見守る」と言えば聞こえはいいが、要するにこれはストーカー行為であって、そういうことを描いてはいけないと言うつもりはないが、この極端な描き方には乗って行けないような気がした。
 3人が「なりきる」のが尾崎豊、ブラッド・ピット、坂本龍馬というのだが、この「なりきり」がどういう具体性を持っているのかがはっきりしないから、「自分の名前を捨てる」と言われてもどういうことを指しているのか判らないのである。また、定職に就いていないように見える3人がどんな生活をしているのかも不明で、それを「10年間」続けたという実態はまったく見えてこなかったように思う。
 現実にそんなことあるわけないじゃないかという設定を敢えてしているのは判るから、その方向から説得力がないと言っているわけではない。問題はなぜそういう設定が必要だったのか、きわめて非現実的なその設定でしか浮かび上がらないものがあると考えたのだとすると、それが何なのか見えないから説得力がないと言っているのである。男たちの「純情」というようなものに触手を伸ばしているように感じられるが、それこそ「馬鹿言ってんじゃないよ」ということではないか。
 まあ、これを面白いと言う人もいるかもしれないから、とにかくわたしとしてはダメだったということで今回は終わりにしておくことにする。
(新宿バルト9、7月10日)
by krmtdir90 | 2018-07-12 20:05 | 本と映画 | Comments(0)

映画「パンク侍、斬られて候」、そして原作(町田康)

e0320083_2192746.jpg
 映画そのものはあまり面白いとは思わなかった。改めて「パンクとは何ぞや」などと言うつもりはないが、映画がそういうものを標榜すると、どうしてもぶっ飛んだイメージを連発しなければならないような感じなり、それを少しでも「こけおどし」じゃないかと思ってしまうと、その羅列に「はあ~、そんなものですかね~」という印象しか持てなくなってしまうのである。
 奇想天外、荒唐無稽、どんなふうに言ってもいいが、最初は「なんじゃ、こりゃ~」などと驚いても、次第に「ああ、そういうことなんですね」となり、結局「だからどうなの?」となって終わってしまうような気がする。特にSFX技術が飛躍的発達を遂げた現代では、もはや映像的に作れないものはないと言ってもいいくらいになっているのだから、映画がそういうところで勝負するのはまったく空しいことになってしまったのだと思う。

 監督の石井岳龍は以前は石井聰亙を名乗っていて、その初期の映画数本(1980年前後)をわたしは見た記憶がある(例によって、ほとんど忘れてしまったが)。だが、当時の彼の映画がその「パンク」性で評価されたとしても、それから映画をめぐる環境は大きく変わってしまったのである。映像で「パンク」をやろうとすることは、いまや完全な袋小路に嵌まっているのであって、その認識なしに闇雲に突っ込んでも成果を上げることはできないのである。脚本を書いた宮藤官九郎にも、そのあたりの現状分析は欠けていたということになるだろう。
 公式サイトなどには、スタッフも含めて「パンク」を作るためにいかに苦心したかといったことが縷々記されているが、出来上がったものは少しもこちらの想像力を刺激しない、凡庸で美しくない(美しくないというのは決定的なことだ)イメージの連続にしかなっていなかった。綾野剛を始め達者な役者を集めているのに、彼らの演技力を発揮させることより、彼らを「パンク」の幻想に奉仕させるような使い方しかしていなかったということである。これでは面白い映画になりようがないと思った。
(立川シネマシティ2、7月6日)

 期待外れだったので映画の感想は書かなくていいかと思っていたのだが、ふと「原作:町田康」というのが気になってしまったのである。これほどの奇妙奇天烈なストーリーを、果たして言葉だけで説得力あるかたちに組み立てられるのだろうかと考えてしまった。そもそも「パンク」を最初に言い出したのは原作なのであって、当然ながら、それが小説から始まったというのは非常に興味深いことだと思った。
 町田康が、パンクロックのミュージシャンでありながら芥川賞(2000年)を取ってしまった作家だというのは知っていたが、これまでその小説を読んだことはなかった。調べてみると、原作は2004年に書かれたもので、いい機会だからちょっと読んでみるかという気分になった。近所の本屋に行ってみると、文庫本には映画公開に合わせた全面帯が二重掛けされていたが、それを外すと、著者自身の写真を使った帯が掛けられていた。まったく、よくやるわい。
e0320083_14494745.jpg

 結論を言えば非常に面白かった。だが、これを映画にしたいと考えた石井岳龍と宮藤官九郎は大きな勘違いをしていたと思う。ここにあるぶっ飛んだストーリーとイメージは、言葉で作られているから凄いのであって、直接的な表現である映像や音に置き換えた途端に、力を失ってしまうということに気付くべきだったのではないか。あまり言葉の力をナメない方がいい。あるいは、あまり映像や音の力を過信しない方がいい。
 14年前、この小説が世に出た時どんな評価を受けたのかは知らないが、これまでこんなことをこんなふうに書いた小説家はいなかったし(たぶん)、これを、初めて言葉で作られた(活字で表現された)「パンク」とすることに異議はないと思った。こういうことを仮に思いついたとしても、それを最後まで破綻なくやり切ることは至難の業だったにちがいない。

 一応時代小説のかたちは取っているが、使われる言葉としては現代口語のような多様な言葉が混在していて、登場人物の考え方や行動などには明らかに現代社会の反映が見て取れるのである。時代ものと言っても、彼らはほとんど現代人そのものと言っていいように思った。物体浮遊の超能力があったり猿が人語を喋ったり訳の解らんいい加減な新興宗教があったりなど、尋常ではない様々な道具立ても、すべてが現代社会の(その行き着いた先で必ず露呈する)何とも言えない無茶苦茶さを表しているような気がしてくるのである。
 「パンク」をサブカルチャーの一つのかたちと見るなら、いろいろなところに強固に存在する既成のカルチャーを骨抜きにし、その依って立つ理論的基盤を根底から覆してしまうような、一種の無政府状態を実現させることだと言えなくもないように思う。そういう意味では、この小説が徹頭徹尾言葉の世界だけで成し遂げようとしたのは、小説というそれなりに安定したカルチャーの徹底した転覆だったのかもしれない。
 「パンク」は思潮であるより現象である側面が強いから、これは一回限りの成果を持って終わるべきものなのだと思う。わたしは町田康をこの一作しか読んでいないのだから、断定的な物言いは避けるべきだが、この試みはこの一冊で完結したものになったように感じている。だから、この小説は後にも先にもこの一作限りであって、けっこうエポックメイキングな小説だったと言っていいのではないかと思った。

by krmtdir90 | 2018-07-11 14:52 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ガザの美容室」

e0320083_21304365.jpg
 最後の数分間を除いて、カメラはほとんど美容室内部の出来事だけを映し出す。カーテンが引かれた隙間から時折外の様子が見えたりするが、内と外ははっきりと区切られていて、閉ざされた美容室の中の13人の女たちの姿を、映画はじりじりと経過する時間とともに克明に捉えていく。いわゆるワンシチュエーションドラマなのだが、その中に閉じているのかというとそんなことはなく、それが外の世界をこんなにも感じさせてしまうのが素晴らしいと思った。外で営まれている女たちの日常というものも、この映画は鮮やかに浮かび上がらせていたと思う。
 ここには女性しかいないから、みんな(一人を除いて)ヒジャブをしておらず、男性の視線がなければそれでいいのだというのが、彼女たちを少しだけ自由な気分にさせていたのかもしれない。交わされる会話が思いがけず生々しい感じがして、これは女性監督なのかと思ったら、黒々とした髭を生やしたアラブの男性監督(タルザン&アラブ・ナサール兄弟、ガザ地区出身の一卵性双生児だという)だった。これが長編第一作だったようだ。
 彼女たちが生活しているのはパレスチナ自治区のガザ地区である。ここがどういう状況に置かれているのかは、あくまで映画の背景として置かれているに過ぎないところがこの映画の特徴になっている。そういう描き方をこの監督たちはしている。しかし、この背景こそが女たちの生活に決定的な影響を与えていることもまた自明なのである。

 外の世界は男たちが支配していて、女たちは基本的にそれに振り回されるしかないのだが、このガザ地区の複雑な状況について、この映画はほとんど何も語ろうとはしていない。結局、映画を見た後でいろいろ調べて、まったくの付け焼き刃で以下を書くしかないのだが、それは概ねこんな感じになるのだろうか。
 ガザ地区は東京23区の6割ほどの面積で、そこに200万人以上のパレスチナ人が住んでいるらしい。2007年以降、この地区を実効支配しているのはハマスというイスラム政党である。これをテロリスト集団と見るイスラエルとエジプトが国境封鎖を行ったため、ガザの人々は地区の外との往来がほとんどできなくなり、満足な物資や支援も入ってこない状況が続いている。発電所が破壊されたため、停電が日常茶飯事となっていて(自前の発電機を動かそうにも、ガソリン不足で思うに任せないといった様子が映画の中にも描かれていた)、交通機関や水道、病院といった社会インフラは壊滅的な状態に追い込まれているらしい。治安も悪化しており、イスラエルの空爆などもあって、その都度多くの死傷者が出ているが、そうしたところはこの映画では描かれていない。
 映画の後半になって、美容室のすぐ外の道路で戦闘が始まり、女たちはシャッターを下ろした美容室の中に閉じ込められてしまう。これは、マフィアと呼ばれる武装した不満分子をハマスが制圧する戦いだったようだ。ガザの住民は常にこうした危険や不自由に晒されているのであり、先の見えない不安や絶望感の中で日々(男も女も)生活しているのである。

 映画は人々のこうした苦難を直接に描くのではなく、一旦すべてを背景に後退させてしまうことで、ガザの女たちの(不条理と言うしかないような)日常を描くことに成功している。舞台を美容室の中に限定することで、あくまで普段の姿を捉えることに徹しようとする(もちろん、そこには男たちの日常もしっかり見据えられている)この視点は新鮮だし、実にいろいろなことを見る者に考えさせるものになっていると思った。ガザは巨大な「監獄」に喩えられることもあるようだが、そういう場所でも人々は日常生活を続けていくしかないのである。
 そもそもこんな混乱した市中で美容室が営業していること自体が驚きだし、そこにいる女たちがそれぞれ切実な事情を抱えていることが見えてくると、こうした困難の中でも需要が失われていないという事実に、彼らの生活の重要な鍵が隠されているという気がしてくるのである。生活の根底にある様々なもの、と言ってもいいかもしれない。ただし、映画の冒頭から美容室の空気はどことなくギクシャクしていて、和やかな雰囲気とはほど遠いものになっている。むしろ、お互いへの反撥や冷ややかな行き違いといったものが画面に見え隠れしているのである。
 彼女たちは辛く苦しい毎日を生きているから、常に自分のあり方や他人の生き方を確認し検証しているということなのかもしれない。それぞれが妙に我を張って、意固地になっているように見えるのは、直面する困難に流されまいとする必死の抵抗のようなものだったかもしれない。実際、こんな状況下では安易な妥協や馴れ合いは何の意味もないということになるのだろう。

 イスラムは男性優位の社会だが、女性は従属するだけの弱い存在などということはあり得ない。彼女たちは誰も自分を諦めてはいないし、終盤近く、感情的対立から罵り合いを始めた二人の客に対して、美容室の店主が「わたしたちが争ったら、外の男たちと同じじゃない!」と叫ぶところはドキリとさせられた。薬物を止められないお客の一人が、「もし女だけの政府を作るとしたら・・」と冗談のように喋り出すところは(ややメッセージが生だけれど)なるほどなと思った。
 ドラマということで見ると、最後に大きな展開が待っているが、それまでは閉塞状況の中で各人の事情が少しずつ変化するだけである。外の戦闘のせいで結婚式に間に合わなくなってしまった娘と母親とか、弁護士とのデートができなくなってしまった離婚調停中の中年女とか、戦闘につられるように出産の気配が出始める臨月の妊婦とか、当人たちにとっては切実なことかもしれないが、それらは個人的な事情の僅かな変化と言えなくもない(もちろん、映画はそんな突き放した描き方をしているわけではない)。
 だが、ドラマチックな展開は、外のものが不意に女性たちの中に侵入してくることで起こるのである。美容院でアシスタントをしている娘は、外にいるマフィアの恋人との将来について自信が持てないでいた。この二人に関係はここまでしっかり点描されてきたが、外の戦闘で傷ついた恋人が瀕死の状態で中に転がり込んで来たことで、ドラマは美容室のすべての女たちを巻き込んで急展開する。女たちは彼を匿おうとするが、続いてやって来たハマスの兵士によって外に連れ出されてしまう。男たちの暴力を、女たちはどうすることもできないのである。

 映画がこの後の女たちを映さないのは不満が残る。カメラはそのまま外に出て行き、美容室の外で何が起こっていたのかを明らかにするような幾つかのカットを重ねて不意に途切れてしまう。外はすでにすっかり夜になっていて、幾つかの建物から赤々と炎が上がっている。もう息はしていないように見える男は、トラックの荷台に死んだライオンとともに寝かされている。ライオンに関する経緯というのは映画を見ただけではよく判らないが、マフィアが地元の動物園からライオンを盗み出した事件が2007年に実際に起こっていたということらしい。映画の背景は、この事件を下敷きに作られていたということだったようだ。
 それはともかく、背景であったものが一気に噴出してくるこのラストは衝撃的である。衝撃的だったが、それを描くことが映画として必要だったかどうかは判らない。結果的に、女たちのドラマはハマスの侵入の時点で唐突に途切れてしまうからである。
 だが、これが彼女たちの置かれている現状ということなのかもしれない。再び朝が来れば、彼女たちはまたここでいつも通りの日常を始めていくしかないのである。美容室は特段の被害を受けたわけではないから、また違うお客がやって来て、何もなかったかのように営業を始めていくのだろう。恋人を失ったアシスタントの娘も、少し暗い顔をしながらそのままここで働いているような気がするのだが、ここは少々意見の分かれるところなのかもしれない。
(新宿シネマカリテ、7月5日)
by krmtdir90 | 2018-07-08 21:31 | 本と映画 | Comments(0)

映画「女と男の観覧車」

e0320083_2202864.jpg
 プログラムにケラリーノ・サンドロヴィッチがレヴューを書いていて、その中にテネシー・ウィリアムズの名前が出てきてハッとした。ケラはウディ・アレンが最近、技法面で演劇的な表現に急接近していると指摘しているのだが、それは若き日のウディ・アレンが劇作家に憧れていて、多くの戯曲から影響を受けていたと告白した過去について述べていた。その中に幾人かの劇作家の名前が出てきていて、それを読んだ時、「この映画はテネシー・ウィリアムズなんだ!」と急に目の前が開けたような気がしたのである。この映画の主人公ジニーは、テネシー・ウィリアムズの戯曲に出てきた女性たちに非常によく似ていると気付かされたのだ。
 遙か昔に読んだ戯曲を引っ張り出して、対比してみようという気分にまではなれなかったが、若き日の夢に破れ、こんなはずではなかったと満たされない思いで日々を送る、もう後戻りはできない40歳の中年女性という設定もそうだし、映画の進行とともに彼女が精神的に追い詰められていき、その生活のバランスがどんどん崩れていく様などに、明らかにテネシー・ウィリアムズとの類似性が見て取れると思った。このジニーを演じたのが「タイタニック」(1997年)のヒロインだったケイト・ウィンスレットで、40歳を過ぎてすっかり風格の出てきた彼女の演技は、テネシー・ウィリアムズ的な役どころを見事にやり切っていて見応えがあった。
 監督のウディ・アレンはこの撮影時には82歳、前作「カフェ・ソサエティ」とはガラリと雰囲気を変えた映画を、これもまた全編ウディ・アレン以外ではあり得ないやり方で作っていたところが見事だった。テネシー・ウィリアムズはこの映画を読み解く時のキーワードだと思うが、映画そのものは徹頭徹尾ウディ・アレンのものになっているのが凄いことだと思った。

 舞台は1950年代のコニーアイランド。ニューヨーク、ブルックリン区の南端に位置する、ビーチと遊園地で知られた近郊の小さなリゾート地のようだ。原題の「Wonder Wheel」はここに昔からあるランドマーク的な観覧車の名前で、すぐ窓の外にこれが見えている窓の大きな部屋にジニーが住んでいる。ジニーは遊園地のレストランでウエイトレスをしていて、夫のハンプティ(ジム・ベルーシ)は回転木馬の操縦係をしている。コニーアイランドは全盛期より少し寂れかけているように見えて、そんな雰囲気の中に、主な人物を順を追って登場させてくる導入部の作り方のスマートさに目を奪われた。この、一気に物語の中に引き込んでいく鮮やかな手口というものは、年輪を重ねたウディ・アレンの独壇場と言っていいように思った。
 ジニーとハンプティの夫婦は再婚で、ジニーの連れ子のリッチーという男の子が一緒に住んでいる。この子は火に異常な興味を示していて、あちこちでボヤ騒ぎを起こしては夫婦の悩みの種になっている。ここに、ハンプティの娘で、5年もの間音信不通になっていたキャロライナ(ジュノー・テンプル)が突然やって来るところから、物語は始まっている。映画の語り手を務めるのは、ビーチで夏の間だけ監視員のバイトをしているミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)という青年(大学生)で、脚本家志望の彼とジニーとが道ならぬ恋に落ちているという設定である。
 これらの登場人物に関する背景や設定は非常に盛りだくさんで、いまちょっと書き始めて、これはきりがないなと感じたところである。こうしたものの出し方がウディ・アレンの脚本は実に巧みで、スピーディーなテンポを失うことなく、次々に物語をふくらませて展開していくところは鮮やかと言うしかない。キャロライナがギャング一味の追っ手に命を狙われているといった、やや突飛な設定も自然に物語の中に組み込まれて、必要なことはきちんと説得力を持って物語ってくれるから、違和感なしに映画の流れに身を任せることができるのである。

 映画の中心はラブストーリーだから、ミッキーがはるか年上のジニーになぜ夢中になってしまうのかといった、説得力に欠ければすぐに容認できなくなりそうなところでも、ウディ・アレンは、ロマンチストでのめり込みやすい彼の性格などもきちんと描き出していて抜かりはない。一方のジニーは、失意の底から救ってくれたハンプティに感謝の気持ちを持っているものの、現状の生活に様々な悩みや不満を抱えている。彼女には、若いころ舞台女優として少し注目されながら頓挫してしまった過去があり(説明し始めると長くなるが、こうした事情を浮かび上がらせる時のウディ・アレンの匙加減は名人芸である)、夢多き脚本家志望の青年が自分を復活させてくれるかもしれないという、儚い夢に藁にもすがるような気持ちでのめり込んでしまうところが、説得力を持って描写されている。
 このラブストーリーは、ミッキーが偶然(必然だったか?)キャロライナに出会ってしまい、若い二人がお互いに一目惚れしてしまったことから急激に動き出す。ジニーは一気に旗色が悪くなり、日々猜疑心に駆られ、必死になればなるほど嫉妬心を制御できなくなっていく。ここを、ウディ・アレンは淡々と(しかし丁寧に、あるいは冷静に)映し出していく。ギャングの追っ手が再び現れて、キャロライナが見つかりそうになっていることを知った彼女が、慌てて危機が迫っていることを電話で知らせようとして(ミッキーとキャロライナがデートしている店を、ジニーはキャロライナから聞いていたのである)、ギリギリのところでそれをやめてしまうのが物語の転換点となっている。
 ミッキーと別れたあとキャロライナは行方不明となり(たぶん捕まって殺されてしまったのだろう)、父親のハンプティは必死になって探すが見つからない。ミッキーはあちこち聞き込みして回り(この部分は描かれない)、ジニーが追っ手のことを知りながら知らせてくれなかったことを突き止めて、彼女を追及しようと、初めて観覧車の見えるジニーの部屋を訪れるのである。このシーンはまるで演劇の舞台を見るような、主演女優ケイト・ウィンスレットの独壇場になっていた。

 彼女はなぜか、かつてみずからが演じた舞台衣装と思われるドレスを着ていて、大切に仕舞ってあった(同じく舞台で身につけた)アクセサリー(息子のリッチーに見せるシーンがあった)を身につけている。彼女はミッキーの前で、何かに取り憑かれたように(壊れたように)目を泳がせながら、自分の思いのようなものを延々と吐露するのである。ここではないどこかに本当の自分の居場所があり、いまよりもっと素晴らしい人生があったはずだという繰り言である。映画としては不自然なほど続くこの長ゼリフは、元舞台女優ジニーのセリフであると同時に、ウディ・アレンが女優ケイト・ウィンスレットに密かに言わせたいと画策したセリフだったのではないか。監督の意図と女優の演技がぴったり重なった名演だったと思う。
 思い通りにならなかった過去をもう一度やり直したいと願ったジニーの思いは、ミッキーとともに永遠に消えてしまった。娘キャロライナに、父親としてもう一度夢をかけたいと願ったハンプティの希望も失われてしまった。彼らは、遊園地の上空を一回りした観覧車がまた地上に戻って来るように、再び元の生活に(深い絶望とともに)帰っていくしかなかったのである。映画は、ジニーに一緒にいてくれと懇願するハンプティと、無人のビーチで火を燃やしている息子リッチーの姿を捉えて唐突に終わる。このエンディングだけが、ちょっと説明的になっているような気がして違和感が残った。でも、それ以外は完璧な映画だったと思った。
 付け足しだが。舞台劇を思わせるような人工的な照明が新鮮だった。大きな窓を通して、遊園地の明かりの点滅が室内にいる彼らを照らし出しているという設定なのだが、赤や青といった鮮やかな色彩が、登場人物の様々な思いを効果的に浮かび上がらせていた。映画でありながら舞台劇を感じさせるような、不思議な画面を作り出していたと思う。実に良くできた映画で、最近の2作(「カフェ・ソサエティ」とこれ)を見ただけなのだが、ウディ・アレン「老いてますます盛ん」を実感させられた映画だった。
(立川シネマシティ1、7月1日)
by krmtdir90 | 2018-07-04 22:01 | 本と映画 | Comments(0)

映画「焼肉ドラゴン」

e0320083_2215537.jpg
 鄭義信(チョン・ウィシン)監督は、すでに演劇分野で劇作家・演出家として確固たる位置を占めている人である。同時に映画にも数々の脚本を書いていて、これもまた高い評価を得てきた実績がある。しかし、映画を監督するのは初めてだったようで、この映画は2008年に初演されて評判になった自身の舞台の映画化なのである。
 わたしは元になった舞台を見ているわけではないが、こうしたかたちで作られた映画というのは大いに興味があった。今回、いろいろあって鑑賞から日にちが経ってしまったが、少し記憶がぼやけてくると、映画を見たというより舞台を見たような印象が残っているのである。もちろん映画なのだから、アップとかカット割りといった映画の様々な技法が駆使されている。一定の距離から舞台全体を視野に入れるという、演劇を見る場合とはまったく違っているのだが、何か普通の映画を見ている感じとは明らかに異なるところがあったような気がした。

 映画化に当たって独自のシーンも付け加えられて、映画の脚本としてしっかりリライトはされたようだが、たぶん根っこに舞台に向けて作られたものがいろいろと残っていたのだと思う。それは恐らく、セリフに最も強く表れていたのではないか。登場人物の喋るセリフが、たぶん芝居のセリフのまま使われたところが多かったのではなかろうか。
 言うまでもなく、芝居のリアリティと映画のリアリティとは全然違うものだし、それは何よりセリフのあり方に強く表れてくるものなのだと思う。父(アボジ)の龍吉が何度も口にする「たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる」というようなセリフは、芝居の中では自然に成立するものでも、映画ではやや言い過ぎの感じに聞こえてしまうのである。映画としては少しやり過ぎではないかというところが、セリフだけでなく、演技全般にもけっこう目についたように思う。それはたぶん、舞台では何の違和感もなく受け入れられてきたものなのだろう。

 映画を見ながら、わたしはこの何となく普通の映画とは違う感覚を楽しんでいたと思う。これが、舞台の人間である鄭義信の感覚ということなのだ。彼は映画を撮りながら、その先に舞台のイメージを見ている(舞台の感覚で生きている)のだろうと感じた。演劇として一度しっかりと出来上がったものを、映画としてもう一度作り直す過程が想像されるのが興味深かった。

 長回しが多いというのは、明らかに舞台の感覚を映画の中に持ち込んだものだろう。撮影の現場で鄭義信監督は、シーンごとに全体をきちんと作り上げてから撮り始めたらしい。各シーンが演劇の演出のようにして作られた感じというのは、映画の各所で感じることができた。それがこの映画のユニークさであり、他に見られない面白さになっていたのではないだろうか。
 一方で、映画としてはアップが普通よりも多用されていたと思う。舞台では役者をアップにすることはできないから、映画を撮るとなった時、鄭監督がそれを可能な限り活用したいと考えたのは判るような気がする。切り返しの使い方などで若干ぎこちないところはあったが、この映画の役者たちがみんな鄭監督のアップの要求にしっかり応えていたのは見事だった。舞台の役者には舞台の役者としての苦労があるだろうが、基本的には演劇的なセリフを与えられながら、映画的なアップでそれを具現化して見せた役者たちは立派なものだったと思う。

 主な配役を次に記録しておく。家族、父(アボジ)・龍吉:キム・サンホ、母(オモニ)・英順:イ・ジョンウン、長女・静花:真木よう子、次女・梨花:井上真央、三女・美花:桜庭まなみ、末っ子・時生:大江晋平。娘たちの相手、哲夫:大泉洋、呉日白:イム・ヒチョル、長谷川:大谷亮平。その他、呉信吉:宇野祥平、美根子:根岸季衣。書き写していて、それぞれの演技の記憶が甦ってくると、やはり舞台で見た配役という感じがしてしまうのが不思議である。
 セットが素晴らしかった。舞台ではどういうふうだったのかは知らないが、映画のセットでありながら、演劇のセットのような雰囲気を漂わせているところが絶妙だった。最後の屋台崩しは演劇の発想だと思うが、映像として映画そのものになっていて感心した。

 今回は、内容にまったく触れていない感想文になってしまった。まあ、時にはそういうことがあってもいいだろう。貧しい家族の物語としては、韓国的な感性が身近ではないぶん、「万引き家族」の方により共感を覚えてしまうのは仕方がないことだろう。
(MOVIX昭島、6月26日)
by krmtdir90 | 2018-07-01 22:02 | 本と映画 | Comments(0)


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
ブログジャンル