18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

<   2018年 10月 ( 12 )   > この月の画像一覧

映画「アンダー・ザ・シルバーレイク」

e0320083_2272255.jpg
 ちょっとカルトっぽい雰囲気がありそうなので、そういうのもたまにはいいかなと思って見に行った。監督のデヴィッド・ロバート・ミッチェルは1974年生まれ(44歳)で、思いがけずあの白石和彌監督と同い年なのだった。結論を言えば、わたしは白石和彌のストレートな「熱さ」(ただし、冷静に計算はしている)の方が合っていると思った。
 3分の2ぐらいまではけっこう面白く見たのである。だが、最後の3分の1で急速にシラけてしまった。思わせぶりに並べてきた伏線(らしきもの)はそのまま残ってしまうし、「街の裏側に潜む陰謀」とか「私たちは誰かに操られている」とか、どう言ったところでストーリーが成立していないのは明らかだと思われた。目くらましだけで観客を幻惑しようとしても、乗せられてしまう客の数には限りがあるということである。内容がないものをカルトに祭り上げることくらい愚かなことはないだろう。

 配給会社は「新感覚サスペンス」などと名付けたり、ヒッチコックやデヴィッド・リンチの名前を出して一生懸命売ろうとしているようだが、全然そんなものではないと思った。この監督が、映画をたくさん見ていたり様々なポップカルチャーに通じているのは判るし、そういうものを(一見)センス良く散りばめてみせるテクニックには長けているのかもしれないが、それだけでは中身の空虚さを誤魔化すことはできないのである。
 例えば、主人公の無職の男がアパートの向かいに住むトップレスの女を双眼鏡で覗いているシーンがあったが、これを「裏窓」(ヒッチコック)へのオマージュなどとするしたり顔の指摘の馬鹿らしさはどうだろう。オマージュとはリスペクトに裏打ちされた行為であって、とうてい原作に届かない表面的なモノマネはオマージュとは言わないのである。

 わたしは どんな場合でも謎解きが必要だと言うつもりはない。だが、主人公の男が謎を追い始めてしまった以上は、その謎をどういうかたちで終わらせるのかという点については、きちんと責任を取る必要があるのではないか。そこには謎が解かれないというケースもあっていい。ただし、曖昧なままほったらかしにするのは仁義に反するということなのである。
 ましてや、最後に登場してくる富豪の男と3人の女の言動などは、あまりに荒唐無稽で鼻白むばかりだった。主人公の男が先のトップレスの女と最後にくっついてしまうのも、そんな支離滅裂な終わり方でいいのかと言いたくなってしまう。いろんな飛躍は3分の2ぐらいまではあってもいいが、最後までこんなことをやっているようでは、結局この監督はうわべの目新しさで観客を振り回すことしかできないのだということになってしまう気がする。
(立川シネマシティ2、10月19日)
by krmtdir90 | 2018-10-21 22:07 | 本と映画 | Comments(0)

映画「止められるか、俺たちを」

e0320083_1822676.jpg
 白石和彌監督は若松プロの出身ということだが、1974年生まれの彼が若松プロと関係していたのは、監督・若松孝二としてはかなり終盤の時期だったはずである。この映画は1969年から71年にかけての若松プロを描いているが、白石監督はもちろんその頃のことは知らないのである。だが、若松孝二は年齢は重ねても往年の情熱をまったく失わなかった人のようだから、それを間近に見てきた白石監督としては、若松孝二と若松プロがまだ若くて最も輝いていた時代を、映画を撮ることで確かめたいという気持ちがあったのではないだろうか。
 当然この映画には、その若松孝二を筆頭に、当時の若松プロに出入りしていた多くの人々が実名で登場している。若松孝二は2012年に交通事故で死去してしまうが(享年76歳)、その他の人々はほとんどが存命している中で、それぞれの若かりし頃に現在の役者たちを当てて演じさせるというのは、恐らく相当ハードルの高い挑戦だったのではないか。だが、その試みは十分に成功していたと思った。
 若き日の若松孝二を演じたのは井浦新という役者だったが、彼は白石監督とともに終わりごろの若松プロにいて、若松監督の何本かの映画で、その演出を直接受けた経験があったようだ。インタビューで白石和彌監督は、井浦新が若松孝二をやってくれなければこの企画は成立しなかったと述べているようだ。彼は確かに、当時の若松孝二はこんなだったんだろうなと思わせる演技で、この映画の中に説得力を持って存在していたと思う。多くの役者が、モノマネにはしたくないと言って役作りしたらしいが、若松の他にも足立正生・荒井晴彦・沖島勲・大和屋竺、さらには大島渚・葛井欣士郎・赤塚不二夫といった有名人が、いかにもそれらしい雰囲気で登場してきたのは面白かった。

 前置きが長くなってしまったが、この映画は、当時若松プロにいたらしい吉積めぐみという女性助監督を主人公として作られている。若松プロはいわゆるピンク映画を製作していたから、言ってしまえばそこは完全な男たちの世界であった。実際の吉積めぐみがどういう人であったかは判らないが、とにかくそこにまったく異質な視点を持った人間がいたということである。彼女の視点を中心に置くことで、映画のストーリー展開に奥行きと幅が生まれ、単調な回顧譚になることを回避できたということではないか。これは見事な作戦勝ちだったと思う。
 彼女は(実際に)、妊娠6ヶ月で自殺とも事故死とも取れる死に方をしたらしいが、その周辺を(凡庸な)ラブストーリーとして拡大することもできたと思われる。だが、そういう愚を犯さなかったのは立派である。映画では彼女と高間賢治のセックスシーンが2回入っていたから、普通に考えれば子どもの父親は高間ということになるが、そのあたりについてこの映画はまったく追いかけようとはしないのである。彼女の死を高間がどう受け止めたのかも、この映画は描いていない。
 結果的に、彼女の死が敗北(逃げ)という印象になってしまったのは残念な気がしたが、そこまでの2年半を真っ直ぐに駆け抜けた、彼女の成長の軌跡はしっかりと刻み込まれていて、実に鮮やかな印象を残す映画になっていたと思う。最初は大した決意もなく、ついふらっと助監督になりたいと言ってしまっただけなのに、普通なら男でもすぐ逃げ出してしまうようなメチャクチャな現場に(給料も出ないのだ)、なぜ彼女がしがみつき居着いてしまったのかは判らない。だが、彼女が感じたであろう戸惑いや反撥、そして不思議な頑固さを漂わせる言動が魅力的である。男たちにとっては、なぜ女がこんなところに居られるのかという違和感のようなものがあったと思う。だが、彼女の中に燃える不思議な一途さを見てしまうと、映画をやりたい思いに男も女もないではないかという、ある種一体感のようなものに変化していくところが面白かった。
 セックスというようなズブズブの世界を撮りながら、そこに集まっていた彼らは、ちょっと考えられないくらい純粋で過激でプラトニックだったのだ。吉積めぐみを演じた門脇麦が非常に良かった。

 この映画は、若松孝二を中心とする男たちの中に常に異質な存在の彼女を置くことで、映画に夢を賭けた男たちの思いなどすべてがその視線に晒され、相対化されることでリアリティを獲得していたように思われた。
 男たちというのは、若松孝二であれ足立正生であれ、何も言わなくてもお互いストレートにつながってしまう回路のようなものを持っていたと思う。だが、恐らく吉積めぐみにはそういうものはなかったのだ。映画の中に2度描かれていた男たちの(酔っ払っての)放尿シーン、若松と赤塚不二夫のそれは唖然と見ているしかなかった彼女が、後半、若松プロの屋上で飲んだ時に、男たちが揃って放尿するのを見て、「わたしも」と叫んで加わろうとして止められてしまうところなど。
 どこかで彼女が、自分のことを「女を捨てた」と言うところがあったと思うが、それはそうしなければピンク映画の現場になど居られないということであると同時に、回路を手に入れるための彼女の願いを表していたのだとも思われるのである。だが、妊娠という事実は彼女が女であることをもう一度突きつけたということなのだろう。死んでしまった以上、軽々な評価は下すべきではないが、吉積めぐみは最後のところで、若松プロと男同士のような濃密な回路は(たぶん)持てないまま死んでしまったように見えて仕方がなかった。
 この点に関しては、ある意味自由な創作が可能な部分だったように思う。もちろん、死んでしまった事実は変えようがないが、彼女の存在にフォーカスして、彼女の生きた日々をふくらませようとした白石監督の意図は間違ってはいない。だから、もう少しだけ彼女に寄って、丁寧に描くべきだったのではないかという気もしてしまうのである。ここは難しいところなのは判るし、全体を若松プロの群像劇として構成する上では、この程度の(やや物足りない)描き方がちょうどバランスが取れていたのかもしれないとも思う。よく判らない。

 1969~71年というのは、わたしにとっては非常に懐かしい時期である。その時代の空気というものを、この映画は鮮やかに甦らせてくれたように思う。残念ながら、わたしは当時の若松孝二にそれほど興味を抱いていたわけではなく、今回調べてみたら、見ているのは「胎児が密猟する時」(66年)「狂走情死考」(69年)「天使の恍惚」(72年)の3本だけで、特に強烈な印象を受けた記憶もない(失われてしまった)。だが、当時の日本映画がどんな状況だったのかはよく覚えているし、渋谷や新宿の街の騒然とした雰囲気、アートシアター新宿文化やアンダーグラウンド蠍座などのことも鮮明に記憶している。
 だからどうだということではない。わたしは結局、映画を見ていたが映画を作りたいとは思わなかったし、世界を変えなければと思っていたが、基本的には傍観者の位置から動くことはなかった。それでもいま、この映画を懐かしいと感じてしまうことは許してもらえるだろう。すべてが過去のことになってしまったが、確かにこういう時代があったのだ。ああ、みんな煙草を吸っているな、お酒を飲んでいるな、議論しているな、バカやってるな、自分が何者であるのか、必死で探していたな、などと思い出すのである。
(立川シネマシティ1、10月18日)
by krmtdir90 | 2018-10-20 18:23 | 本と映画 | Comments(0)

「もうすぐ絶滅するという煙草について」(キノブックス編集部)

e0320083_2273629.jpg
 新宿の紀伊國屋書店で見つけて、ちょっと複雑な気分で購入してきた。2階の目立つところに平積みになっていたのは、さすが紀伊國屋書店だと思った。わが町の書店などではまず出会うことのできない本である。
 42人の作家さんたち(何となく「さん」をつけたくなる)が煙草について書いた文章(うち、俳句1、詩1、漫画2を含む)を集めたもので、中には堀口大學のような非喫煙者の文章も混じっているが、おおむね喫煙者か、かつて喫煙者だったことのある人の文章である。42人の名前は帯に載っているので再録しないが、一つの傾向に偏ることなく、多方面にわたってバランスの取れた選考をしていて、うまい並べ方をしているなとニヤニヤしながら楽しく読了することができた。

 10月1日から煙草が値上げされるというので、前日に近所のコンビニに行って1カートンを確保した。わたしはいま3日に1箱のペースだから、まだ5箱目に入ったところで、まだ4箱残っているが、それも近日中になくなってしまうだろう。煙草の税負担率は6割超だと言うし、1箱450円(30円値上がりする)になったのを買う前に、そろそろ潮時かなという思いも心の片隅にはある。だが、いまある4箱を無駄にするのも惜しいような気がして、なかなか難しい局面に立たされている気分なのである。
 この本は全体が3章に分かれていて、1章は喫煙という行為を様々な角度から(ほぼ擁護的に)書いた文章、2章は近年顕著な嫌煙など煙草の規制に関して述べた文章、3章は禁煙についての実践的な文章が並ぶようになっていた。もちろん正面切って論じたり主張したりといったものは一つもないが、多くが何らかの屈折を感じさせる文章なので、煙草というのは吸い続けるにしても止めてしまうにしても、なかなか複雑でスッキリしないものを内包しているのが判るのである。何よりも、書名につけられた「もうすぐ絶滅するという」という修飾句は尋常ではない。

 煙草については前に一度書いたことがあるが、わたしが煙草を吸い始めたのは20歳を過ぎてからで、本書で別役実が書いていたような「劇的要素」はまったくなかった。1日1箱に近いペースで15年以上吸い続けたのち禁煙したが、これも大した動機があったわけではない。10年あまり禁煙したあとでまた吸い始めたのにも、特段の「劇的動機」はなかったと言っていい。だがそれ以来もう20年以上、わたしはほぼ2~3日に1箱のペースで吸い続けてきたことになる。
 何とも締まりがないと言えば締まりがないのだが、これまで生きてきた半分以上の期間を煙草と付き合ってきたのである。これだけ長いあいだ続いてきた関係をもう一度絶つというのは、別役言うところの「裏切り」以外の何ものでもないという気がして躊躇してしまう。
 最近も医者に「絶対に止めなさい」と言われる事情があって、医者に言われて止めるなど愚の骨頂と反撥を感じたところなのだ。健康のためとか何とか、そういう不純な動機で止めることはわたしの矜恃が許さない。「劇的」ではあり得ないが、わたしがもし「転ぶ」としたら、「何となくやっちゃった」というゲーム感覚以外は考えられないだろうと思っている。

 本書の中でなぎら健壱が書いているが、昔は都内の駅のホームでも平気で煙草が吸えた。もちろん混雑していれば吸わなかったが、空いていれば一応風向きは気にしながら吸っていた。吸い殻は、毎日駅員さんが掃除するんだろうなと少し罪悪感を感じながら線路に捨てたりした。クロスシートの窓側や手摺りには灰皿が付いていたし、灰皿のないロングシートでも(わたしは吸わなかったが)吸っている人をけっこう見かけた。
 映画館は(禁煙の文字はあったが)喫煙者の天国だった。さすがに都心のロードショウではほとんどいなかったが、2番館3番館(こういう言い方もなくなってしまったが)、それにオールナイト(これもなくなってしまった)などでは吸い放題で、場内がスモークを焚いたような状況になっていた。後部の映写窓からの光がはっきり見えるというのが普通のことだったのである。
 富岡多恵子(いまどうしているのだろう?)が教師をしていた頃、喫煙で捕まった生徒を煙草を吸いながら説教したとどこかに書いていたと思うが、職員室も会議室も平気で煙草が吸えた時代が(決していいことではなかったが)確かにあったのだ。

 近年の喫煙者に対するヒステリックな規制には違和感を覚えるが、非喫煙者に対してずっと迷惑をかけ続けてきたことを思うと、JTのコマーシャルではないが、「人のことを思う」というのは喫煙者として最低限のモラルだと思っている。
 外国旅行に行くようになって、喫煙に対するそれぞれの国の対応の違いなども興味深く、ホテルやレストランなどで、煙草というものを媒介としたお国柄の違いを考えるのも面白いことだった。国内を鉄道旅行している時は、駅と喫煙場所の関係を見るのが非常に面白かった。都内や近郊の駅はほぼ完全禁煙になってしまったが、地方のローカル線などでは様々なかたちでまだ灰皿が残っていて、そういう「ゆるさ」はこれからも残したいものだと思っている。
 映画を見に都心に出ることが増えたが、新宿や渋谷でどこに喫煙場所があるかはだいたい覚えてしまった。公認の場所ではないが、店先に灰皿のある非公認の場所があることも知った。要するに、これからは「棲み分け」が出来ればいいのであって、喫煙者に対してあまり目くじらを立てるのは生産的なことではないと思っている。

 なんか、ほとんど本と関係のない話になってしまったが、敢えて大上段の言い方をすれば、煙草は(お酒も)文化であり、非生産的なものであるゆえに愛すべきものだと思っている。わたしはその効能や御利益を語るつもりはないし、だから鬼の首を取ったように害毒だとか迷惑だとか言ってほしくはないのである。わたしは煙草もお酒もやらない人を(残念だとは思うが)見下したり非難したりするつもりはない。けれども、煙草やお酒を毛嫌いする人は非文化的な分からず屋だと思っている。阿呆だと言いたいところだが、それならお前も阿呆だと言われてしまいそうで、それに返す言葉も思い浮かばないのでやめておく。
by krmtdir90 | 2018-10-17 22:07 | 本と映画 | Comments(0)

映画「愛と法」

e0320083_14515741.jpg
 ゲイのカップルがいる。この2人は弁護士で、2011年に結婚式を挙げ、大阪の下町に法律事務所を開いている。名前は南和行(カズ)と吉田昌史(フミ)と言う。日本では同性婚は認められていないから、法律的には2人は他人のままである。だが、2人は一緒に生活し、一緒に弁護士の仕事をしている。すでに著書もあるようだが、わたしは読んだことがない。
 この映画はこの2人に密着したドキュメンタリーである。監督の戸田ひかるは、10歳の時からオランダで育ったようだが、この映画を撮るため思い切って大阪に住居を移したらしい。

 ドキュメンタリーというのは、撮る側と撮られる側の関係がどんなものなのかという点で、様々なスタイルがあるように思う。この映画では両者が非常に密接に結びついていて、撮る側はこんなところをこんなふうに撮りたいといった、撮られる側はこんなところをこんなふうに撮ってほしいといった要求をかなり出しているように見えた。お互いを信頼した共同作業ということだが、だからといって馴れ合いの予定調和になっていないところが良かった。むしろ、お互いに認め合っているからこそ、どちらにも思いがけず撮れてしまったようなシーンがたくさんあった。2人の周囲に登場してくるいろいろな人たちも含め、ごく自然で暖かい雰囲気が流れるドキュメンタリー映画になっていたと思う。
 最初のあたりで、カズの母親のヤエさんという人が紹介されている。カズがゲイだと告白した時、彼女はごく普通の反応として大きな衝撃を受け、様々なやり取りのあとで「だって知らないもの、誰も教えてくれなかったもの」と言ったらしい。それを聞いてカズは「そうか、知らない人のことは責められない」と思ったのだという。カズは仕事のかたわら、マイノリティに関する講演会や勉強会に積極的に関わっているらしい。そして、ヤエさんはいま2人の事務所で働いて2人を助けている。終わりの方で、彼女が「子どもを支えるというより、受け入れるということ。受け入れへん方がしんどいよ、お互いに」と言うところも紹介されている。
 映画は2人が手がける裁判のことも描いているが、もちろん弁護士としての彼らの日常を捉えることの方に主眼があって、法律に依拠しなければ仕事にならない大前提の前で、様々に揺れ動く2人の心情を丁寧にすくい上げている。法律や裁判がすべて正義に貫かれているわけではないし、彼らの関係を法律が認めていないことを始めとして、マイノリティを排除したり、きわめて冷たい対応しか取れない裁判制度であることに、2人はみずからの無力を嘆いたりするのである。

 映画の冒頭に「日本は世界でも数少ない均質国家である」という字幕が出る。「空気を読む」という言葉に象徴されるような、多数派がすべて善であって少数派は排除されても仕方がないという、現代社会に蔓延しつつある排他的風潮に2人は異議を申し立てているようだ。だが、映画はそれを声高な主張として切り取ろうとはしていない。少しでもそんなところがあったら、この映画はこんな共感を呼ぶようなものにはならなかっただろう。扱っている問題の一つ一つは大きなものばかりで、どれも明確な問題提起を含んでいるのだが、映画はあえてその周辺部分を徘徊することの方を選び、思い通りにならない現実に揺らいでしまう人々の姿に寄り添っていく。
 無知によってもたらされる偏見や差別が大きなテーマになっていると思うが、それらが圧倒的な多数派を形成しつつある中で、一方的に非難されたり忘れられたりしている少数派の側に立って、その姿を普通に記録していこうとこの監督は考えているように見える。映画では、女性器をモチーフとした作品がわいせつか否かで争われたマンガ家・ろくでなし子の裁判、卒業式で君が代を歌わなかったとして処分された大阪の府立高校教師の裁判、さらに日本に1万人以上いるとされる無戸籍者の権利回復を求める裁判などが取り上げられている。それらはいずれも、少数ゆえに社会の片隅に追いやられようとしている人々の闘いなのである。
 これら少数派の側に立つことで、映画はろくでなし子の父親が「親バカと言われるかもしれないが、ブレない彼女を誇りに思う」とカズに話すシーンや、君が代裁判の女性教師が「あんなにたくさんいた仲間が、あっという間にいなくなってしまった」と嘆くシーンなどを捉えている。現代は、空気を読んでみずから多数派に所属しなければ、周囲から否定され孤立するしかない世の中なのである。無戸籍者の問題は(問題の存在は知っていたが)深く考えたことはなかった。社会から見落とされてきた問題に取り組む2人の弁護士と、それにスポットを当てた監督に敬意を表するばかりである。無戸籍者2名のインタビューを見て、政治が早急に解決策を講じなければおかしいと感じた。

 映画は、ゲイのカップルであるカズとフミの日常生活もしっかりと描写している。2人がどうして一緒に生活するようになったのかとか、家の中で2人がどういう役割を分担しているのかといった(フミがキッチンで手際良く食事の支度をするシーンは面白かった)、私生活の細々とした部分を2人は率直にさらけ出し、監督はそれを淡々と写し取っている。お互いの信頼がなければ撮れなかったようなシーンがあると思った。
 映画の中盤で、カズマという少年(かなり青年に近い)がカズとフミの家に同居するようになる。カズが少年事件を担当した時、後見人になった少年で、何かの事情で住む場所を失っていたらしい。このカズマくんというのが、寡黙だけれどなかなかいい。カズがフミと同性カップルであることを言っても、「そんなんテレビで見たことあるから」とまったく意に介さない。そればかりか、何の違和感もなくこの家の生活に溶け込んでいくのである。
 時が流れ、映画の終盤では、就職して彼女が出来たカズマくんが、彼女にカズとフミのことを幸せな家族なんだと話すシーンが収められている。カズマくんが彼女と作りたいのは、カズとフミが作っているような家庭なのである。彼らが同性婚だと聞いてエーッと驚く彼女に対し、「普通やん」とボソッと言うカズマくんの表情が素晴らしい。驚いてしまう彼女はごく普通の女の子だが、早晩カズマくんの言う「普通」を理解し共感するようになるだろう。
 この世界にはいろんな生き方があっていいし、いろんな人がいるのが当たり前なのだ。多数とか少数とか、みんなと違っているからとか、そういうことが強調され決定的になってしまうような社会はおかしいのだ。この映画は、そういうことを自然に感じさせてくれる力を持っていたと思う。
(渋谷ユーロスペース、10月12日)
by krmtdir90 | 2018-10-13 14:52 | 本と映画 | Comments(0)

映画「バッド・ジーニアス/危険な天才たち」

e0320083_18164941.jpg
 試験の時のカンニングを描いた映画だが、コメディ的な要素はまったく入っていない。登場する高校生たちはみんな真剣にカンニングに取り組んでいて、映画はその過程を克明に追いながら、それが成功するかどうかというところでスリルとサスペンスを高めていく。一見したところ、カンニングは悪いことだという前提を崩してはいないが、そういう尺度を一旦脇に置いた、一種のゲーム感覚のようなものが彼らを支配しているように見える。それが現代の高校生の感性なのだと認めているようだ。

 タイで作られた映画だが、公開以来東南アジア諸国で大ヒットを記録しているらしい。「ポップ・アイ」もタイを舞台にした映画だったが、あれはシンガポールの監督がタイにやって来て撮った映画で、外の人間から見たタイの姿という面があったと思う。対するこちらは、タイ人の監督(ナタウット・プーンピリヤ)がタイ人のキャスト・スタッフとともに作った、タイの現在をしっかり踏まえたドラマになっているところが大きな違いだったようだ。
 そういう意味で、この映画はハラハラドキドキの娯楽映画でありながら、決して荒唐無稽な話にはなっておらず、現代のタイ社会が抱える様々な社会問題をきちんと取り込んだストーリーを展開していた。背景にあるのは、近年タイを始めとした東南アジア諸国で急激に高まっているらしい進学熱と、学歴によって完全に序列化されてしまう競争社会の現実である。そこにはすでに存在している貧富の格差も影を落としていて、激しい受験戦争の中で、いまどこの国でもカンニングが大きな社会問題になっているという状況があったようだ。この映画も、中国で実際に起きた集団不正入試事件をヒントにして作られたということらしい。

 カンニングを本気で防ぎたいなら、試験をすべて記述式にしてしまえばいいとわたしなどは思うのだが、映画で見る限り、その多くがABCD4択のマークシート試験になっていた。どうしてそうなのか、このあたりの事情はよく判らないのだが、映画で描かれるのはこの4択を前提とした試験の攻略法ということになる。最初は消しゴムを使った原始的なカンニング(無償の友人救済)から始まるが、それが次第に金銭授受を伴う大がかりなカンニングに進んで行き、最後はアメリカの大学への留学資格を得るため、世界各国で一斉に行われるSTICという大学統一入試(これには記述式も含まれる)へとスケールアップしていく。
 密かに覗き込むだけのカンニングを別にすれば、カンニングは「見せてもらう側」の働きかけに「見せる側」が合意することで成立する。そこには見せる側の答案がほぼ完璧であるという前提があり、そういう答案が作れる側が大きな危険を伴うカンニングに同意するためには、それ相応の大きなメリットがなければならない。それが金銭授受であるところに、タイの深刻な格差社会の現実が見えてくる。学歴格差はそのまま貧富の格差と結びついているのである。

 この映画は、見せる側と見せてもらう側にそれぞれ2人ずつの主人公を設定している。
 まず、見せる側の2人、私立の進学校に特待奨学生として編入されて来たリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン、タイって名前が長いんだよね)は、教師である父親との父子家庭で育ったクールな印象の天才少女で、授業料免除とランチの無償提供を校長と話し合う最初のシーンで、貧困とは言えないまでも豊かな家庭でないことは容易に窺えるようになっている。もう一人の特待奨学生バンク(チャーノン・サンティナトーンクン)は素朴で真面目そうな少年で、彼の家庭はあまり描かれていないが、場末の小さなクリーニング店で働く母親は出ていたが父親の姿が見えなかったことから、たぶん苦学してきたのだろうなと想像されるのである。いずれにせよ、彼らは特待生待遇がなければこの私立校にはいられないのであり、学業優秀な2人を格好の広告塔と考える学校は、2人の顔写真入りの大きな垂れ幕を校舎の壁に掲げたりするのである。
 一方の見せてもらう側は、当然のことながら富裕層の子どもたちである。最初にリンと仲良しになり、最初に彼女に助けてもらう少女グレース(イッサヤー・ホースワン)は明るく愛敬のある少女だが、豊かな家庭の子どもであるのは明らかで、彼女がリンに紹介するボーイフレンドのパット(ティーラドン・スパパンビンヨー)はプール付きの大邸宅に住んでいる少年なのである。このパットが、自分たちと同じような、富裕だが成績の振るわない仲間を助けてほしいと、具体的な報酬額を提示してリンに働きかけることになる。確か1人1科目3千バーツと言っていたが、日本円に換算すると約1万円ということになり、特待奨学生としてやっとこの高校に通っているリンにしてみれば、想像を超えた高額なのである。最初は渋っていたリンが結局この提案を受け入れるのは、自分の将来の進学を考えた時、何より必要なものはお金だと判っていたからだろう。

 ピアノが得意だったリンが、鍵盤を叩く指の動きをABCDの答えに対応させて、試験場のたくさんの相手に答えを伝えていくカンニングシーンは面白い。テクニックの意外性とともに、こうしたシーンをスリリングなゲーム感覚で描いて見せたところに、この映画が成功を収めた大きな要因があったと思われる。
 だが、同じ試験場には、金持ち連中のカンニングを快く思わない生真面目なバンクも混じっていたのである。彼の通報で、リンたちのカンニングは学校に知られてしまう。校長室に呼ばれた彼女は、金銭の授受があったことを咎める校長に向かって、富裕層の保護者が子どもの入学に際して多額の賄賂を学校に渡すのは悪くないのかと反論する。だが、校長はそれは純粋な寄付金だと言って取り合わない。結局、彼女は退学は免れるものの、父親の信頼を失い特待生としての資格も失うことになってしまう。
 映画はこの点を強調しているわけではないが、見せた側のリンが叱責され処分を受けるシーンはあるのに、見せてもらった側が追及され処分を受けるところは描かれていなかった。また、映画の最初のあたりで、グレースが持っていたプリントで勉強を教えてやったリンが、教師が主宰する有料補習に出ると、プリントのかたちで試験問題が教えてもらえるというからくりに気付くところも描かれていた。この映画は、学歴至上主義が経済至上社会と密接につながっていて、富める者がその財力で世の中を渡って行ける巧妙なシステムが出来上がっていることを、しっかり描き出しているのである。カンニングはその中の一つのかたちに過ぎない。

 失意のリンを再びグレースとパットが呼び出し、もう一度カンニングをやろうと持ちかけるのは必然の成り行きである。二度とやらないと決意していたリンが、その報酬額の大きさから起死回生のプランに乗ってしまうのも必然と言っていい。彼らはお互いを必要としていて、お互いを利用し合わなければ夢を実現することができないことを(悲しいことだが)判っているからである。
 この映画のいいところは、普通なら悪役にしてしまってもいい金持ちのグレースとパットをそんなふうに決めつけていないことである。彼らには彼らなりの家庭環境があるのであり、勉強が出来ないことは自分が一番判っているのに、親の期待に応えなければ生きていけないところに追い込まれているのである。子どもの気持ちをよそに親の期待は膨らむばかりで、今度の試験はこれまでとは桁が違う、アメリカ留学を賭けた世界規模のSTICということになってしまうのである。
 かくして映画は、もう一人の天才少年バンクをも引きずり込んで、試験開始の時差を利用したスケールの大きなクライマックスへと進んで行く。タイより4時間早く試験が開始されるオーストラリア会場でリンとバンクが受験し、記憶した答えをSNSでグレースとパットに送信するという手口と、それを高額な報酬で募集したタイの受験生に伝える奇想天外な手口と、まあよく考えたものだと驚くばかりのカンニングプランは、果たして成功するのかしないのか。

 この最後の30分をわたしは大いに楽しんだと思う。最後にはやはり失敗に終わってしまうのだが、こんなに面白い展開の映画はそうあるものではない。だが、帰って来てこれを書き始めてみて、この映画が単なる娯楽映画ではない、大きな問題意識を隠した野心作だったことがどんどん見えてくるような気がした。
 貧しい家に育ったリンやバンクも、富裕な家に育ったグレースやパットも、この国に育った高校生たちがそれぞれみんな、過酷な格差と理不尽な競争社会を生きていかなければならない現実があることを、しっかり見据えた映画だったことが理解されたのである。そして、それをただ声高に訴えるのではなく、表面上は徹頭徹尾痛快な娯楽映画として描いて見せたことが見事なのだと思い至った。どんなに高潔な主張であっても、観客に見てもらえなければ何の意味もないのである。こういう描き方をすることによって、この映画が多くの観客を獲得しているところにこの映画の鮮やかな勝利があり、そして大きな意義があるのだと思った。
(MOVIX昭島、10月10日)
by krmtdir90 | 2018-10-11 18:17 | 本と映画 | Comments(0)

東大附属の「アリス」(2018.10.7)

e0320083_8533184.jpg
 10月7日(日)は最初から映画を見に新宿に出掛けたわけではない。午前中、新座柳瀬のMさんと一緒に東大教育学部附属中等教育学校の文化祭に行って、午後は山梨に行くというMさんと別れたあと、せっかく新宿に出たのだから一本見てから帰るかという気分になったのである。夏が戻ったような天気だったから、昼食に入った蕎麦屋でつい昼ビールを飲んでしまい、これではつまらない映画だと寝てしまうかもしれないと思っていたが杞憂だった。そういう状態なのにグイグイ引き込まれたのだから、あの映画(「判決、ふたつの希望」)がどんなに面白かったかは明らかだったと思う。

 さて、Kさんが支配人?をしている東大附属の演劇部は、中高一貫であるため1~3年の中学部と4~6年の高校部がそれぞれの舞台を作っているらしい。いままでは高校部の舞台を見に行っていたのだが、今回は中学部が稲葉智巳作の「Alice!2/白ウサギのお見合い編!?」を上演するというので、Mさんに誘われて初めて中学部の舞台を見せていただいたのである。
 中学の演劇部にも関東・全国とつながるコンクールがあって、都大会を目指す地区大会が次の日曜(14日)にあるというのを聞いたので、楽しい舞台を見せてくれた生徒諸君にお礼と応援の気持ちを込めて、以下に簡単な感想を書いておくことにする。

 中学校の演劇部がどんなことをやっているのか全然知らないのだから、あまり安易な物言いは避けなければいけないが、東大附属の「アリス」は、高校生も顔負けの素晴らしい舞台を作り上げていたと思った(ずっと感心しながら見ていました)。
 稲葉智巳の作る舞台(作・演出)をそれなりに見てきた者からすると、彼の台本を他校がやるのは(高校であれ中学であれ、またそこらのアマチュア劇団であれ)非常にハードルが高いと思っていた。それなのに、今回のような素敵な舞台が(高校生ではなく)中学生によって作られてしまったということには、お世辞ではなく率直な驚きを禁じ得なかった。中学生を甘く見ないでほしいと言われているような気がした。
 稲葉智巳の書くセリフを新座柳瀬以外の生徒がやる場合、(彼の訓練を受けているわけではないので)テンポや間合いなどが多少のっぺりしてしまうのは避けられないことだと思う。それでもセリフの言葉一つ一つをきちんと立たせて、勢いを失わないように言うことが出来れば、もともとしっかり書かれているセリフだから客席にはちゃんと伝わるようになっているのである。だが、そうは言っても、これをやり切るのはそう簡単なことではなく、見る前はそんなに期待していたわけではないことは正直に白状しなければならない。

 しかしながら、予想は見事に覆された。この台本が要求していることはいろいろあるが、中学生としてここまで出来ればもう胸を張っていいのではないか。高校生だと言っても十分通用するほどの成果を上げていたと思う。だって、白ウサギをやった高尾さんは1年生だったわけでしょ。ついこのあいだまで小学生だったんだよね。そんなのとても信じられないよねと、Mさんと話しながら帰った。当人は少しは緊張があったのかもしれないが、それを感じさせない堂々とした芝居が出来ていたのではないだろうか。
 3年生の4人、三月ウサギの原さん、ハートの女王の中村純さん、帽子屋の中村怜さん、チェシャの角田さんは、みんな役にピッタリ嵌まっていて、それぞれの個性をよく生かせていたと思った。セリフもしっかりしていたし、見終わったあと、それぞれのキャラクターが鮮明に記憶に残ったのは大したものだったと思う。個人的な好みはあるが、それは言わない。でも、そういうことを言いたくなるところまで達していたというのは、高校生の舞台でもそうはないことなんだからね。
 2年生の2人、アリスの小村さん、料理長の唐澤くんは、3年生と比較したら可哀想だけれど、それぞれ精一杯頑張って愛すべきキャラクターを作っていたと思う。小村さんは、もう少し笑顔が見せられる時があるとずっと魅力的なアリスになると思った。唐澤くんは、時々照れたように視線を落としてしまうところが残念で、そこが吹っ切れればもっと楽しくやれるのではないかと感じた。
 敢えて全体的な希望を言えば、みんなの一生懸命さがそのまま出てしまう感じがあるので(必ずしも悪いことではないのだけれど)、表情などにまだ硬さが残ってしまうところがあるのがもう一歩だった。一生懸命明るくやろうとするのではなく、意識してないのについ明るくなっちゃうという感じになれば、いっそう楽しい舞台になるのではないかと思った。

 いまのままでも十分に面白い舞台になっていたので、14日は自信を持って自分たちの演技を楽しんできてください。いい知らせを待っています。
by krmtdir90 | 2018-10-10 08:54 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

映画「判決、ふたつの希望」

e0320083_14502555.jpg
 これは予想外の「大当たり」だった。裁判ものらしいし、地味な映画だろうと予想していたが、実に見応えのある骨太なエンターテインメントになっていたのに驚いた。
 レバノン映画(フランスとの合作)というのは初めてだった。レバノンの複雑な社会状況が反映された映画で、始めのうち若干判りにくいところもあったが、映画そのものがそれを自然に学ばせてくれるような展開になっていて、レバノンのことを何も知らなかったわたしも、見終わっていろいろなことを知ることができたように思った。これはかなり凄いことである。

 レバノンの首都ベイルートの工事現場で小さな諍い(口喧嘩)が起こる。当事者の2人、違法建築の補修工事をしていた現場監督のヤーセル(カメル・エル=バシャ)はイスラエルから来た難民(イスラム教スンニ派)のパレスチナ人、その建物の2階に住むトニー(アデル・カラム)はレバノン軍団という右派政党(キリスト教マロン派)を熱狂的に支持するレバノン人である。映画は、小さな自動車修理工場を営むトニーの方に若干ウエイトを置きながら、ことの成り行きを描いていく。
 諍いの背景には、レバノンにおけるパレスチナ難民の微妙な立場が関係しており、レバノン人トニーはかねてよりパレスチナ人の増加に反感を抱いていたという設定である。上司の説得で不本意ながら謝罪に訪れたパレスチナ人ヤーセルに対し、トニーがみずからの正義を譲らず強い言葉で罵ったため、怒ったヤーセルが暴力に訴えてトニーを負傷させてしまう。その結果、トニーの告訴で争いは裁判に持ち込まれることになり、彼らの背景をなす宗教や出自、さらには歴史的経緯や政治的立場などがからんだ大騒動にまで発展してしまうという物語である。

 レバノンは、調べれば調べるほど複雑な内情を持った国だというのが判った。それは、この国が中東では珍しい多民族・多宗教国家であることから発したもののようだ。宗教的にはイスラム教各派・キリスト教各派など合わせて18宗派が乱立し、加えて様々な民族を背景とした政治的勢力が消長を繰り返し、さらにパレスチナ解放機構(PLO)やヒズボラ(イスラム教シーア派)といった過激派組織、イスラエルやシリアといった近隣諸国の思惑などが複雑にからみ合い、激しい紛争や内戦(1975~90年)が延々と続いてきたということらしい。
 諍いの当事者2人もこうした歴史に翻弄されてきた人物であり、そのことが裁判の進行とともに次第に明らかになってくる。現在のレバノンには、過去の様々な経緯や対立の残滓がまだ至るところに残っていて、何かきっかけがあればそれが一気に吹き出すような危うさが隠れていたのである。裁判のニュースが報道されると、それがレバノン人とパレスチナ人の根深い対立に火を点け、衝突や暴動が各所で勃発する不穏な事態に発展していく。2人はもちろん、彼らの弁護士も引くに引けない状況となっていく中で、映画は一回目の判決、さらに控訴審の判決までを、すべてを真正面から堂々と描き切って見せるのである。「真正面から堂々と」というのが、レバノンにおいてどんなに困難なことかは容易に想像される気がした。

 種々の対立が現実のものとして存在している以上、どのような判決もすべての人を納得させるものとはなり得ない。映画の結末も同じことで、レバノンの現況を考えれば、この映画が越えなければならないハードルは恐ろしく高いのではないかと思われた。映画に引き込まれるにつれて、この監督(ジアド・ドゥエイリ)はこの映画をどう着地させるつもりなのかと心配になった。どんな解決も想像できない状況が見えているのである。そもそも、両者が納得することなど決してあり得ないような設定なのである。
 それでも、いや、それだからこそ、この映画を作らなければならないと考えたレバノン人ドゥエイリ監督の思いはしっかりと伝わってきたように思う。
 下された判決は2対1で、被告人ヤーセルを無罪とするものだった。だが、そこに至る弁護人や裁判長の応酬から、2人がこれまでたどって来た苦難の半生が明るみに出され(レバノン国民なら誰も忘れていない、だが忘れたいと思っているのかもしれない出来事が幾つか掘り起こされる)、対立の背景に横たわる一筋縄ではいかないレバノンの不幸な現実が見えてきたのである。どんなに辛い思い出だったとしても、そこまで遡らなければ何も始まらない(前へは進めない)とドゥエイリ監督は言っているのである。

 この映画は、終盤に近い二つのシーンで、2人の間に生まれた小さな変化を捉えている。それはどういう意味を持っていたのか。その描き方は、普通一般にイメージされるような和解のかたちを取ってはいない。だが、それは確かに希望の萌芽を感じさせる印象的なシーンになっていた。
 一つ目は、裁判所を出た2人が互いを意識しながらそっぽを向き、それぞれの車に乗って帰ろうとしたシーン。トニーの車が出て行った後、ヤーセルの車がエンストを起こしてしまう。ボンネットを開け途方に暮れるヤーセルの姿をバックミラーで見たトニーは、戻って行って修理してやるのである。自動車修理工として放っておけなかっただけで、おまえを許しているわけではないという雰囲気を精一杯漂わせながら、彼は終始硬い表情のまま去って行く。
 二つ目は、控訴審の大詰めが近いある夜、法廷でそれぞれの出自や決定的な過去が明らかになった後のこと、トニーの修理工場を訪ねたヤーセルが、何を思ったか突然激しい言葉でトニーを罵り出し、怒ったトニーが彼を殴ってしまうシーン。ヤーセルは告訴の原因となった暴力の時とは逆の状況を意図的に作り出し、その後で短く謝罪するのである。この前はおまえの痛罵に怒って俺は暴力を振るったが、今度は俺の罵倒に怒っておまえが暴力に訴えた。これで「あいこ」だとヤーセルは言いたかったのかもしれない。
 彼ら2人は結局、最後まで普通に言葉を交わし合うことはない。だが、お互いに相手を憎み、相手を全否定する言葉を投げつけたりすることからは、憎悪の連鎖以外に何も生まれないとドゥエイリ監督は言っているように思えた。

 そのことは決して声高に主張されていたわけではないし、上の二つのシーンでも、監督はむしろ実に控え目に短時間でサラリと描写していたと思う。少しでも情緒に訴える描き方をしてしまったら、そんな甘っちょろい展開はあり得ないという気分になってしまっただろう。裁判のシーンなどに見られたこの監督のダイナミックな演出力は、一方で、地にしっかり足をつけて対象を見詰める謙虚な感性に支えられていたことが判るのである。
 2人を担当した弁護士を、正反対の立場に立つ父と娘と設定したことは、やや作為的なきらいはあるもののよく生きていたと思った。レバノンの複雑な国情を考えれば、父娘が同じ弁護士の道に進んだとしても、まったく異なる考えや政治的立場を取ることも珍しいことではないのだろう。この2人の場合も、安易な和解の道は閉ざされているのであり、控訴審の判決後にも2人はわずかに視線を交差させるだけで、その場で言葉を交わすことはないのである。
 実際、レバノンの国民は様々なかたちで分断されているのであって、それは裁判官(3人制を取っていたようだが)とて同じだったと考えられるのである。自らの背景や立ち位置は三者三様だっただろうし、それに照らして一方に傾いた判決を下すことも、ないとは言えないのが現実だったのかもしれない。ヤーセル無罪の判決結果は、たまたまヤーセル側が2人、トニー側が1人だったということに過ぎなかったのかもしれない。

 だが、だからこそドゥエイリ監督は、これら登場人物の些細な表情の変化も見逃すまいとしているように見えた。そんなことは映画のどこでも言ってはいないが、対立や違いを超えて一人一人の人間というところに下りて行けば、そこに思いがけない希望の萌芽を見出せるのではないか。
 この映画で監督は、トニーの妻ハンナ(リタ・ハーエク)を身重と設定し、今回の一連の経過の中で彼女が早産し赤子が危険な状態の陥る展開を用意している。彼女は夫の性向を理解しているが、その過激さについて行けない気分も抱えていた。だが、自分と赤子がこうした事態になってしまったことについて、すべてがヤーセルのせいだと憎しみを募らせる夫に対し、自分にもまったく同じ思いが湧き上がるのを意識しつつ、それが何の解決ももたらすものではないことも判っているのである。赤子の無事を祈る思いでまったく重なり合う2人は、それぞれの憎しみと、その憎しみの空しさをも自然に理解し合っていたように見えた。保育器の中の赤子をともに見詰めながら、彼らには赤子が助かってくれることだけが重要なのであって、そのことの前ではどんな憎悪も無意味なものになってしまうことは、確かに受け止められていたように思われた。
(シネマート新宿、10月7日)
by krmtdir90 | 2018-10-09 14:50 | 本と映画 | Comments(0)

映画「クワイエット・プレイス」

e0320083_14475415.jpg
 全米で大ヒットというので見に行ったが、この映画は「ハズレ」だった。書きたいこともあまりないが、一応記録だから書いておく。

 視覚を持たず、音に反応して人間を襲うクリーチャーによって、すでに人類の大半が死滅した終末世界というのが設定である。この設定の下で、人里離れた農場の一軒家に、音を立てないようにして生き延びている家族がいる。映画は他の要素にはまったく目を向けず、この家族を描くことだけに注力している。恐らく、低予算で必然的に選択された道だったと思うが、その範囲でそれなりに頑張っていたとは言えるのかもしれない。
 だが、とすぐに言いたくなってしまうのが、この映画のダメなところである。アイディアとしては面白いと思うが、現実の世界には様々な音が溢れているのであって、その中でどういう音がタブーなのかという線引きが、あまりはっきりしていなかったように思えた。どうやら自然界の音は問題ではないらしく、一応は人間の声や人間が立てた物音に限定されていたようだが、物音全般を見れば、それが人工的なものかそうでないかは明確に区別することなどできないものだろう。この種の曖昧さがこの映画ではあちこちに散見され(一々指摘はしないが)、観客が映画の中に入り込むことを妨げていたように思う。当然、映画を作っている側や登場人物たちにはその線は見えていたのかもしれないが、それが観客に共有されなければ、スリルもサスペンスも通り一遍のものにしかならないということである。
 この映画は「サバイバルホラー」という売り方をしていたようだが、一方で、危機に瀕した家族が互いに絆を確認し合い、その中で子どもたちが成長していく物語という側面があったと思う。それはかまわないのだが、一つのクライマックスとなる父親の自己犠牲というのは、いかにも取って付けた感じがして少々シラけてしまった。クリーチャーは視覚がないのだから、父親が声を上げなくても、他に気を逸らせる方策はあったのではないかと思えてしまった。この映画は総じて、危機をクリアしていく部分の持って行き方が安易で、ストーリーが都合良く進み過ぎているところが目についたと思う。

 まあ、「ハズレ」と感じた映画についていろいろ書いてもつまらないので、このくらいにしておく。映画選びはしっかりやらなければいけないと思った。
(立川シネマシティ2、10月5日)

by krmtdir90 | 2018-10-08 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「純平、考え直せ」

e0320083_1046155.jpg
 奥田英朗(ひでお)の同名小説の映画化だったようだ。彼が直木賞を取ったのは2004年上半期だが、それ以前に何度も候補に挙がりながら受賞を逃していた時期があって、その頃はけっこう読んでいた記憶がある(もうすっかり忘れてしまったが)。この「純平、考え直せ」は2011年に刊行されたようで、この頃にはもう彼の小説を追いかける気はなくなってしまっていたので、今回の映画も奥田英朗だから見に行ったということではない。
 面白い題名だなと思ったのが最初で、この純平というのが新宿・歌舞伎町でチンピラヤクザをやっている男だというのを知って、ちょっと見てみたくなったのである。

 組の下っ端として雑用などに追われていた純平(野村周平)は、ある日、対立する組の幹部を取って来い(殺して来い)と命じられてしまう。いわゆる「鉄砲玉」である。任侠の世界に一途に憧れる純平は、「これで一人前の男になれる」と勇み立つ。その決行までの3日間を描いたのがこの映画だった。帰りに本屋(ジュンク堂)で原作の文庫本をパラパラ見てみたが、小説の方もほぼ同じような内容で、これは原作のかなり忠実な映画化になっていたようだ(監督:森岡利行)。
 純平は何十万かの支度金と拳銃を渡され、高揚した気分になって夜の歌舞伎町で遊ぶのだが、ひょんな経緯から加奈という女の子(柳ゆり菜)と知り合って一夜を共にする。さらにいろんな経緯があって、彼は彼女と離れられなくなって(簡単に言えば、恋に落ちて)しまうのである。この映画は一言で言えば、刹那的で危なっかしいばかりの若い二人の「純愛物語」だった。

 「純平、考え直せ」という題名は、鉄砲玉になって突っ込んで行こうとする純平に対して、「考え直せ」と呼びかける者がいたということである。だが、それは展開上、必ずしも加奈ということにはなっていないのが面白かった。もちろん彼女も、最後には「一緒に逃げよう」と純平に迫るのだが、彼に「考え直した方がいいんじゃないの」と呼びかける声はもっと他から出ていたのだ。その声は加奈に向かっても「純平を止めなくちゃ」と呼びかけたりするのである。
 これが、加奈とSNSの掲示板でつながった、幾人もの見知らぬ他人の声だったというのが新鮮である。最初の夜に純平がイキがって「鉄砲玉になる」と口走ってしまったのを、加奈が軽い気持ちで「鉄砲玉だって」と書き込んでしまったことが始まりだった。最初は「冗談だろ」と取り合わなかったネット上の友人?たちが、その後の加奈の書き込みから次第に面白半分の盛り上がりを見せ始め、無関心から賛否両論、さらにおせっかいや嘲笑などもとり混ぜて、どんどんエスカレートしていくところが興味深い。その書き込みはさらに、加奈がつい成り行きで純平の名前や歌舞伎町という地名を書き込んでしまったことで頂点に達する。

 小説がこのあたりをどう描いていたのか判らないが、映画はこれらハンドルネームだけで発言する匿名の声の主たちの姿を、実際の映像として短く挿入して見せるのである。そこには、年齢も性別も住む世界もまったく違った一人一人の姿があって、思い通りにならない彼らの生活や、絶望や寂しさや憤懣といったものに満ちた辛い現実が見え隠れしているのである。彼らの中には、パズルのように特定された純平を探し出し、彼の破滅を止めなければならないという思いから、実際に歌舞伎町に向かう者さえ出てくることになる(もちろん、彼らが純平と出会うことはないのだけれど)。
 この展開というのはまったく思いがけないもので、もちろん純平と加奈の3日間というのが映画のメインストーリーなのは揺るがないのだが、その端々に挿入されるこのネット上の声の数々が、2人が追い込まれた状況の切迫をいっそう強調するように働いていたと思う。それだけでなく、声を発している見知らぬ者たちの様々な背景が、きわめて「生きにくさ」に満ちたものであることがうかがえて、それが純平たちがこれから辿るであろう運命と響き合っているようにも感じられ、妙にリアリティのある展開に見えてきて面白かった。

 だが、「考え直せ」という声に対して、純平が考え直してしまったら彼は男になれないわけだし、この題名も成立しなくなってしまうだろう。彼は絶対に考え直すことがないからこの映画が成立しているのであって、純平の行き着く先は見えているということなのである。
 結局3日目の深夜、純平は標的の組幹部に銃口を向ける。映画は、彼の拳銃が発射された瞬間までは捉えているが、弾が命中したかどうかまでは描かない。だが、その直前に、振り返った幹部の両脇を固めていたガードの銃口が、ピタリと純平に向けられていたことをはっきりと映し出していた。純平が役目を果たせたかどうかは不明だが、彼が射殺されたことだけは明らかであるように思われた。残念ながら、九分九厘それは間違いないという終わり方になっていたと思う。
 ラストシーンで、彼の帰りを待っていた加奈の許に、幻の純平が現れて抱擁を交わすというショットを挿入したのは余計だった気がした。幻が消えた後の加奈の放心したような表情が印象的だったので、余計なことはしないでそのアップだけで終わった方が、わたしの好みには合っていたように思った。
(立川シネマシティ1、10月3日)
by krmtdir90 | 2018-10-05 10:46 | 本と映画 | Comments(0)

映画「きみの鳥はうたえる」

e0320083_1681048.jpg
 チラシの惹句に「きらめきに満ちた、かけがえのないときを描く、青春映画の傑作」とある。「青春映画」という括り方は、現代のような多様性が求められる時代には、ほとんど意味のない括りになってしまったように思える。だが、この映画がまさに「青春」と呼ぶしかない「とき」を、映画でしか出来ないやり方で鮮やかに写し取っていたのは確かなことだったと思う。再び惹句に従えば、それは「この夏が、いつまでも続くような気がした」という、後から思えばいつ壊れても不思議ではなかった幸福な時間の経過である。
 「この夏が…」は、恐らく佐藤泰志の原作にある一節ではないかと推測するが(わたしは読んでいないから断定は出来ない)、主人公3人がまさにそうした気分で過ごした短い夏を、映画はあくまで淡々とした語り口で追っていくのである。そう、この映画は出来事を描くというより、出来事と出来事の隙間にある何でもないような時間を映し出すことに力点を置いているように見えた。それは無為の時間と言ってもよく、そこにあるのは説明ではなく気分であり、ちょっとした仕草や視線の揺らぎなどが醸し出す気配や雰囲気のようなものだった。そうしたものを丁寧にすくい上げることで、映画は主人公たちの時間をすべて埋めてしまおうとしているように感じられた。

 その結果、具体的なディテールとしてはまったく異なっているのだが、同様の時間を、確かにわたしも過去に送っていたことがあると思い出させられる気がした。ああ、こんなことがあったなという漠然とした既視感のようなもの。こんなバカをやってたなという親しみに満ちた共感のようなものである。そういう意味で、この映画には少なからぬ身近な実感が散りばめられていたし、懐かしい手ざわりを持った「青春映画の傑作」と言っていいように思った。
 原作が発表されたのは1981年だったというから、原作が描いていたのは1970年代の「青春」(舞台は東京だったようだ)である。そのことがわたしの親近感につながった要因かもしれないが、映画はこれを現代の函館に移し替えて描いていた。だが、原作の持つ「心臓」(監督:三宅唱の言葉)を大切に保持しようとしたことで、映画はきわめて普遍性のある物語としてそれを描き出すことに成功していたと思った。恐らく、これは誰でもが過去に通ってきた時間だったのだ。
 主人公たちを演じた柄本佑(僕)・染谷将太(静雄)・石橋静河(佐知子)の3人は、「演じた」と言うより「生きた」と言った方がいいようなやり方で、映画の中に存在させられていたように思う。そうした撮り方をしたのは三宅唱監督なのだが、恐らくドキュメンタリーと言ってもいいような徹底したカメラの回し方をしたのではないかと感じた。結果的に、あまり見たこともないようなみずみずしい瞬間がたくさん捉えられていたように思う。それを見ているだけで、終始ワクワクさせられ豊かな気分にさせられた映画だった。

 もちろん現実との接点は三者三様にあって、それはなかなか思い通りにならない厳しいものであることは描かれていた。だが、映画の主眼はそちらを描くことにはなく、現実とは遊離した彼らの楽しげな時間の方に寄り添い続けるのである。
 たとえば、飲み明かした夜明けの舗道で(路面電車の線路があるのが印象的だ)、僕と静雄が店先に忘れられた開店祝いの花籠を盗み出そうとするシーン。またたとえば、3人で買い物に行ったコンビニから、一本しかないビニール傘で雨に濡れながら帰ろうとするシーン。傘を持った僕がふざけて急に立ち止まったり、急に走り出したりして2人が後を追ったりする。じゃれ合うようなこの無軌道で楽しい気分には、確かに覚えがあると感じた。
 3人で酒を飲んだり、ビリヤードや卓球をしたり、踊りに行ったりカラオケを歌ったりする。もちろん、そういうことに特段の意味などない。しかし、そういう時間が「いつまでも続くよう」に思えたのは事実なのだ。そうでないことは誰でも知っていることだったが、誰もそれを認めたくなかったし、その事実からは目を背けていたかったのかもしれない。確か、佐知子がどこかで「若さって、なくなっちゃうものなのかな」というセリフを言っていたと思うが、そんな判り切ったことさえ無縁であるような時間もまた存在していたのである。

 この主人公たちは、男2人に女1人という、いままで映画の中で何度となく見てきた微妙なトライアングルなのだった。だが、その関係に関する彼らの内面を、この映画もまた踏み込んで描こうとはしていないように見えた。それが成立している時間は確かにあったのだし、それが概ね楽しい時間であったのも確かなことだったのだから、内部の揺らぎに手を突っ込む必要はないと考えていたのかもしれない。だが、彼らが近いうちに現実世界に絡め取られていくしかないように、この関係も次第に変化し、終わりを迎えることを避けることはできないのである。
 「突然炎のごとく」や「明日に向かって撃て」や「冒険者たち」のように、誰かが死ぬのでなければ関係の終わりが具体的なかたちとなるしかない。この映画は彼らがこの先どうなっていくのかは描こうとしないが、それはまた別の物語になるということなのかもしれない。
 このラストシーンは唐突だったが、ここで映画が終わることには違和感は感じなかった。あのまま僕がカッコつけて去ってしまったら嘘になってしまったと思うが、いままで終始物憂げにダラダラとしか歩いていなかった彼が、何かに弾かれたように必死に佐知子を追ったことで、すべてが鮮明になるエンディングとして収束したと思う。誰も死なないのであれば、トライアングルは最後にはこうなるしかなかったということなのだろう。たぶん、佐知子はこのあと立ち去るような気がしたが、僕がそれをさらにカッコ悪く追って行ったかどうかは判らない。原作がどういう終わり方をしていたのか、ちょっと知りたい気持ちになってしまった。

 この映画のタイトルには、佐藤泰志のあの角張った癖のある字が縦書きのまま使われていて、去年の夏だったか、函館市文学館で初めて彼の自筆原稿を見た時のことを思い出した。たぶん、彼の原稿の文字をそのまま使ったものだったのだろう。
 函館にまた行きたくなった。観光地的な部分をまったく映していなかったが、映画の街のたたずまいや空気感は紛れもなく函館のものだと感じた。今度行ったら、シネマアイリスという映画館(五稜郭の近くらしい)にも是非行ってみたいと思った(館主の菅原和博氏が函館を舞台とした佐藤泰志作品の映画化をプロデュースし、この映画ははその4作目になるということだった)。
(新宿武蔵野館、10月2日)
by krmtdir90 | 2018-10-04 16:07 | 本と映画 | Comments(0)


カテゴリ
以前の記事
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
外部リンク
ファン
ブログジャンル