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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ムーンライト」

映画「ムーンライト」_e0320083_18381534.jpg
 ある意味、非常にストレートな映画だったと思う。誤解を恐れず、単純明快な映画と言ってしまってもいい。一人の黒人少年の「自分探しの旅」を描いた映画であり、同時にその過程で生まれる「ラブストーリー」でもある。

 だが、物語の終わりは一応ハッピーエンドと言っていいのだが、観客はそこで手放しの幸福感に浸ることはできない。彼の自分探しがあまりにも孤独で特異なものであり、この恋がノーマルな男と女の恋ではないからである。通常ならこの手の映画は苦手だし、率直に言ってあまり近付きたいとは思わないのだが、それがつい引き込まれ目が離せなくなってしまい、最後には深い共感を覚えたのはなぜだったのか。
 ここに描かれる主人公の状況は簡単なものではない。多くの社会問題を含んでいる。貧困、麻薬、育児放棄・虐待、いじめ、LGBT(ゲイ)、そして黒人問題など。それはことさら強調されているわけではないが、至極当然のようにそこに存在している。この中にわたしが身近に実感できるものは一つとしてないが、それでも主人公の思いが実感できたのはどうしてだったのか。
 たぶん、これらは主人公にとって切実な問題ではあっても、映画にとっては背景なのである。映画はそれらに囚われ過ぎることなく、そこにある主人公の悩みだけを普遍性のあるかたちに描き出していたからではないか。多様な問題は彼の存在(個)を避け難く縛ってはいるが、作者はそこから誰にでも共感される普遍的な要素を取り出そうとしているのである。

 舞台はマイアミのリバティシティ。貧困層の黒人が住民の大半を占めるという小さな町である。監督・脚本のバリー・ジェンキンスと原案の戯曲を書いたタレル・アルバン・マクレイニーは、2人ともまったく偶然にこの同じ町で生まれ、同じように麻薬中毒の母親のもとで少年時代を過ごしたのだという。だからこれは、信じ難いことだが2人にとっては自伝的内容を含んだ映画だったのである。
 ほぼ100%黒人だけで作られた映画がアカデミー賞を受賞するのは史上初のことだったらしい。

 映画は主人公シャロンの三つの時代を切り取っている。
 まず第1章。小学生のシャロンは「リトル」という渾名でいじめられている内気な子どもである。麻薬常習者で売春もしているシングルマザーのポーラは、母親らしいことは何一つしてくれない。孤独なシャロンをいじめから救い、何かと面倒を見てくれるようになる麻薬販売人のフアンと愛人テレサ、そして同級生の中で唯一の男友達であるケヴィンといったところが主要な登場人物である。この章でシャロンを演じたアレックス・ヒバートという少年はまったくの素人だったようだが、ほとんど口をきかないこの少年の目が印象的だった。この強い眼差しが彼の内面の屈折をすべて物語っているような気がして、画面から目が離せなくなってしまった。
 第2章は高校生のシャロンを描くが、ここでシャロンを演じたアシュトン・サンダースにその眼差しが見事に引き継がれていたのが驚きだった。第3章で大人になったシャロンは、これまでのひ弱な体躯とまったく異なる逞しい身体に変貌して登場してくるが、これを演じたトレヴァンテ・ローズという役者の目にも、確かに少年時代からの同じ雰囲気が漂っているのである。主人公シャロンと男友達ケヴィンの、それぞれの時代をすべて違う役者に演じさせるというのは、この映画の仕掛けた非常に難しい賭けだったと思うが、その試みは鮮やかに成功したと思う。

 この主人公シャロンは、すべてを否定され、まったく居場所のなかった子ども時代からずっと、自分のアイデンティティーを必死で探し続けてきたのだということが判るのである。
 頑なに口を閉ざし俯いていた第1章のシャロンが、父親のように慕うフアンに「自分の道は自分で決めろよ。周りには決めさせるな」と諭される時、それから、そのフアンが自分の母親に麻薬を売っていた事実に直面してしまう時。また、1章の頃はいじめっ子から投げつけられる「オカマ」の意味も判らずフアンに質問していたシャロンが、第2章になって、依然としていじめられながらもみずからのゲイとしての性向に気付き、唯一の親友であり続けたケヴィンとの間でそのことを確認し合った時。
 映画はずっとシャロンに寄り添いながら、その内なる問い、自分は何者なのか、様々な逆境の中でどう生きていけばいいのかを問い続けるのである。

 第3章では、この世界で生きていくためにみずからを鍛え上げ、見違えるような肉体という強固な鎧をまとい、フアンと同じ麻薬販売人として力を持ったシャロンが描かれる。彼はもう「リトル」ではなく、周囲から畏怖を込めて「ブラック」と呼ばれるようになっている。しかし、いかにガードを固めようと彼の内なる問いは消えてはおらず、彼の孤独は変わることはないのである。
 この章では、憎み続けた母親を理解し許すシャロンの姿も描かれる。そして、高校以来別れたきりだったケヴィンとの再会のシーンが描かれる。料理人となったケヴィンの働くダイナーを、シャロンが訪ねるこのシーンは素晴らしい。電話を掛けてきたのはケヴィンの方だが、それに応えて訪問する気になったのはシャロンの方である。この時の彼の内面は彼自身にも掴み切れてはいない。カメラはこの2人の内面をすべて写し取ろうとするかのように、じっくりと腰を据えて2人のやり取りを捉えていく。緊迫感がぐんぐん高まり、男同士の思いがじりじりと画面に溢れ出てくる様は、この上なくスリリングであり、この上なくドラマチックなものだったと思う。
 同性間のこういう感覚はわたしには判らないものだが、ここに描かれた両者の思いというのは、セクシャリティの違いを越えた普遍性を帯びたものだったのではなかろうか。シャロンは生まれて初めて自分のすべてをさらけ出し、子ども時代から固く閉ざしていた自分のアイデンティティーを開放するのである。

 ラストシーンは青白い月の光を全身に浴びて、夜の砂浜に立つ少年時代のシャロンの姿である。月の光の下では黒い肌はブルーに輝くのだと教えてくれたのは、少年だった彼の心を初めて開いてくれたフアンだった。そのシャロンの「始まり」の時に、大人のシャロンが帰ったことを暗示する素晴らしいエンディングだったと思う。
(立川シネマシティ1、4月4日)
# by krmtdir90 | 2017-04-05 18:38 | 本と映画 | Comments(0)

「被災鉄道/復興への道」(芦原伸)

「被災鉄道/復興への道」(芦原伸)_e0320083_11292389.jpg
 立川のジュンク堂で山下祐介氏の本を購入した時、書架のすぐ隣に並んでいた本である。この本の存在は出版時から知ってはいたが、やはり値段が高かったので(税別2300円)購入には至らなかったものである。今回は、2600円を買うのだから2300円でもいいかと、何だかよく判らない理由で購入に踏み切ることになった。わたしが単行本を買う時、2000円というのが躊躇逡巡の一応の目安になっているような気がする。

 著者の芦原伸氏は、わたしの愛読している雑誌「旅と鉄道」の編集長で、震災後に被災地の鉄道を訪ね歩いていたのは知っていた。本書は、震災時に各地の鉄道(走行中の列車や駅などで)で何が起こっていたのかを記録するとともに、その後の被災鉄道がどんな状況になっているのかをルポしたものである。出版されたのが2014年7月なので、各鉄道の復興状況は現在ではかなり変化しているが、記録としての本書の価値は決して失われるものではないと思った。
 帯に「あのとき、東北地方の太平洋沿岸路線を走行中の列車は31本。乗客と乗務員は推定で約1800人。被害は駅の流失24、線路の破壊70ヵ所66キロ、橋梁の崩落119ヵ所。にもかかわらず、乗客・乗務員の死傷者はゼロだった--」という記載がある。これは驚くべきことだと思う。もちろんそこには偶然などが作用したのは確かだろうが、単に幸運だったと片付けることを許さない様々な事実があったということを、本書は具体的に調査し記録している。鉄道とともに歩んできたジャーナリストとして、この芦原氏の行ったことは非常に意義のあることだったと思う。

 個人的なことになるが、2011年の春というのは、わたしが初めて青春18きっぷを購入して鉄道旅に足を踏み入れた時である。3月12日だったか13日だったか忘れたが、とにかく3.11の直後に出発する東北への旅を計画していた。往路で東北本線を北上し、復路で常磐線を南下してくる予定だったと思う。もちろんホテルその他すべてキャンセルになってしまったのだが、ほんの数日ずれていれば、わたしは被災した列車に乗っていた可能性もあったのである。

 芦原氏は本書の終章において、被災地が慢性的な過疎化に直面している地域であり、鉄道利用者の減少になかなか歯止めがかからない地域であることを認めた上で、それでも鉄道による復興が必要なのだということを、きちんと述べてくれている。「鉄道は生活の足だけでなく、街づくりの中軸としての役割もある」とした上で、「その中心となる駅は地域のコミュニティーの場」であり「地域の人々のアイデンティティーでもある」と述べている。「バス停となればそうはゆくまい。バス停はあくまで通過点であり、そこには社会性が生まれないからだ」というのは、その通りだと思った。
 被災地の人々の鉄道への思いは強いとして、「鉄道の果たしてきた役割は大きい」と述べたあとで次のように書いている。少し長いが書き抜いておく。

 日本人にとって鉄道とは、単なる移動手段ではなく、心のどこかにいつも置かれる「律儀」「信頼」「約束」の象徴だったからだ。鉄道には時間を守る、約束を守る、安全を守るという信頼感がある。戦後生まれの少年たちは鉄道員の律儀な勤務態度から労働の大切さ、信頼と約束の尊さを学び、世界トップクラスの高度文明社会を築いてきたと言っても過言ではない。時間にルーズで、事故が起きても乗客を顧みない諸外国の鉄道事情に比べれば、日本人の鉄道への信頼こそが世界に誇るべき精神文化だとは言えまいか。
 被災地の人々の鉄道復興への思いは、そういう意味で単なるノスタルジーではない。鉄道は歴史・文化の結晶であり、鉄道は日本人固有の「生活文化遺産」であるからだ。

# by krmtdir90 | 2017-04-04 11:30 | | Comments(0)

京王線

 また映画館に通うようになり、新宿や渋谷などに出ることも多くなって、最近は京王線を利用する機会が増えたと思う。JRを使うより料金が安いというのが最大の理由だが、時間もそんなに違わないし、新宿からなら帰りは座って来られるというのも大きい。京王八王子と八王子の駅間を歩かなければならないのが難点だが、運動不足解消には逆にプラスになると考えている。
 因みに、新宿・西八王子というのはJR中央線だと550円だが、京八・八王子乗り換えなら360円+133円=493円である。

 実は数ヶ月前、インターネットで軌間(レールの間隔)のことを調べていて、京王線の軌間が狭軌でも標準軌でもない特別な軌間を採用していることをことを知った。
 鉄道ファンになって日も浅いから、軌間の違いということをあまり意識したことがなかった。JRでは、旧国鉄以来の在来線が狭軌(1067mm)、新幹線が標準軌(1435mm)と単純に覚えていただけだった。ところが、標準軌を採用する鉄道は新幹線のほかにも、私鉄などを中心にけっこうたくさんあることを知って驚いた。京浜急行や京成電鉄、阪急電鉄や阪神電鉄といった大手私鉄、銀座線や丸ノ内線を始めとした東京の地下鉄、横浜・名古屋・大阪などその他の都市の地下鉄、高松の琴平電気鉄道や長崎・熊本の市電など。乗ったことのあるものも多いのだが、こういうことはあまり考えたことがなかった。働いていた頃よく利用した西武鉄道や東武鉄道がJRと同じ狭軌だったので、軌間の違いをほとんど意識することがなかったのだと思う。

 京王線は1372mmという珍しい軌間になっている。これは相互乗り入れをしている都営地下鉄新宿線のほか、都電荒川線・函館市電など数えるほどしか存在しない軌間らしい。ウィキペディアによれば、世界的に見てもスコットランドの鉄道に採用例があるだけである。面白いのは同じ京王でも井の頭線は狭軌になっていることで、2つの線路は明大前で文字通りクロスしていて、それぞれの車輌が相互乗り入れすることはできないのである。
 どうしてこういうことになったのかは、調べてみるといろいろな事情があったようだが、いずれにしても京王線が他にあまり例のない軌間を採用している鉄道だということは覚えておきたいと思った。これを知ってから実際に確かめてみたが、狭軌より広いことは判るのだが、標準軌と違うというところまでは見ただけでは判別は難しいと思った(京王八王子駅にて)。
京王線_e0320083_9154827.jpg

# by krmtdir90 | 2017-04-03 23:59 | 鉄道の旅 | Comments(2)

映画「サラエヴォの銃声」

映画「サラエヴォの銃声」_e0320083_1147770.jpg
 「汚れたミルク」のプログラムを買ったら、同じ監督のこの映画と共通の(ページが半分ずつになった)プログラムになっていた。劇場のタイムテーブルを見ると30分後に上映があったので、若い頃だったら絶対に続けて観ていたと思う。だが、2時を回っているのに昼食はまだだったし、この歳になっては昼食を抜いてもという気力は湧いてこなかった。
 しかし、家に帰って、まだ観ていないプログラムが(半分とはいえ)手許にあるのは何となく気分が悪いもので(読むわけにもいかないし)、翌日早々に同じ劇場に出掛けていくことになった。シネマカリテのスクリーンは思いのほか小さかったので、この日は前寄りの席を確保したが、まだもう一列前の席でもよかったかもしれない。

 監督のダニス・タノヴィッチはボスニア・ヘルツェゴヴィナの出身だったようで、その首都サラエヴォの過去と現在を重層的・多面的に浮かび上がらせようとした作品だった。第一次世界大戦の引き金となったサラエヴォ事件から100年の式典が行われることになり、その準備が進む由緒あるホテルを舞台に、映画の時間経過と現実の時間経過を完全に重ね合わせるという野心的な試みが行われていた。上映時間はたった85分だが、これもまた(「汚れたミルク」と同じく)非常に盛り沢山の内容を見事に交錯させながら、緊迫した時間の経過を鮮やかに描き切っていたと思う。

 サラエヴォ事件のことは高校生の頃世界史で習ったけれど、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのことはほとんど何一つ知らなかった。と言うより、高校生の頃このあたりにはユーゴスラヴィアという国があったはずである。その国が泥沼のような内戦を経て解体し、いまはそこに6つの国が出来ている。このことは一応知ってはいたが、その詳しい経過や内実、6つの国名(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)などはまったく判らないというのが現実だった。
 調べてみると、ユーゴスラヴィアは当時から「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国」と言われるほど難しい国家だったようで、そこには常に民族問題や宗教問題などが深刻な火種として燻り続けていたようだ。これは例の米澤穂信の「さよなら妖精」の背景として描かれていたものだが、その複雑な事情はちょっと調べたくらいでは到底理解できるものではなかった。この映画でも、(屋上で行われているテレビクルーによる特別番組のインタビューなどで)サラエヴォ事件を始めとした歴史の解釈や評価について、現在でも様々な対立や摩擦が存在していることが描かれていたが、正直言って(残念ながら)そのあたりの入り組んだ内容はほとんど理解できなかった。
 これは映画の理解にとっては決定的なマイナス要因だと思うのだが、それが映画の面白さを削いでいたかと言えばそんなことにはならなかったのが不思議だった。そうなのだ。この映画の面白さはたぶん、監督のダニス・タノヴィッチの鮮やかな語り口に由来したもので、この監督のテクニックが見せるちょっと例がないほど鋭い切れ味に乗せられてしまうと、理解しにくいところがあってもそれほど気にならなくなってしまうのだと感じた。
 だから、サラエヴォ事件の狙撃者と同じ名前を持つガヴリロ・プリンツィプという青年が背負っているものが何なのか、またこれを警備員の男が射殺するということが何を意味しているのかといったことはよく理解できないのだが、それはそれとして、時間の経過とともに画面の緊迫感がどんどん高まっていくところは感じ取れたし、一見平穏に見える表層の皮を一枚剥いでしまえば、そこには時間を超えた不穏な緊張や対立が渦巻いていることも感じ取れていたと思う。一発の銃声によって、みんなが屋外に非難してしまった後、人影がなくなった空虚なロビーを俯瞰で捉えた白黒の防犯カメラ映像がラストショットになるが、この画面に監督が込めたものは何だったのか。これもよく判らないというのは少々癪に障ったが、すべてが解釈できなかったとしても、やはりそれはそれとしてと終わりにしてしまってもいいのかもしれないと思った。これはそういう映画なのである

 この映画のグランドホテル形式は、経過する時間が現実の時間と一致しているという点で、より一層困難な挑戦になっていたと思う(すべてはたった85分の間に起こる出来事なのである)。先に触れた屋上の女性インタビュアー(ヴェドラナ・セクサン)とプリンツィプという青年(ムハメド・ハジョヴィッチ)の間には、激しい意見の対立がありながらいつの間にか惹かれ合う雰囲気が漂っていた。この2人のストーリーラインは他のラインと絡み合うことはなく、最後の銃声によって不意に他と関係づけられて終わるのである。この「関係づけ」の意味も、やはりよく判らなかった。
 この映画の流れを大きく形成する主要なストーリーラインは、ホテルの支配人オメル(イズディン・バイロヴィッチ)、支配人に信頼されたフロント係のラミヤ(スネジャナ・ヴィドヴィッチ)、彼女の母親でリネン室で働くハティージャ(ファケタ・サリフベゴヴィッチ・アウダギッチ)といったところに関わるものだろうか(書き写していて、スラブ系の名前はやはり特別だなと思う)。
 ホテルが経営難に陥って給料の支払いが滞っていることとか、これに不満を持つ厨房やリネン室を中心に今夜ストが計画されていること、支配人のオメルは地下のクラブに詰める男たちを使ってストを中止させようとしていることなど。もちろん、そこにはもっと様々な要素が複雑に絡み合っているのだが、上の3人以外にも多くの登場人物がそれぞれのストーリーを抱えながら、主要なストーリーに絡んだり離れたりしているということである。これらを巧みに並べて、次第に緊迫感を高めていくタノヴィッチ監督の手際はまさに鮮やかと言う以外ない。
 動き回る人数の多さや描かれる問題の多彩さに比べて、上映時間の85分というのは驚異的な短さである。切り取っているエピソードが的確に選ばれているからこれでやれるのだと思うが、これは誰にでもできる芸当ではないと思った。ホテル内の様々な場所を早足で歩いていくオメルやラミヤの後を、手持ちの(たぶん)カメラが追っていくスピーディな感覚がいい。フレームはワイドなのだが、そこに何を写し取るかという点で緻密な計算が行われていて、その無駄のない画面作りが息つく間もない臨場感を高めて見事だと思った。

 二日間で観た2本以外この監督の他の作品は知らないが、90分前後を基本とした映画がこんな豊かな内容を描けるのだということが驚きだった。わたしなどが言わずともすでに自明のことなのかもしれないが、ダニス・タノヴィッチという監督は凄い監督だと思う。
(新宿シネマカリテ、3月31日)
# by krmtdir90 | 2017-04-02 11:47 | 本と映画 | Comments(0)

映画「汚れたミルク あるセールスマンの告発」

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 ここ数年、遅ればせの海外旅行に出掛けるようになってから、日本のように普通に水道水が飲める国というのは本当に珍しいことを初めて知った。現地で生きている人にはそれなりの抵抗力ができているのだろうが、日本の水に慣れてしまった者は、多くの国で常に安心して飲用できる水を手に入れることを考えなければならない。だが、現地であっても生まれたばかりの赤ん坊の場合はどうなのだろう。安全な水のある日本でさえ、粉ミルクは一度沸騰させたお湯で溶いてから冷まして与えているのである。粉ミルクの量とお湯の量も正確に計っていたし、哺乳壜もしっかり煮沸消毒していた(まあ、3人目あたりになるとけっこういい加減になっていたが)。
 きれいな水が簡単には手に入らない発展途上国などで、医師が母乳から粉ミルクに切り替えさせることはきわめて高いリスクを伴うと言わなければならない。また、映画に描かれた1990年代のパキスタンというのは、女性の識字率は50%以下とされており、医師に勧められたからといって、貧しい母親たちが粉ミルクの正しい与え方をどの程度まで理解し、注意を払って使用できたかはまったく判らないのである。それなりの条件が整備された先進国なら問題はないかもしれないが、社会基盤がまだ脆弱な国々で安易に粉ミルクを奨励するのはきわめて危険なことではないだろうか。

 この映画は、粉ミルクを汚れた水で溶いたり分量を薄めて与えたりしたために乳幼児が次々に死亡したという、パキスタンで実際に起こった事件に基づいている。しかも、映画で描かれた1997年当時の「告発」がきわめて不本意なかたちで終わってしまったため、この不幸な事態はその後もほとんど改善されることなく続いているのだという。
 2006年にこの事実を知った監督のダニス・タノヴィッチは、様々な障害を乗り越えて2014年にこの映画を完成させたが、幾つかの国際映画祭で上映の機会はあったものの一般公開の道は閉ざされ、今回の日本公開が世界初の劇場公開になるのだという。映画はインド・フランス・イギリスの合作となっているが、これらの国はもとより当事国のパキスタンでも上映はまだ実現していない。
 映画の撮影もパキスタン国内では不可能で、インドの俳優を使ってインド国内で撮影されたらしい。「娘よ」がパキスタン映画だったから、この映画もパキスタンを舞台にしているというので興味を持ったのだが、実際にはインドの風景がパキスタンの風景とされていたのである。どうしてそんなことになってしまったのかと言えば、この映画が粉ミルクを販売した世界有数の多国籍企業を告発しているからである。いや、厳密に言えば告発しようとした人間を描こうとしたということなのだが、いずれにしても当該の企業や病院関係者などから様々な圧力や妨害があったことは容易に想像されるのである。

 97年の「告発」が企業側からの圧力によって大きく後退させられてしまったので、この映画には同じ轍を踏まないための様々な仕掛けが施されている。
 映画はまず、1997年の出来事を映画化しようとする2006年の映画製作者たちの姿を映し出す。ロンドンのオフィスに集まった映画監督やプロデューサー、さらに弁護士やWHOの関係者といった人たちが、インターネットでつながった「告発者」アヤン(イムラン・ハシュミ)から話を聞いている。映画化の可否や方向性について検討するこの会議のシーンが本編の節目節目に挿入され、この映画化がどのように事実と向き合おうとしたのかという経緯を明らかにしていく。このように映画製作の過程を見せるというのが大きな工夫の一つになっていて、この中で当該企業の名前「ネスレ」が一度だけ口にされるのだが、すぐに「それはまずいだろう」という意見が出て、仮名「ラスタ」でいくと決定するシーンも含まれている。
 実際、これは公開のめどがまったく立たない中で製作された映画だが、決して告発を前面に打ち出しただけの直線的な映画にはなっていない。むしろ、この主人公アヤンはこの会社にとっては模範的で有能なセールスマンだったわけで、家族の幸せを願って会社の販売戦略(病院関係者などに金銭的な攻勢ををかける)に従い必死で働いていたのである。だから、販売の最前線にいた彼が偶然知ってしまった事実におののき、どうしても告発しないではいられなくなっていく心情や葛藤が痛いほど判るようになっている。こうしたところを丁寧に拾い上げることで、この映画は人間としてのアヤンの生き方を見事に浮かび上がらせる人間ドラマになっていたと思う。社会派と言われる作家の中には、主張ばかりが先行して人間を薄っぺらにしか描けないというケースも多い中で、このタノヴィッチ監督はまったく逆の作家であることがよく判る映画になっていた。

 パキスタン人のアヤンが、そこで働くことがステータスであるような多国籍企業ラスタ社に合格するまでの経緯、働き始めた彼がトップセールスマンに登り詰めていく過程、そして自らが売った粉ミルクで多くの赤ん坊が死んでいる事実を知らされて衝撃を受けるシーン。前半はモーレツ社員の成功物語のようでもあったストーリーは、後半まったく趣の異なる重苦しいストーリーに転換する。告発に至るアヤンの心情は人間としての倫理観とか責任感に基づくものだと思うが、事態の進行とともに彼は対峙している相手の巨大さに押し潰されそうになっていく。
 観ていてどんどん映画に引き込まれていくのは、監督のカットの重ね方、シーンの描き方の的確さに乗せられているということなのだろう。スピード感のある展開が非常にスリリングな流れを作り、上映時間94分というコンパクトな映画でありながら、描かれる中身は非常に濃い密度を持っていたと思う。だらだらと時間ばかり掛ける映画もある中で、これだけ盛り沢山の要素をきちんと入れながら、語るべきことは全部しっかり語り切ってみせたところは見事と言うほかない。
 政府を後ろ盾にした企業側の圧力や脅迫に晒されながら、アヤンは(協力者とともに)ドイツのテレビドキュメンタリーで事実をオープンにするという方向に進んでいく。だが、放映直前にアヤンが企業側からの働き掛けに一時的に屈していた事実が明らかになり、放送は中止となり彼もまた非常に難しい立場に追い込まれてしまう。このあたりの経緯が実際にどんなものだったのかは判らないが、この時主人公が貫くことのできなかった「告発」を、15年以上の時を隔ててこの映画がようやく成し遂げたということなのである。

 現在のパキスタンの状況がどうなっているのかは不明だが、「ネスレ」を始めとする巨大多国籍企業が、市場の飛躍的拡大が見込める発展途上国などを標的に、露骨な販売攻勢を仕掛けている実態は少しも変わってはいないのだろう。インターネットを調べていると、森永や明治の粉ミルクもパキスタンに販路を求めていることが出ていたりする。
 日本に生きていると、粉ミルクが使い方一つでこんなに危険なことになるなどということは考えたこともなかったが、「発展途上」ということの一つの具体例がこんなところに表れているのであり、利益最優先の企業論理がこうした「発展途上」を蹂躙している実態がしっかり描き出されていたと思う。
(新宿シネマカリテ、3月30日)
# by krmtdir90 | 2017-04-01 12:09 | 本と映画 | Comments(0)


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