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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「PK」

映画「PK」_e0320083_2021561.jpg
 インド映画である。インドは製作本数や観客数が世界一多い映画大国のようだが、日本ではその映画はほとんど馴染みがない。2013年に同じ監督・主演による「きっと、うまくいく」という映画がヒットしたらしいが、この時はわたしはまだ映画館通いを再開していなかった。
 私の記憶におぼろげにあるインド映画は、1966年にアートシアターで公開された「大地のうた」を始めとするサタジット・レイ監督作品で、当時これらは非常に高い評価を受けていたが、こういったものが日本におけるインド映画の始まりだったことは、いまにして思うと少し不幸なことだったのではないかと思う。インド映画は長年、質の高い娯楽映画を量産してきており、そうしたものがほとんど日本に来ていない結果になっているのは残念なことである。

 この映画は、まさに現代のインド映画を代表するような娯楽映画の傑作だったと思う。確認したら上映時間は2時間33分だったが、終わった時にはもっとあっという間だったような気がして、まったく長さを感じさせない面白い映画だった。
 基本的な骨格はSF的設定のコメディ映画だと思うが、そこにラブストーリーやヒューマンドラマ、さらにけっこうストレートな問題提起や社会風刺など、実に様々な要素が詰め込まれていて、それらがどれも中途半端なものにならず、笑いと涙できちんと最後まで持って行ってしまうのには感心した。インド映画に特有らしいサービス精神が溢れていて、それがわざとらしさや嫌味といった感じにならないのは、映画作りの豊かな伝統のなせる技なのだろうと思った。ミュージカルでもないのに唐突に歌と音楽とダンスが挿入されたりするのは、インド映画ではごく当たり前に行われていることのようだが、これが少しも不自然に感じられないのは不思議なことだった。

 「PK」とは「酔っぱらい」という意味らしい。主人公の突拍子もない言動に、周囲の人間たちが困ったように投げた言葉がPKなのである。公式ホームページのストーリーにはほんの僅かなことしか書かれていないが、ちょっと書き抜いてみる。
 留学先で悲しい失恋を経験し、今は母国インドでテレビレポーターをするジャグー(アヌシュカ・シャルマ)は、ある日地下鉄で黄色いヘルメットを被り、大きなラジカセを持ち、あらゆる宗教の飾りをつけてチラシを配る奇妙な男(アーミル・カーン)を見かける。チラシには「神さまが行方不明」の文字。ネタになると踏んだジャグーは、「PK」と呼ばれるその男を取材することに。「この男はいったい何者?なぜ神様を捜しているの?」。しかし、彼女がPKから聞いた話は、にわかには信じられないものだった。
 このジャグーを演じたアヌシュカ・シャルマはもちろん初めて見る女優だったが、キュートという言葉は彼女のためにある言葉だと思った。PKのアーミル・カーンは今年51歳になるらしいが、どう見ても30歳ぐらいにしか見えない若々しさで、この難しい役を見事に演じ切っていた。

 映画はすでに上のストーリーより前段で、ジャグーの恋の始まりから失恋の経緯まで(留学先はベルギーだった)、インド映画を特徴づける歌とダンスを交えながらスピーディーにたどり終えている。またさらに、このPKという男がどこからやって来て、どういうことがあっていまのようなことになっているのかを的確に描き終えている(こちらも歌とダンスを交えて)。それは奇想天外ではあるけれど、きちんと設定され、過不足のない筋の通った展開になっている。
 歌とダンスはこれら映画の前半に集められていて、後半には見られない。ただ一カ所、後半の重要なシーンでジャグーとPKがテラスで踊るところがあるのだが、これは前半に見られたダンスとはまったく異質の、ロマンチックで切なくて、それでいながら何とも面白い!シーンになっている。これはインド映画特有の映画的サービスではなくて、コメディの中に紛れ込んだラブストーリーのシリアスな一シーンなのである。

 ラブストーリーという側面一つを取ってみても、この監督(ラージクマール・ヒラニ)は実に丁寧な描き方をしている。娯楽映画という範囲を押さえた上で、決して行き過ぎにならないところで、わかりやすく(けっこう最小限のポイントをきちんと)描いている。伏線などもちゃんと回収されているのは、当然のことではあるけれど見事だと思った。だから、ジャグーと失恋の相手だった青年(スシャント・シン・ラージプート)との思いがけない恋の成就や、PKのジャグーに対する失恋の(旅立ちの)シーンなどがとても胸に響くものになったのだと思う。
 この最後のところなどで、この映画がコメディとしての基本線を外していないことが大したものである。エンディングの(PK再訪問の)オチは若干不発だった気もしたが、これはこれでコメディ映画としての筋を通したことになるのだろう。

 この映画の大きなテーマは宗教と神の問題である。PKの運命を左右する重大な「探し物」について、彼はあらゆる神さまにお願いし祈ったにもかかわらず、それを叶えてくれない神さまはいったいどうしてしまったのか。神の不在というような映画を過去にずいぶん見た気がするが、これはそんな大上段に振りかぶった問題提起ではない。人間世界の常識や思考とまったく切れたところから発せられるPKの言葉は、宗教の持つ様々な矛盾や曖昧さを一つ一つ笑いとともに明らかにしていくのである。
 重要なことは、この映画がそれを徹頭徹尾コメディとして組み立てて見せたことだと思う。神さまが行方不明だとか、人間の願いは(間違い電話のように)神さまのところに届いていないとか、そのかけ違いはどうして起こったのかといった、PKの思いがけない発想や言葉が人々を振り回し、やがて大きな疑問につながっていく。このところを、この映画は笑いの中で軽やかにやってみせたのである。非常に根源的な問題を扱いながら、それをこんなふうに誰もが楽しんで見られるストーリーで描いてしまったことは、娯楽映画としての痛快な勝利だと思った。面白かった。
# by krmtdir90 | 2016-11-02 20:02 | 本と映画 | Comments(0)

京王井の頭線・神泉駅(2016.10.25)

 ユーロスペースの入ったビルは渋谷円山町にある。再び映画を見るようになってからここには何回か通ったが、行く時はいつも、渋谷駅からBUNKAMURAのある東急本店を目指し、左折してもう一回左折してという道を辿った(映画館のアクセス地図がそうなっていたのだ)。この最後の道がけっこうな上り坂になっていて、この上りが円山町に入って行く感じだなと思った。
 大学生だったころ、道玄坂を上って右折し、百軒店(ひゃっけんだな)の上り坂の先にあった「ありんこ」という小さなジャズ喫茶に入り浸っていた。現在は住居表示が変更になってしまったようだが、当時はこのあたりも円山町の一角で、さらに奥の方に細い道の入り組んだホテル街が広がっていた。ユーロスペースのある通りは、反対側の方からこのあたりに入り込んでいる道だと思った。
 前回、ユーロスペースで「函館珈琲」を観た帰り(9.26)、思い立ってこの道の先に迷い込んでみることにした。百軒店に出られると思っていたのだが、方向が少しズレていたらしく、その時不意に「神泉(しんせん)駅」に行ってみようと思いついた。学生時代、円山町の奥を抜けて行くこの方面には行ったことがなかったのである。スマホの地図で当たってみると、渋谷駅に戻るより神泉駅に行く方が距離は近いのではないかと思われた。

 京王井の頭線に乗って渋谷から吉祥寺に向かう時、最初の駅である神泉駅は非常に興味深い現れ方をすると思う。京王の渋谷駅はビルの2階にあるが、発車した電車はそのままトンネルに入ってしまい、それを出た瞬間、踏切を越えてすぐに神泉駅のホームに滑り込む。このホームがまたトンネルの中のような(地下鉄の駅のような)感じで、発車するとまたトンネルになって、少し行ったあとでようやく地上に出て行くのである。神泉駅の手前の地上区間は10メートルもないと思う。
 この区間というのは、線路がアップダウンしているのではなく、渋谷の地形のアップダウンが反映したものである。JR渋谷駅がすり鉢状をした渋谷の地形の谷底にあるのはよく知られていることだが、井の頭線は京王の渋谷駅を出たあと、道玄坂から円山町にかけての高台の地下を通り抜け、次のすり鉢の底である神泉駅のところで一瞬だけ外に姿を現すのである。このあたりは昔は神泉谷と呼ばれたところで、江戸時代には火葬場が置かれたため、穏亡谷(おんぼうだに)とも言われたところだったらしい。
 前回(最初の散歩)の時は、ラブホテルや風俗関係の建物が並ぶ道を抜けて行き、急な下り坂と石段を辿って神泉駅横の踏切に達した。これは非常に変化に富んだ面白い地形だと思った。あのブラタモリが狂喜しそうな地形だと思うが、円山町という(いかがわしい雰囲気を持った)土地柄が、NHKにここを舞台とすることを躊躇わせているのだろうと思った。

 前回は思いつきの散歩だったから、カメラを持参していなかった。次は必ずと思って今回は(「築地ワンダーランド」を見た)出かけたのだが、ちょっと雨がぱらつき始めたこともあって辿る道を間違えてしまった。ユーロスペースから一旦下の道に出てしまったのが勘違いの元で、もう一度坂道を上って戻ればよかったのだが、結局、松濤の方から神泉町へという経路で駅の先の方に回り込むかたちになった。
 しかし、負け惜しみのようになるが、ラブホテルなどの連なる円山町と地続きのようになって、松濤という高級住宅地が広がっているのがわかったのは収穫だった。そちら側からきれいな坂道を下りていくと、谷底にある神泉駅の踏切の通りがもう一つの世界との境界であるようにも感じられた。

 坂道の下にある神泉駅。
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 トンネル出口と踏切。
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 前回は向こう側からこの踏切に出て来た。そちらの道の雑然とした雰囲気と、こちらの道の小綺麗な雰囲気がひどく対照的だった(少し歩き回って写真を撮ろうかとも思ったが、雲行きが怪しかったのでやめにした)。
 踏切を渡りながら向こう側へ。
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 こちらの入口から中に入った。
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 改札口。
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 下りホーム(吉祥寺方面)。踏切を越えて、電車が入ってくる。
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 実は、今回神泉駅に来たのにはもう一つ理由があった。まったくの野次馬なのだが、1997(平成9)年3月に発生した未解決事件、東電OL殺人事件の現場となった木造アパートがいまも残っているのだという。そのことが書かれていたのは(感想文は書かなかったが)1年半ほど前に読んだこの本で、モノクロだったがそのアパートの写真も載っていた。これが記憶の中に鮮明に残っていたのである。
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 本文には、アパートは駅から10メートルほどしか離れていないとあった。
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 ↑この写真の左寄りに見えている。こんなにあっけなく見つかるとは思わなかった。この通りの左側、駅のある方が神泉町で、アパートのある右側が円山町になっている。
 道路に面して半地下の居酒屋があり、その上が木造の小さなアパートになっていた。
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 先の本によれば、居酒屋はいまも(経営者は替わったらしいが)やっているようだが、アパートの方にいまも住人がいるのかどうかはわからない。しかし、もう20年近く前の事件現場がほとんどそのまま残っているのは驚きだった。

 一応、事件の経過を簡単にまとめておくと、このアパートの1階空室で、死後10日を経た女性の絞殺死体が発見されたのである。被害者は東京電力東京本店に勤務する当時39歳のエリート社員(慶應大学経済学部卒)で、その後、彼女が夜な夜な円山町界隈で「立ちんぼ」をしていたことが明らかになると、そのあまりに激しい落差に興味本位の週刊誌などマスコミが飛びつき、被害者の信じ難い行状が次々暴き立てられ日本中が大騒ぎになった。
 5月に当時30歳のネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリが逮捕され起訴された。彼は逮捕時から一貫して容疑を否認していたが、一審無罪、二審逆転有罪、さらに上告棄却を経て無期懲役が確定、服役した。この流れを冤罪であるとの明確な立場から追跡し、併せて被害者の心の闇に鋭く迫ったドキュメント(ルポルタージュ)が出版され話題を呼んだ。
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 奥付は2000年5月と2001年12月になっている。わたしがこれを読んだのもずいぶん昔のことになるが、ずっと気になっていた事件だったと思う。その後、DNA鑑定技術の飛躍的進歩を受けて、2011(平成23)年7月に再審請求が行われ、証拠物件の再鑑定が実施されて、ゴビンダ以外の第三者の関与が浮かび上がった。この結果、2012(平成24)年6月に再審開始および刑の執行停止の決定に至ったことはまだ記憶に新しい。完全な冤罪事件だったわけだが、この時のマスコミなどの取り上げ方は思ったより大きくはなかったように思う。
# by krmtdir90 | 2016-10-28 20:29 | 鉄道の旅 | Comments(0)

映画「築地ワンダーランド」

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 築地市場を捉えたドキュメンタリー映画である。築地市場という名前は知っていても、そこで実際に毎日どんなことが行われていて、そこがどんなふうに動いている場所なのかといったことは、確かにまったく知らなかったことがわかった(真夜中の0時頃にはもう市場の一日がスタートしていて、それぞれの場所でどんどん仕事が始まっているとか)。監督の遠藤尚太郎と撮影スタッフは、1年4ヶ月にわたって築地に密着し、計602時間分という膨大な撮影収録を行ったという。これは、映画がデジタルになったからこそ可能になったことなのだろう。
 しかし、こんなふうに膨大な撮影素材を手に入れても、これをどんなふうに編集するのかは非常に難しかったのではないだろうか。見ているうちに理解されたことだが、築地市場にはそれこそ実に多様な構成要素があり、それを知れば知るほど、全体像を描くことはほとんど不可能と思われたのではないかと思った。2時間足らず(上映時間は110分)にまとめるためにどういう切り口を作るのかといったことは、この不可能との格闘というところがあったのではないだろうか。

 見に行く前には、失礼ながらテレビなどにもよくありそうなドキュメンタリーではないかと思っていた。だが見てみると、これほどのものはやはり映画でなければありえないことが十分納得された。築地市場というものの核心にあるのが何なのかを見事に描き出していたと思った。撮り溜めた602時間分の映像は大半が捨てられてしまったのだが、この取捨選択が実に的確だったということなのだろう。ドキュメンタリー映画として、これほど成功したものはそうはないのではなかろうか。
 凡百のドキュメンタリーでは、説明的シーンや説明的ナレーションが過多になるのをよく見かけた気がするが、この映画ではそれらは文字通り必要最小限に絞り込まれていて、映像が切り取ったものそのものに語らせる姿勢が一貫しているように思われた。そこに映っているものが(つまり、この映画が選び取った映像が)、実に雄弁に多くのことを語っていたと思う。実に面白く、魅力的なシーン(映像)が積み重ねられていたと感じた。

 この映画は、築地市場に特有の職種であるらしい「仲卸(なかおろし)」と呼ばれる人たちに主たるスポットを当てている。この名前は聞いたことがあっても、実際に彼らがどんなことをしているのかは知らなかったし、彼らのプロ意識とか仕事に対する矜恃といったものは想像もできなかった。彼らにとっては何でもない日常やどうということもない言葉などを、こんなふうに生き生きと切り取ることができたというのは、そうなるまでに撮影スタッフの並々ならぬ事前準備(関係構築の努力)があったことが窺われた。
 この仲卸の人たちの仕事ぶりや、買い出し人たちとのやり取りの一部始終は大変興味深く、何とも粋で格好いいと思った。仲卸の彼らが最も嫌がる言葉は「いい魚」という表現だとか、彼らの仕事の根幹となる「目利き」とは、必ずしも魚の善し悪しを判断することではないということとか、知らなかったが、聞いてみるとなるほどと思われるようなことがこの映画の中にはたくさんあった。この巨大な築地市場を回しているのが、この仲卸を基点とするきわめて人間臭い関係の網の目であることがよく理解された。それを記録したことは、この映画の大きな成果だと思った。

 映画の制作者たちの間には、この映画を世界に向けて発信したいという意図が色濃く存在していたようだ(正式タイトルはTUKIJI WONDERLANDであり、ナレーションは英語である)。世界文化遺産になった日本の食文化との関連で、この築地市場が作り上げたシステムは、いまやそのくらい世界の注目を集めているということらしい。そういう意味で、この映画が描き出したものは、徹頭徹尾きわめて日本的なものであるにもかかわらず、恐らくそれ故にだろう、外国の人たちにもよくわかる内容を持っていたのではないかと思った。
 この映画が豊洲移転で揺れる昨今の情勢などにはほとんど頓着せず、築地を最も築地たらしめている人々のあり方だけに焦点を絞り、それを後世に伝えることに徹したことは素晴らしいと思った。この場所でこんなことが延々と続けられ、受け継がれてきたということを記録した価値は実に大きいものがあるのではないだろうか。
# by krmtdir90 | 2016-10-26 14:51 | 本と映画 | Comments(0)

「怪人二十面相」(江戸川乱歩)

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 書店の文庫本の棚の前に平積みになっていた。今どき「怪人二十面相」とはどういう風の吹き回しかと思い手に取ってみると、解説を辻村深月が書いていた。それに釣られて買ってきてしまった。奥付は今年の10月1日になっていて、どうやらかつての少年探偵団シリーズを新潮文庫で連続して刊行することになったらしい。
 子どものころ、ポプラ社から出ていたシリーズを何冊か読んだ記憶があるが、もうはるか昔のことだし、一時的に夢中になったとしても、辻村深月のようにそれをいつまでも大切には思わなかったということである。せっかくだから読んでみたが、特別懐かしいというような気持ちも湧いては来なかった。ふーん、そういうことだったのかと思っただけである。

 だが、巻末の辻村深月の解説は面白かった。小学生のころ、夏休み前の図書室で司書教諭から「よくない本」の例として挙げられたというエピソードが紹介されている。そのあとで、辻村は次のように書いている。

 怪人、犯罪、探偵、ピストル、予告状、誘拐--。乱歩が用意したさまざまなモチーフは、学校が推奨する“正しさ”とか“よさ”の対極にあるものだ。図書室の中でも、少年探偵団シリーズが並ぶ場所は、昼間でも、そこはかとなく夜の気配がした。
 その夜の気配とは、たとえば、実際には見たことがないはずの、小さな電球ひとつがあるだけの薄暗い小道だったり、自分の影が知らない人のものみたいに長く伸びた血のように赤い夕焼けだったり--、子ども心にもなぜか“懐かしい”と感じてしまうような後ろ暗く、美しく背後に近づいてくる夜の、ああいう感じだ。それが学校や大人が推奨する健康的な日向の匂いとは異質のものなのだということは、当時小学生だった私も薄々気づいていた。

 辻村はさらに、「怪人二十面相」の中には小学生だった彼女の「これまでの価値観を凌駕する、悪の美学と哲学」が書かれていたと述べる。この本の中には「スーパーヒーローが二人、対等に存在して」いた。善悪ということで言えば、善の明智小五郎と悪の二十面相ということになるが、「それがお話の中のことだからといってどちらかが絶対ということがない」ことに惹きつけられるのである。「明智さんには明智さんの正義があるし、二十面相には二十面相の正義がある」と。
 彼女はこのシリーズを、「大人が推奨しないからこそ、夢中になれる私たちの読み物」だったと述べ、「乱歩の二十面相を読み、愛し続けながら大人になれたことは、私の誇りだ」と言い切っている。残念ながらわたしは、これを「愛し続けながら」大人になったわけではないが、そういう(子どもながらに大人の価値観に対峙するような)ものが確かに存在し、それを大切に思いながら大きくなったという事実は別のかたちであっただろうと思っている。

 辻村深月が「東京會舘とわたし」の第9章で描いた、直木賞受賞作家・小椋と父親との、本をめぐる対立のエピソードが思い浮かぶ。推理小説やSFばかり読んで、将来小説家になりたいと思っている息子を認めようとせず、「もっとちゃんとした本を読め」と言い続けた父親。小椋=辻村の子ども時代に、父や司書教諭から「遊びの本だ」「よくない本だ」と言われ続けた、たとえば「怪人二十面相」への変わらぬ思いがあったことが、彼らの内なる物語を紡ぎ出し、その文章表現力を磨き高めたという側面があったのだろうと思った。
 わたしは「怪人二十面相」を原点とはしなかったが、国語教師なんぞをやりながら結局、最後まで「ちゃんとした本」はあまり好きにはなれなかったと思っている。だから、辻村深月が言っていることはとてもよくわかったのである。
# by krmtdir90 | 2016-10-25 17:58 | | Comments(2)

「鍵のない夢を見る」(辻村深月)

「鍵のない夢を見る」(辻村深月)_e0320083_1413147.jpg
 辻村深月を読んでみようと思い、書店の文庫本の棚から探してきた。2012年上半期に直木賞を受賞した短編集である。5編が収録されていた。
 読み終わってなるほどと思った。「東京會舘とわたし」で、辻村深月は新しいステージに進み出たのだなと理解された。すでに大量の作品が書かれている中で、たった一冊の短編集を読んだだけで言うのも気が引けるが、「東京會舘…」下巻の帯に「辻村深月が本当に書きたかった物語」とあったのが思い出され、事の真偽は別として、もしそうであるならそれ以前に書かれた作品はすべて、「東京會舘…」に向けた助走(そのための習作)といったものになるような気がした。
 習作と言っても欠点が多いというような意味ではまったくない。この短編集の段階で広く認められていた才能が、一つステップを上がったところにある出口を探していたということである。それをこんなところに見つけたのかという思いがしたということである。

 「鍵のない夢を見る」という集のタイトルはよくわからない。だが、収められた5つの物語は、それぞれまったく独立した物語でありながら、息苦しい孤独感といった点で共通した手触りが感じられた。辻村と同郷(山梨)で直木賞の選考委員でもあった林真理子が、巻末の対談の中で「地方の閉塞感」という言葉を使って指摘している。5つの物語はどれも、東京からそれほど離れているというわけではない(山梨と似たような距離感の)地方都市を舞台としているのである。
 いずれも犯罪や犯罪に近い出来事を扱っていて、その意味ではミステリ的要素を強く持っている作品なのだが、どちらかと言えば作者は、主人公の思いとか拘りといったものを描くことの方に傾斜しているように思える。書き方が「主人公なりきり」タイプとも言うべき方法になっていて、その(彼女の)孤独な違和感といったものに即して、周囲とのズレとか軋轢が巧みに浮かび上がってくるのである。この人は、どんな境遇の主人公でも書けてしまう「書き手」なのだなと思った。

 主人公がすべて女性だったので、この点であまり深入りする読み方にはならなかった。物語の中に出てくる男性は、どれも主人公の女性の目を通して語られることになり、彼女(あるいは作者)のフィルターがかかっているために、存在の曖昧さや否定的側面がやや強調されて表現されていたように思う。女性から見てそうなるのはかまわないのだけれど、書き方が「なりきり」である分、無意識の辛辣さに必要以上に晒されているような気もした。
 もちろん作者は、女性主人公の感性や考え方などにも鋭い視線を走らせているが、男である読者としてはもう一つ共感しづらいところもあったように思う。桜木紫乃のハードボイルドで客観的な書き方と比較すると(比較しても仕方がないのだけれど)、わたしとしては桜木の方を取りたい気分が強くなってしまうのである。辻村も「東京會舘…」ではずいぶん客観的な書き方をしていたが、それを読んでしまったあとでは、この「鍵のない夢を見る」は若かりし辻村深月という感じがして、(面白かったけれど)さらにもっと読んでみようという気持ちにはならなかったのである。
# by krmtdir90 | 2016-10-24 14:02 | | Comments(0)


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