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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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高校演劇2016・今年も東大附属演劇部

 9日(日)、今年も東京大学教育学部附属中等教育学校の文化祭に行って来た。同行者はYassallさんと智くんである。演劇部は今年は都大会進出を逃してしまったようだが、6月にコピスに出演してもらったのでわれわれとの距離感は縮まっている。その分、終演後の感想が厳しめのものになってしまったかもしれない。
 上演したのは、森絵都の小説を生徒が脚色した「宇宙のみなしご」という作品。原作を読んでいないので何とも言い難い感じはするのだが、小説を台本に書き直すというのは予想以上に難しいことなのかもしれないと思った。台本としては、説明的に語るところばかり目について、セリフのやり取りから人物の関係性とか状況が浮かび上がるようには書けていなかった。たぶん原作を愛しすぎているために、距離を置いて作戦を練ることができなかったのではないかと推測した。
 セリフが書けていないと役のイメージも固定的になってしまい、役者の力も発揮しにくくなってしまう。みんな力はあるのに、ちょっと残念な舞台になってしまったと思った。

 帰りに新宿西口の蕎麦屋で、飲みながらあれこれ話しをするのが恒例になってしまった。この日は智くんの新座柳瀬が県大会への切符を手にできるかどうか、ブロック他地区の結果が夕方には出るはずになっていて、作家先生と編集者が芥川賞の受賞待ちをするような雰囲気の席になった。わたしは野次馬だから気楽なものだったが、作家先生としてはハラハラドキドキだったかもしれない。
 結果的に吉報が届いて、お祝いの乾杯でスッキリ締めることができて良かった。県大会の楽しみがまた一つ増えて、11月が待ち遠しいことになった。
# by krmtdir90 | 2016-10-09 23:59 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

北海道の駅がなくなってしまう

 JR北海道が来春のダイヤ改正に合わせ、1日の乗降客が1人以下の46駅を廃止する方向で沿線自治体に打診を始めたことが報じられている。とうとう来たかという感じである。
 沿線の利用客がいなくなってしまったのであれば、その駅が廃止されるのは当然であり、仕方がないことだと思う。それでなくともJR北海道の経営は火の車なのだし、この夏の台風被害の復旧にさらに費用がかかることも判っている。
 だから、これから書くことは一鉄道ファンのわがままであり、現実を見ようとしない繰り言と一笑されてしまうかもしれない。そうであっても、言わずにはおれない気持ちをどうすることもできないのである。

 読売新聞のページに46駅の一覧が載っている。眺めていると胸締め付けられる思いがあるが、とにかくその該当駅を書き抜いてみたい。
*函館本線‥‥東山、姫川、桂川、伊納。
*千歳線‥‥美々。
*札沼線‥‥豊ヶ岡、鶴沼、於札内、南下徳富、下徳富。
*根室本線‥‥島ノ下、東鹿越、羽帯、稲士別、上厚内、尺別、初田牛。
*石北本線‥‥生野。
*釧網本線‥‥南斜里、南弟子屈、五十石、細岡。
*宗谷本線‥‥北比布、塩狩、北剣淵、日進、北星、南美深、紋穂内、豊清水、天塩川温泉、筬島、歌内、糠南、雄信内、安牛、南幌延、上幌延、下沼。
*日高本線‥‥鵜苫、西様似。
*留萌本線‥‥北一已、真布、峠下、幌糠、藤山。

 ほとんどの駅の姿が浮かんでくるのが辛い。JR北海道は今年の3月、石北本線の上白滝を始めとする8駅を廃止しており、12月には留萌本線の留萌・増毛間が廃止されることも決まっている。46駅の次にはいよいよ路線そのものの廃止が現実味を帯びてくることだろう。
 経済の論理の前では、この流れに棹さすことはほとんど不可能に思える。しかし、こうして経済一辺倒になってしまったいまの時代風潮に対して、そろそろ立ち止まってみた方がいいのではないだろうかと言いたい気がする。北海道の鉄道線路と駅は、開拓の時代の貴重な歴史遺産であり文化遺産であるという視点が必要になっていると思う。
 いまでこそ車掌車再利用のダルマ駅舎になってしまった駅にも、かつてはみんな立派な木造駅舎が建っていたのである。駅員や保線の人たちがいて、次々に多くの列車が発着し、駅の周囲にはたくさんの人々の生活が営まれていたのである。いまはすっかり何もなくなってしまったが、そこに立ってそうしたことを思うことに意味がないとは思えない。46駅の中には、当時からの木造駅舎が立派に残り続けている駅も含まれているのである(姫川、塩狩、雄信内、峠下など。上白滝もそうだった)。人々がいなくなってしまった後に、駅舎だけが厳しい風雪に耐えて残っていることは、それだけで(失ってはいけない)素晴らしい遺産なのではないだろうか。

 日本人は世界遺産などと言って大騒ぎするくせに、観光に直接結びつかない遺産にはきわめて冷淡ではないだろうか。しかも重要なことは、これらはまだ過去の遺産になったわけではないということである。流れは止められないからと言って、残った廃線跡などを整備して観光客を集めるといった貧しい発想はやめてもらいたいと思う。
 生き延びさせることで生まれる観光の可能性というのは本当にないのだろうか。
 もちろん少々の観光でJR北海道の赤字体質がどうにかなるなどとは考えていない。そこは国や北海道が根本的に考えなければならない問題である。しかし、JR北海道もいまこそ、廃駅や廃線を言い出す前に、北海道の鉄道線路や駅などの持つ大きな歴史的意義と可能性について、夢を語るべき時なのではないかと思っている。赤字なのに何を言っているのかと言われるかもしれない。しかし、北海道で鉄道に関わっている鉄道員(ぽっぽや)として、開拓時代の歴史遺産を守り生かしていくことを提起するのは少しもおかしなことではないはずである。

 JR九州が先鞭を付けた様々な観光列車を、いま一番走らせてもらいたいのはJR北海道ではないだろうか。車輌の改修費用がないことは判っている。だが、豪華である必要はまったくないのである。いまあるキハ40にほんの少し手を加えるだけでいい。廃止しようとしている駅舎を訪ねたり、宗谷本線の魅力に触れる臨時列車を走らせるとか、何の工夫もしないで廃止を言うだけなら誰も応援しようとは思わないだろう。JR北海道はいま全国に向かって、そうした夢を語るべきである。夢があるのだが、実現するための費用がないのだと率直にアピールすべきなのだ。
 夜行寝台の復活も、北海道の観光ポテンシャルを考えた時、非常に魅力的な選択肢ではないだろうか。新幹線が新函館北斗止まりのいまだから、夕方から夜間に到着する新幹線と接続させて、道内主要都市とを結んだ夜行寝台があれば、かなり大きな需要が期待できるのではないか。豪華寝台ではなく、サンライズのような大衆的な個室寝台がいいだろう。もちろんこれも車輌改修費用がないことは承知の上で、JR東日本を巻き込むようなアピールの仕方もあるような気がする。

 駅も路線も、鉄道というのは一旦廃止してしまえば二度と取り戻すことはできない。こんなことを書いたからと言って何かが変わるものだとは思っていない。しかし、北海道に残った鉄道線路と駅の数々は大好きなのである。それがなくなってしまうのは耐え難いということだけは、とにかく言っておきたいと思ったのである。

↓廃止されてしまう宗谷本線・雄信内(おのっぷない)駅
北海道の駅がなくなってしまう_e0320083_14531491.jpg

# by krmtdir90 | 2016-10-04 14:54 | 鉄道の旅 | Comments(4)

原作「オーバー・フェンス」(佐藤泰志)

原作「オーバー・フェンス」(佐藤泰志)_e0320083_16594663.jpg
 「オーバー・フェンス」は表題作ではなかった。映画化があると、出版社としてはこの機会に原作本を売ろうと手段を尽くす。ただ、表題作でないというのは非常に売りにくいはずで、苦肉の策の全面帯を巻いて「オーバー・フェンス」が入っていることをアピールしていた(写真右)。文庫本になったのは2011年5月だったようだ。
 単行本が出たのは1989年9月で、作者・佐藤泰志が自死する1年ほど前のことだった。表題作「黄金の服」が書かれたのは1983年で、作者としては4回目の芥川賞候補作であり、「オーバー・フェンス」は1985年に書かれた5回目の芥川賞候補作だった。インターネットで当時の選評を調べてみたが、両作ともほとんど受賞の俎上には上らなかったようだ。当時の審査員が老大家ばかりだったというのが、もろに影響してしまった気がした。

 彼の死の理由は判らないが、芥川賞を始め幾つかの文学賞の候補となりながら、ことごとく受賞を逃したことと関連させてしまうのは安易過ぎるだろう。創作上の行き詰まりはあったのかもしれないが、この時期彼は、後に未完の「海炭市叙景」としてまとめられる、傑作の予感を孕んだ短編群を執筆の途中だったからである。
 「黄金の服」という本には、もう一作「撃つ夏」(1981年作)という作品を併せた3編が収録されているが、函館を舞台にしたのは「オーバー・フェンス」一作のみである。そしてこれは、後の「海炭市叙景」に結びつくような構造上の広がりを持った作品だったと思う。登場人物も多く、それぞれを更に書き込んで膨らませることができそうに思えたのである。映画「オーバー・フェンス」のシナリオ(高田亮)が、それをやって見せたということになるように思う。

 原作と映画の関係ということで言うと、もう仕方がないのだけれど、これは原作を先に読んでから映画を見るべきだったと思った。映画の印象が非常に強く残っていて、読みながらイメージが混乱してしまうことがあった。映画は原作を大きく作り替えているところがあり、それがことごとく成功していると言っていいので、後から読んだ原作は若干物足りない印象になってしまったのは確かなのである。
 しかし、それは原作が劣っている(描けていない)ということではなく、シナリオが大胆に膨らませて見せた世界のすべては、佐藤泰志が書いた小説の中にしっかり胚胎していたということなのだと思う。それを見えるかたちに引き出した高田亮と監督・山下敦弘の才能は凄いと思うが、それで原作がつまらないということにはまったくならないのである。小説「オーバー・フェンス」はしっかりとそこにあり、その核心を少しも歪めることなく、映画は映画としてのもう一つの「オーバー・フェンス」を作ったということなのだと思う。

 蒼井優演じたヒロイン・聡(さとし)を造形したことが映画の最大の功績だと思うが、彼女が自分の身体の穢れを病的に落とそうとするシーンは、「黄金の服」のヒロイン・アキの性癖として書かれていた。そういうものをうまく取り込み、鳥の交尾をダンスにするという奇妙な性癖を新たに創造することで、映画は佐藤泰志の小説の中に隠れていた一つのヒロイン像を確かに現前させたのである。
 そういうイメージの自由な飛翔が、佐藤泰志の書くものにはもしかすると欠けていたのかもしれない。単行本あとがきというのが「黄金の服」の文庫本にも収録されているが、それを読むと、失礼な言い方かもしれないが、佐藤泰志はいろんな意味で真面目過ぎたのかもしれないと思った。すべてを真正面から捉えてしまうから、行間には張り詰めた息苦しさがストレートに出てしまうのである。それを欠点だとは思わないが(それこそが佐藤泰志の真骨頂なのだろう)、映画と原作との大きな違いだと思ったのである。

 しかし、これらの小説の持つこの生真面目な「青臭さ」が、年齢を重ねる佐藤泰志の中でどのようになっていくのか、ぜひ見てみたかった気がするのである。
# by krmtdir90 | 2016-10-03 17:02 | | Comments(0)

映画「シン・ゴジラ」

映画「シン・ゴジラ」_e0320083_1651040.jpg
 見るつもりはなかったのだが、いろいろなところでこれに触れた文章などを読むとけっこう高評価のものが多く、一応見ておいた方がいいかなと思った。
 結論を先に言うと、大変面白く見ることができた。大人の鑑賞に堪えると言うか、大人に向けて作られたゴジラ映画だと思った。たぶん、子どもにはよく判らないところが多かったのではないかと思う。

 もちろん怪獣映画だから、その出現から都市破壊の様子、最終的なやっつけ方といったところまで、ヴィジュアル面を現代のレベルで見られるものにできるかという難しさはあっただろうが、CG技術の進歩は目を見張るものがあり、十分楽しめるものになっていたと思う。
 驚いたのは、出現当初のゴジラが、いわゆるゴジラのイメージとまったく異なる姿だったことである。グロテスクな深海魚というか両生類というか、巨大ではあるけれどとてもゴジラとは言えない無様な姿をしていて、海中に生息していたためなのだろう、足はなく歩行はできないので身体をくねらせて前進していくのである。今回のゴジラの素晴らしいところは、海中から地上へという環境変化に対応して、細胞分裂と自己増殖を繰り返しながら身体のかたちを急激に変えていく、突然変異で進化していく生物としてゴジラを設定したことである。幾つかの段階を経てどんどん巨大化し、ついに直立歩行して熱線を放射するゴジラ本来のイメージに到達する。人知を遥かに超えた「巨大不明生物」を現在進行形で誕生させる、その過程はきわめて刺激的な見せ物になっていたと思う。よくこんなことを考えたものである。

 しかも、その出自を太古の恐竜(爬虫類)に求めるのではなく、核開発の初期にアメリカなどによって海中に集中投棄された高濃度放射性廃棄物の影響を受け、深海の生物がこれに適応進化したものであると説明される。この生物は放射線に耐性を持つだけでなく、自らの体内に原子炉状の器官を生じさせ、その核融合反応から活動エネルギーを得ていることが判明する。1954年の初登場以来、延々と受け継がれてきたゴジラの系譜とは完全に切れた、現代の新しい怪獣なのである。
 原子炉器官内の核反応で生じる熱は、血液循環で外部に放出されていることが判ったことから、大量の血液凝固剤を経口投与することでゴジラを凍結させる作戦が実施されることになる。様々な紆余曲折はあるものの、最終的にこの作戦は成功して映画は終わるのだが、これは凍結による一時的な活動停止であって、原子炉を体内に抱えたゴジラはそのまま東京都心に居残るのである。声高に問題提起はされないが、この先ゴジラの体内の原子炉をどのように廃炉にするのか、また巨大な放射性廃棄物となったゴジラをどう処理していくのか、問題は山積したままのエンディングになっている。このあたりの設定や展開には、明らかに3.11の福島第一原発事故が大きな影を落としていると思った。

 さらに、この映画が大人に向けたゴジラになっていると書いたのは、ゴジラの出現以降、この非常事態に対処できない日本政府の動きをきわめてリアルに再現しようとしたことである。初動段階の混乱ぶりや事なかれ主義、態勢の不備など、政治の中枢で想定外の事態にまったく対応できない様子を次々に映し出していく。総理大臣や官房長官以下、関係大臣たちの右往左往を描く中で、映画は内閣官房副長官の矢口(長谷川博己)という男に一応のスポットを当てるが、複雑に絡み合う統治機構の中では個人の存在など関係ないところで事態はどんどん進行していってしまう(どうもこの映画は、人間たちのドラマを描くより、そこに展開する現象を映し出そうとしているように思われた。普通とは違うと言っていいが、一つの行き方として納得はできた)。
 有事における自衛隊の防衛出動(害獣駆除が目的)はまったく歯が立たず、日米安保による米軍機の攻撃も簡単にはね返されてしまう。この間、CGの中に逃げ惑う人々の姿は点描されるものの、この種の映画にありがちな特定の市民がクローズアップされたりすることはなく、市民の安全や生命の確保は攻撃許可を下す総理大臣の(苦渋の)表情に僅かに示されるだけである。恐らく膨大な死傷者が出ているだろうことは想像されるが、この種の映画としては無視するところは無視する以外にないのだろう。

 だが、この映画は自衛隊も日米安保も対処できなくなった先に、国連安保理決議による多国籍軍の結成とゴジラに対する核攻撃(東京への原爆投下)という驚くべきカードを用意するのである。ゴジラという「核」の暴走を止められなくなった時、日本という一国の出る幕は完全に遮断されてしまう。一応の人道的措置として人々が疎開するための短い猶予は置かれるが、疎開の成否に関わらず原爆投下のカウントダウンは開始されるのである。
 映画はこのタイムリミットに対抗するものとして、先に触れた血液凝固剤による攻撃を用意するのだが、こんなものが虚構の中の絵空事に過ぎないことは自明のことである。映画という枠の中にいる限りは、ゴジラが虚構なのだから解決手段も虚構でいいのだということになるだろう。だが、現実の中では想定外の有事に国が対応を誤ったり、有効な解決手段を持てなかったりする時に、一旦動き出すと誰にも止められない大きな歯車があることのリアルさだけは、ここに重く描き出されていたのである。制御不能のゴジラの存在が世界に明らかになり、その凍結が一時的停止に過ぎない以上、カウントダウンはいつでも再開されうると言わなければならない。とんでもないお荷物を抱えたまま、日本は復興の道を歩まなければならないのである。それは、依然として制御不能の福島第一原発を抱えたまま進むしかない、現在の日本という国の比喩であるのかもしれない。

 怪獣映画という完璧な娯楽映画の枠の中で、この国がいかに危ない道を歩いているのかを描いてしまった映画である。日本がアメリカの属国に過ぎないことも、この映画はきちんとリアリティを持って描き出していた。
 なお、この映画の総監督・脚本としてクレジットされた庵野秀明は、わたしはよく知らないが「エヴァンゲリオン」の作者として知られた人なのだという。また、この映画のタイトル「シン・ゴジラ」の「シン」とは何なのか判らなかったのだが、解説などによれば「新」「真」「神」などの意味を含んだカタカナ書きということらしいが、やはりあまりよくは判らないのである。
# by krmtdir90 | 2016-10-01 16:05 | 本と映画 | Comments(0)

映画「オーバー・フェンス」

映画「オーバー・フェンス」_e0320083_17533812.jpg
 函館を舞台にした映画がもう一本公開されていた。そして、これは良かった。こういうのが好きなのだと思った。
 5回も芥川賞候補になりながら受賞叶わず、1990年10月、41歳で自死した佐藤泰志の最後の候補作の映画化だという。彼の小説は2010年に「海炭市叙景」、2014年に「そこのみにて光輝く」が映画化されていて、映画の企画者たちにとっては、この「オーバー・フェンス」が「函館三部作」の終章と位置付けられていたものらしい。わたしは「海炭市叙景」の原作を読んだことがあるだけで、他の作品を(「オーバー・フェンス」も)読んだことはないし、これらの映画も見てはいない。だから、書けるのはこの映画のことだけで、原作や他の映画との比較などはできない。

 主人公の白岩(オダギリジョー)は40歳ぐらいのバツイチの男で、妻子と別れたあと故郷の函館に戻り、職業訓練校(建築科)に通いながらも目標のない孤独な生活を送っている。ヒロインの聡(蒼井優)は昼間は函館公園の遊園地でアルバイトをし、夜はキャバクラでホステスをしていると設定されている。
 映画は一言で言ってしまえばこの2人の「恋物語」なのだが、一方で職業訓練校に通う様々な過去を持った男たちの姿を克明に描くことによって、一種の屈折した「青春」群像劇ともいうべき側面を作り出している。この側面がことのほかいいのである。

 実際、職業訓練校に通っているということは、みんな過去に手痛い失敗を経験しているということであり、訓練を受けているからと言って、彼らの先に何らかの見通しがあるわけでもないのである。日々の訓練校の生活に漂う鬱々とした澱んだ空気を、この監督(山下敦弘)は非常に丁寧に掬い上げている。お互い過去の挫折やいまの立ち位置には触れないようにして、それでも同じ授業を受け、喫煙室でよもやま話をしたり、放課後ソフトボールの練習をしたりする中で、それぞれの距離の遠近を確かめているような感じ。一線を踏み越えないように気を遣いながら、徐々に醸成されていく連帯意識のようなものである。
 この映画は説明をしない。映像として写し取られたものの積み重ねが、自然に彼らの状況を明らかにしていく。その巧みさは、監督と脚本(高田亮)がぴったり呼吸を合わせて作り出したものに違いない。この描き方に思わず引き込まれた。

 この群像の中に主人公・白岩を置き、そことの関わりの中でヒロイン・聡に出会うというかたちにしたことが2人の恋を鮮明にし、ストーリーの展開を豊かなものにしたと思う。
 白岩の人物造形は原作とかなり離れたものになっていたらしいが、聡の方は原作をまったく離れた映画独自のイメージに作り上げられていたらしい(原作を読んでいないから、プログラムの評言などからの情報なのだが)。聡は潔癖性のような情緒不安定の面を持った少女だが、不意に鳥の求愛ポーズをダンスにし始めるような、その感情表現の振幅の中で時折見せる無垢な印象が白岩の心を惹きつけていく。しかし、そのことは彼の行動としてことさら強調されることはなく、白岩は珍しいものでも見るように聡を見詰めているだけである。

 もちろん、この「恋」は一筋縄では行かない。白岩がバツイチの過去に囚われていることは明らかだし、聡の過去や現在も(ヤリマンと馬鹿にされたり)思い通りにならない屈折を抱え込んでいるのである。そんな2人が初めて距離を縮める夜の小動物園のシーンに、監督・山下敦弘は不思議なファンタジーを用意する。白頭鷲(ハクトウワシ)の求愛のダンスを踊る聡とそれを見る白岩の上に、白い無数の鳥の羽根を降らせるのである。この表現をわたしは手放しでいいとは思わないが、とにかくこの晩2人は不器用ながら結ばれることになる。
 そして、その終わった後の展開が、白岩と聡の隠れていた闇の部分を浮かび上がらせることになってしまう。詳しくは書かないが、聡の突然の感情的暴発によって、彼女の鬱屈した潜在意識と白岩のバツイチの真相が明らかになるのである。そのことがお互いの現在を傷つけ、聡の激しい拒絶によってこの恋は一旦は終わりを告げる。

 しかし、この映画は2人の恋だけを描いているのではない。代わり映えのしない訓練校の日常があり、訓練校の若手2人(原とシマ)に白岩が誘われた焼き肉屋のシーンが続く。同席した若い女2人とシマ(松澤匠)の会話にキレかかる白岩。取りなすように、別の店で飲み直そうと白岩を連れ出す原(北村有起哉)。こうして要約してみても何も表すことはできないと思うが、映画の流れの作り方の絶妙さは見事なものなのである。
 次に、眠りこけた白岩が小さな男の子に揺り起こされるカットで、彼が原の家に泊まってしまったことが明らかになる。引きのカットになると、彼の妻が朝食の用意をしている。お互いの素性や生活などには踏み込まないはずの訓練所の人間関係の中で、思いがけず明かされる一人の男の事実である。ストーリーの本筋とは関係がないこうしたシーンが、映画を実に豊かなものにしている。

 映像というのはたった一つのカットですべてを映し出す。この家庭の生活程度がどんなものなのか一目で判る。この家庭が温かなものであることが自然に伝わる。軽薄に見えた原という若い男が、どんな思いで訓練所に通っているのかといったことまで想像されてしまうのである。それに比べて自分は、と白岩が考えたかどうかは判らない(たぶん考えただろう)。
 書き始めるときりがなくなってしまうが、朝食時の男の子の悪戯で原の背中に立派な刺青があることが判ったりする。市電に乗って訓練所に向かう2人の会話で、原が若い時の無軌道を照れながらちょっとだけ明かす。見ながら、巧いなあと思わずにはいられなかった。プログラムの末尾に採録シナリオが掲載されていて、帰ってから読んでみたが素晴らしい本だと思った。脇役にもまったく手抜きがなく、それを的確に映像化して積み重ねた監督の力量にも感心した。

 映画は訓練所の日々を軸にして、それぞれに印象的な多くのシーンを積み重ねていく。大学を中退した過去を持ち、仲間と打ち解けようとしない不器用な森(満島真之介)という男のエピソード。白岩をキャバクラに誘い、聡との出会いのきっかけを作る代島(松田翔太)という掴み所のない男。老後の楽しみで通っているとしか言いようのない飄々とした勝間田(鈴木常吉)という老人など。みんなに小さな見せ場が用意されていて、単純な脇役にならないよう、それぞれの抱え込んでいるものに想像が向けられるような作りになっている。
 もちろん白岩の日常はじっくり描き込まれているが、そういう意味でミステリアスな部分を残していたのが聡ということになるのだろう。それが見えてくる過程が映画の芯であり、恋の行方ということになるのだが、ストーリーとしては白岩が吹っ切ることができない妻(優香)の存在にも決着をつけることが必要だったことになる。

 久しぶりに会う妻は明るく落ち着きがあり、かつて生まれたばかりの子どもに枕を押しつけて殺そうとしたなどということは、観客には到底信じられないのである。見えてくるのは、白岩が彼女を追い詰めていたという事実である(このことは少し後で、聡の存在を思いながら自転車を走らせる白岩の心の独白として、画面外から短く語られることになる)。
 この妻との再会シーンを聡に盗み見させ、ロングの2人(白岩は泣いている)の手前に走り去る聡の赤い車を切り取ったカットは素晴らしかった。白岩と聡が一旦終わった恋をどのように再燃させていったのかについては、ここでたどり直すことはしない。蒼井優が素晴らしい表情の振幅を見せて、聡というヒロインの魅力を演じ切ったのは確かであるが、それを引き出した監督と脚本の力も大きかったと思われる。

 映画は訓練所のソフトボール大会がクライマックスになっている。聡が白岩の誘いに応じて応援に来るのかどうか、白岩が聡に約束したホームランを打てるのかどうか、この2つが最後に設定されたストーリーの「壁」なのだが、もちろんこの映画がハッピーエンドに終わるだろうという予感は、これまでの展開や描き方の中に周到に埋め込まれていたから、あとはそれをこの監督がどう見せてくれるのかという一点だったと思う。
 聡の登場は美しかった。ワクワクした。蒼井優が聡の可愛さを全身で表現していた。アップを使わずややロングにして、彼女の動きのすべてを距離を取って写し取ったカメラが秀逸だった。
 白岩が打った打球は、その軌跡を追う多くの人々の表情で表現された。それは間違いなくオーバー・フェンスすることを信じさせてくれるものだったが、そのことが判明する前に映画は終わるのである。フェンスを越えていくことが様々な登場人物にとって明らかな比喩になっている以上、そこを描かないのがこの映画の奥ゆかしさなのだと思った。見終わったあとに爽やかな満足感が残った。いい映画だったと思った。   
# by krmtdir90 | 2016-09-28 17:54 | 本と映画 | Comments(0)


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