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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル3・本番(2016.6.12)

 6月12日(日)、コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバルの本番、今年もたくさんのお客様においでいただき、ホールは一日中若々しい熱気に包まれていた。その中でわたしも、6校の舞台と階段パフォーマンスを見せてもらい、楽しい時間を過ごさせてもらった。
 とりあえず少し感想を書いておきたいと思ったのだが、昨夜のうちに「久米谷dayory」にかなり詳細な批評文を書かれてしまったので、けっこう見方が共通する部分もあって、後からだとちょっと書きにくいことになってしまった。われわれが「大(ビック)」で飲んだくれている間に、いち早く書いてくださったのだから文句は言えない。わたしの感想は、そんなわけでのんびり書こうと思っている。まあ、しばらく待っていてください。

 先日の西部A地区の春大で、朝霞のコミセンに来てくれた新座北高演劇部OGのMさんとOさんは、同じくOGのNさんを連れてコピスにも来てくれた。久し振りの再会の輪が広がって嬉しかった。Oさんは結婚して姓が変わったらしいが、わたしにとっては3人ともまぎれもなく高校時代のの3人の続きであって、自分の話し方も何となく昔に戻っているような気がして可笑しかった。
 OさんとNさんは、この演劇フェスティバルの第1回に新座北がやった「パレード旅団(中学生編)」に出演していた。Mさんは少し先輩だから、このコピスには出られなかったのを悔しがっていた。あの頃からもうずいぶん長い月日が流れたのである。新座北という学校名はなくなってしまったが、3人とも新座柳瀬ががんばっているのを見てとても喜んでいた。
 またいつか会えるのを楽しみにしています。元気で。

 今年も読み応え十分、40ページの手作りプログラム。
コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル3・本番(2016.6.12)_e0320083_213112.jpg

# by krmtdir90 | 2016-06-13 21:31 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(2)

コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル2・リハーサル(2016.6.11)

 コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバルのリハーサルは無事終了した。あとは明日(12日)の本番を待つばかりである。

 9:00、搬入開始。
コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル2・リハーサル(2016.6.11)_e0320083_2345936.jpg
 このフェスティバルでは、前日のうちにトラックが各校を回り、道具は運送屋のトラックの荷台で一晩を過ごして、朝から一斉に搬入となる。

 9:30、今回初出演の東京大学教育学部附属中等教育学校のリハーサルからスタート。
コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル2・リハーサル(2016.6.11)_e0320083_23453753.jpg
 演目は「トシドンの放課後」(本番上演2校目、11:30~)。リハーサルでは各校とも本番通りセットを立てるのだが、きょうのところは(まだ本番前だから)、どんなセットになるのか分からない段階の写真を並べていくことにする。

 11:00、星野高校スタート。
コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル2・リハーサル(2016.6.11)_e0320083_2346319.jpg
 演目は「天使は瞳を閉じて」(本番上演3校目、13:30~)。

 リハーサルは各校90分。12:30~13:30、休憩。
 ロビーの大階段では、恒例の階段パフォーマンスの練習が午前中ずっと続いていた。今年は川越西高校と東京農大第三高校が担当。
コピスみよし2016第15回高校演劇フェスティバル2・リハーサル(2016.6.11)_e0320083_23463693.jpg

 13:30、リハーサル3校目、坂戸高校スタート。
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 演目は「報道センター123」(本番上演4校目、14:50~)。

 15:00、東京農大第三高校スタート。
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 演目は「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら~」(本番上演5校目、16:10~)。昨年の埼玉県大会で客席を感動の渦にした舞台の再演(千穐楽)。

 16:30、新座柳瀬高校スタート。
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 演目は「Angel in Broadway!=SEQUEL“The First and Last Romance!”」(本番上演6校目、17:30~)。今年も春大の作品の後編になる。

 18:00、リハーサル最後、朝霞西高校スタート。
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 演目は「朝日のような夕日をつれて 21世紀版」(本番上演1校目、10:10~)。

 明日(12日)の開場は9:40。会場はコピスみよし(埼玉県三芳町文化会館)。チケットは300円(一日有効)、当日券もあります。ぜひお越しください。
# by krmtdir90 | 2016-06-11 23:47 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

映画「64(ロクヨン)前編」と原作「64(ロクヨン)」(横山秀夫)

映画「64(ロクヨン)前編」と原作「64(ロクヨン)」(横山秀夫) _e0320083_16313515.jpg
 最近の日本映画では、本編を前後編2部作として、一定期間を置いて順次公開していくという作品が見られるようになった。ボリュームのある原作の映画化などの場合、これはなかなかいい公開方法だと思う。ただ、わたしのようなせっかちな人間にとっては、前編を見たあとあまり長い時間待たされると我慢できなくなる感じもあった。
 こういう公開方法では、後編が公開されてもしばらくは並行して前編も公開され続けるのが判っていたから、それまで待とうかとも思ったが、結局待ちきれずに見に行ってしまった。行く前に、見てしまうとわたしは絶対に原作をもう一度読み直してしまうだろうという気がしていた。結局その通りになってしまったのだが、原作の単行本は647ページもある大作だから、読了するまで完全に二日がかりになってしまった。そういうわけで、映画を見たのは7日(火)だったが、感想文はきょうにずれ込んでしまったのである。

映画「64(ロクヨン)前編」と原作「64(ロクヨン)」(横山秀夫) _e0320083_16323248.jpg
 原作(横山秀夫)そのものが前後編になるような構成になっているので、映画(監督・瀬々敬久)の方をそういうふうにしたのは大正解だったと思う。原作の面白さは、この詳細に描き込まれた前半部分にあると思うので、そこをきっちりと映像化した映画の前編は素晴らしい出来映えになったと思う。
 怒鳴り合いに近いハイテンションのセリフの連続というのは、わたしは基本的にあまり好きではないのだが、この映画ではそのあたりが全く気にならず、全体として十分納得できるリアリティを持っていたのではないかと思った。これは、登場人物の内面や葛藤などがしっかりと造形されていて、人物相互の絡みなどが生み出す様々な関係性や状況といったものが、一人一人の役者の身体全体にくっきりと刻み込まれていたということである。脚本に書かれたセリフ、役者それぞれの演技、それらをしっかり映像に定着させた監督の力、そういったものが高いレベルで総合的に結実した映画になっていたのではないかと思う。

 映画の前編でストーリーの中心になるのは、県警警務部秘書課の広報官・三上(佐藤浩市)をキャップとする広報室と、同じフロアにある県警記者クラブとの対立である。広報室が上からの指示で交通事故の加害者を匿名で発表したことから生じた対立なのだが、ここには警察の隠蔽体質が自らに不都合な情報を闇に葬ってしまうという、原作全体の最終的な核になるテーマが提示されているのである。このあたり、原作が非常に緻密に組み立てられているところなのだが、三上が様々な葛藤を経て自らの判断と言葉で記者たちを説得するシーンは見応えがあり、映画としてしっかり成立していて感動的だったと思う。
 並行して県警内部のもう一つの大きな対立、刑事部と警務部の対立もしっかりと描かれていて、さらに中央対地方というキャリアとノンキャリアの確執なども描き込まれ、人物相互の複雑な関係が(映画ではある程度図式化されてしまうのは仕方がないとして)非常に良く描けていたのではないだろうか。

 題名にもなった昭和64年(たった7日で終わってしまった)の幼女誘拐殺人事件の顛末は、映画ではこの前編のプロローグとして置かれていて、それが未解決のまま1年後に時効を迎えようとしていること、この機に東京から警察庁長官が来県することになり、県警内の様々なところに様々な思惑と軋轢が生じていることなど、後編の新たな誘拐事件に結びついていく過去と現在(そして伏線など)が、非常に要領良く点描されていると思った。
 「64(ロクヨン)」の犯人はまだ影もかたちもないが、後編の展開に否応もなく結びついていく様々な要素は、前編の中にきちんと配置され埋め込まれているのである。表面的には上に書いたような対立関係が前編を支えたのだが、これらの対立を孕んだまま一気に犯人逮捕まで突き進む後編の準備は、遅滞なく整えられたということなのである。

 チラシの図柄からも判る通り、文字通りオールスターキャストによる群像劇になっているが、主役から脇役まで、キャスティングの妙と言ってもいいワクワクするような配置になっていたと思う。主役の三上は原作では際立った醜男と設定されているが、これが全く醜男ではない佐藤浩市になるのは仕方がないことで、このキャスティングがこの映画成功のカギになったような気がする。佐藤浩市は、高倉健亡きあと内面の屈折をきちんと演じることのできる数少ない役者だと思う。
 印象に残った役者は多いが、三上のかつての上司・刑事部捜査一課長の松岡を演じた三浦友和、警務部のトップでキャリア組の警務部長・赤間の滝藤賢一、さらに椎名桔平、奥田瑛二、永瀬正敏、赤井英和、仲村トオルといった、わたしが名前と顔を知っている役者たちが、みんなそれぞれに年齢を重ねた姿で好演していたのが印象的だった。見ている時は気付かなかったのだが、最後のクレジットタイトルで烏丸せつこが出ていたことを知り、帰ってから調べてみると、和服姿の老婦人役で確かに出ていたのには驚いた。あの「駅STATION」から、もうずいぶんの時が流れたのである。
 若手では、記者クラブ・東洋新聞キャップの秋川をやった瑛太、三上の部下である広報室係長・諏訪をやった綾野剛、同じく広報室員・美雲をやった榮倉奈々などが印象に残った。女性の少ない映画だったから、榮倉奈々は儲け役だったのではないだろうか。

 この前編では、原作のセリフなどがかなり忠実になぞられている印象があったが、非常に良く書けている原作の良さが見事に生きたと言っていいのではないだろうか。
 原作は全編が主人公・三上の一人称で書かれている(「私は」という一人称ではないが、終始「三上は」という視点を取って書かれている)が、後半になって新たな誘拐事件が発生し、その経過を描くところになると、この一人称の視点というのが事件の全体像を示すにあたって若干ネックになったのではないかと感じている。刻々と移り変わる状況変化に対して、前半で登場していた様々な登場人物たちがみんなそれぞれの反応や動きを示したはずなのだが、基本的に三上の位置で叙述するしかない一人称では、そうしたものがすっぽり落ちてしまう感じになってしまったように思う。この展開では、神の視点たる三人称が必要だったのではないかと感じた。
 その点、基本的に三人称にならざるを得ない映画の方が、同じことを描くにしても有利になるのではないかと感じる。そういう意味でも、映画の後編に大きな期待が持てるような気がした。
# by krmtdir90 | 2016-06-09 16:33 | 本と映画 | Comments(0)

映画「団地」

映画「団地」_e0320083_105149.jpg
 プログラムなどを読んでいると、日本映画には団地映画という系譜があるようで、先日見た「海よりもまだ深く」のプログラムにもそんなことが書かれていた。以前見た「家族ゲーム」(1983年、森田芳光監督、松田優作主演)などもそうだったらしいが、これははるか昔のことなので、内容はあまりはっきり覚えていない。

 本作のプログラムで佐藤大という人が書いているところでは、団地映画ではそこに営まれている家族の生活に、異物であり侵略者である訪問者が登場することで様々なドラマが生まれるというようなことになるらしい。この映画はまだ公開されたばかりだから、以下ネタバレになることを一応ことわっておくが、この映画の訪問者は家族の崩壊を救済し解放する異星人だったという、何とも人を食った展開が用意されているのである。
 それはそれで構わないと思うのだが、この映画が描き出す主人公家族(藤山直美・岸部一徳の老年夫婦)や団地住人たちの生活が、わたしにはもう一つ面白くなかった感じなのである。訪問者との絡みがほとんどドラマを生んでいないところが、この映画(脚本は監督自身のオリジナル)の弱点だったような気がする。そんなことは理由にはならないと思うが、藤山直美のスケジュールに合わせて、きわめて短い期間で用意された脚本だったらしいのも、一つの原因にはなっていただろうと思う。

 一言で言って、異星人たちの設定がきちんと出来ていないことに尽きるのではないか。いくらCGによる宇宙船を出したところで、映画というのはちゃんと設定されていないものに対しては、残酷なくらい嘘くささを際立たせてしまうものなのだと思う。
 藤山直美・岸部一徳といったところはきわめて芸達者であることは判っているが、長男を事故で失ったということが二人の現在にどう影を落としているかというようなことも、もう少し脚本の中に計算されて書かれていなければいけなかったのではないか。二人の芸に任せておけば何とかなるという甘えが、この監督の中にあったような気がしてならないのである。
 脇を固めた大楠道代・石橋蓮司(これも夫婦である)といったところも、この監督の映画では常連の出演者だったらしいが、いかにもといった感じの人物設定が見えすぎるように思えてしまった。

 アイディアから脚本に熟成させていく過程がなかったことが、展開が安直ではないかといった印象を与えることになった気がする。才能ある監督らしいが、そのあたりは映画脚本というのはもっと緻密な計算が必要なジャンルなのだと思う。
 たとえば、団地自治会の会長選挙に敗れた岸部一徳が、「思ったより人望がなかったんやね」という住人たちの会話を立ち聞きして傷ついてしまい、呆れる藤山直美の前で「死んだことにしてくれ」と言って床下収納庫に隠れてしまうシーン。アイディアとしては面白いのかもしれないが、決して説得力のある描き方にはなっていなかったように思う。その後何ヶ月もの間、岸部の姿を住人の誰一人も見かけることがなくなり、そこから岸部は藤山に殺されたのだという噂話が住人たちの間に増殖していくところなども同様である。

 阪本順治という監督は、わたしがまだ映画をたくさん見続けていた頃から気になる作品がけっこうあって、国内の映画賞を独占するような高い評価の映画もあったようだが、なぜか見る機会には恵まれず、この映画が初見になってしまったことは不幸なことだったかもしれない。
 残念ながら、団地映画と言うなら「海よりもまだ深く」の方がずっと良かったと思うし、SF映画と言うなら「ひそひそ星」の方がずっと上だったと思う。
# by krmtdir90 | 2016-06-07 10:05 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ひそひそ星」

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 園 子温(その しおん)監督の映画を見るのも初めてだった。元々は詩人として出発した人のようだが、映画監督としてすでにずいぶんたくさんの作品を発表しているらしい。それらの多くは国内外で高い評価を得ているようだが、作品によって全く毛色の違ったものになったり、なかなか一筋縄では論じられない監督であるらしい。
 そんな中で、この「ひそひそ星」は25年もの間あたためてきた構想を、みずからの撮りたいように撮るために自身のプロダクション(シオンプロダクション)を興し、そこで思い通りの映画として実現させた野心作ということのようだった。だから、たぶん過去の作品を見ているかどうかはあまり関係なく、この作品だけがここに一本置かれていると考えればいいのだろうと思う。

 それにしても、何とも奇妙で面白い設定を作ったものである。遠い未来、度重なる事故や災害、戦争などによって人間の数が極端に減ってしまい、世界は人工知能のアンドロイドに支配されるようになっていて、人間は宇宙のあちこちに追いやられて細々と生きているらしい。そんな人間のところへ宇宙船で宅配便を届けているのが主人公のアンドロイド、鈴木洋子(神楽坂 恵)である。
 テレポーテーション(物体の瞬間移動)が可能になっているのに、人間はなぜわざわざ手間のかかる宅配便で物を届けようとするのか、アンドロイドには理解出来ない。星から星へ訪ねていくのだから、それは何ヶ月とか何年とか、とにかくとんでもなく手間のかかることなのである。

 映画が始まってしばらくの間、こうした設定は全く見えていない。最初に映し出されていくのは、古びた流し台と水道の蛇口、古臭い箪笥や冷蔵庫、天井の蛍光灯カバーの内側でバタバタしている蛾の影など、時代遅れの狭い室内のアップであり、マッチで点火するタイプの古びたガス台でお湯を沸かし、お茶を飲んだりしている無表情な女の姿なのである。
 こうしたカットの継ぎ目に曜日を示す字幕が次々に挟み込まれ、ほとんど何も起こらないのに曜日だけがどんどん進んで行く。しばらくしてカメラが少し引くと、長細い部屋の一面が何やら古い劇場の音響照明操作卓のような感じになっていて、その上の広く取られた窓の外に宇宙空間の星々が見えてくるのである。あとで航行する宇宙船の外観も捉えられるが、この宇宙船は内装も外装もすっかり昭和レトロの小さな家の姿をしていたのである。

 どうしてそんなふうであるのかよく判らないまま、宇宙船内の単調で退屈な時間の経過を画面は延々と映し続けていく。操縦席に置かれた古いラジオのようなスピーカーから、宇宙船のコンピューターが時々話しかけてきたりするが、女は部屋を掃除したり、オープンリールの小型テープレコーダーに日記のようなことを吹き込んだり、煙草を吸ったりくしゃみをしたり、身体に付いた電池ボックスの電池を取り替えたりお茶を飲んだり、とにかく何も起こらない長い時間の経過があるだけなのである。アンドロイドは退屈を感じないし、座って休憩したり食事をしたりすることもないらしいのだ。
 音楽なども一切ない。わたしはこういうところで眠くなることはほとんどないのだが、睡魔に襲われて困った観客もいたのではないかと推測する。

 わたしはつまらないことをあれこれ考えていたと思う。
 室内に箪笥は2つ置かれていたのだが、別にそれほど背丈があるわけでもないのに、地震などの時に倒れるのを防ぐ突っ張り棒が何本も天井に向かって伸びていて、それだけが妙に浮いた新しい感じで存在を主張しているのはなぜだろう。
 水道の水やガスコンロの火は最初は別に何とも思わなかったが、ここが宇宙空間なのだとすると無重力でなければおかしいのではないか。女がアンドロイドだからといって、お茶を飲んだり煙草を吸ったりしてはおかしいとは思わないが、人間はいないのだから宇宙船内に空気が充たされている必要はないのではないか。等々。

 もちろんこの映画は、そんなことを云々すべき映画ではないのは判っている。しかし、だとするとこの設定は何を意味しているのだろう。
 宇宙船の機械と窓のある面の反対側の面には、宅配する荷物が積み上げられている。少し後になって、女がその箱の幾つかを開けて中身を見てしまう場面があった。箱の大きさに比べて中はちっぽけなものばかりで、たとえば古い写真一枚、ネガフィルムの切れっ端(何コマか)、鉛筆一本、潰れた紙コップといったものである。こうしたものの意味が鮮明に見えてくるのは、単調なシーンの連続に飽きた頃ようやく一つの星にたどり着いて、女が宅配業のユニホームに着替え、鈴木洋子の名札をつけて宇宙船の外に出て行ってからである。
 そこに広がっているのは、人が住めなくなった町並みや荒れ果てた田園風景である。それが福島の風景であることは一目瞭然で、それはこの映画にとって何を意味しているのか。

 鈴木洋子がこの映画で最初の届け先に向かうシークエンスは、きわめて印象的な映像で綴られている。福島の被災地を彼女は黙々と歩いて行く。受取人の住まいなどは描かれず、がらんとした廃墟の片隅で受取人と鈴木洋子は待ち合わせでもしたような感じで荷物の受け渡しが行われる。受け取りのサインをもらい、その紙片を破り取って、彼女は再び被災地の風景の中を宇宙船に向かって帰って行く。
 このあと、彼女が様々な星の様々な場所に宅配の品を届けるシーンが描かれるのだが、明らかに福島であることが判る場合もあればそうでない場合もある。ただ、いずれの場合でもそこはひっそりとした死の気配が漂っており、アンドロイドの彼女はそうした場所にぽつりぽつりと生きている人間に淡々と箱を届け続けるのである。

 プログラムにあった監督の言葉の中に、これは「記憶の宅配便」なのだという言葉があった。いつの間にか、ひどく離れ離れの場所に孤独に生きるしかなくなってしまった被災者たちというイメージがここにはあり、そこをつないでいく宅配便の宇宙船は、信じられないような遠い時間と距離を越えていくしかないのである。これは明らかに、福島の現在に対して設定された比喩であるに違いない。現在は過去の記憶と確かに結びついているのだが、映し出される風景はその結びつきを霧散させるかのように、ただただ鮮明であるだけの現在としてそこにあるのである。
 この映画はいまどき珍しいモノクロ映画なのだが、途中一カ所だけ被災地の風景が鮮やかなカラーに転じるカットが挟み込まれている。そこだけ突然音楽が入り、そのカットはすぐに元のモノクロに戻ってしまうのだが、なぜそんなことが起こったのかよく判らなかった。いまも判っているわけではないが、本来カラーであるべき風景がモノクロでしか存在できなくなってしまった現在というものを、もしかすると表現したかったのかもしれない。

 こういう解釈のようなことは、この映画には不必要なことであるのかもしれない。様々なシーンにこれはどういう意味なのだろうと考えてしまうところがあって、そういうところを挙げていけばきりがなくなってしまう。実際まだほんの入口あたりのことしか書いていないのだが、見ている者の想像力をいたく刺激するイメージが次から次へと現前させられるのである。
 鈴木洋子が映画の最後に訪れるのは、人間だけが集まってひっそりと暮らしているという星で、そこでは30デシベル以上の音を立てると人間が死んでしまうのだという。ここが「ひそひそ星」であるわけだが、彼女が歩いて行くとそこは両側に障子が続く影絵の世界で、人間たちは障子の向こうで影絵になって暮らしているのである。デシベルという単位もベクレルやシーベルトなどと同じようによく判らない単位だが、モノクロで映し出された福島の風景に何々ベクレル、何々シーベルトという放射能の影が張り付いていたことは確かで、人間はデシベルとかベクレルとかシーベルトとか、訳の判らない単位を恐れながら生きていくしかなくなってしまったことへの、もしかすると比喩になっていたのかもしれないと思った。

 書き始めると、映画の中の様々な道具立てやカットの作り方など、あれこれ考えたくなってしまう要素が満載だった気がするのだが、きりがないのでここらでやめておくことにする。何とも変な映画だったが、想像力をいたく刺激される面白い映画だったと思う。福島の記憶、忘れられていく思い出といったことが、恐らくこの映画のキーワードになっていると思ったが、したり顔で全部を解釈できるような映画でないことも確かだと思う。
 それにしても、イメージの一つ一つが不思議に印象に残る、何とも変な映画を作ったものである。
# by krmtdir90 | 2016-06-02 21:49 | 本と映画 | Comments(0)


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