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先日わたしがこのブログに掲載した春大の感想文について、コメント欄で「和光国際高校保護者」を名乗る人物とやり取りがあったことは知っていると思います。その中で、皆さんが感想文の終わりの段落を皆さんの舞台に対する批判と受け止めてしまったらしいことを知りました。わたしは文章全体の流れからして、この台本で最大の問題と感じるシーンを具体的に指摘したのですが、確かに若干言葉足らずの点があったかもしれないと思い、そのことがはっきり判るようにさっき感想文を修正したところです。もちろん感想文の主旨は全く変わっていませんし、皆さんの舞台を評価できなかったという感想は変わるものではありません。しかし、不本意ながらこんな経過になってしまったので、ここでそのあたりのことについてもう少し詳しく皆さんに説明しておきたいと思います。
もちろん、台本選びの段階で皆さんの中にいろいろな思いがあり、しっかり考えた上でこの台本を選んだということは承知しているつもりです。皆さんはこの台本をいい台本だ、面白い台本だと思って選んだに違いありません。しかし、わたしにはそういう台本とは思えなかったということになります。台本というのは発表された時点で多くの読者の目に触れることになり、様々な読み方や意見に晒されるものだというのは判ると思います(舞台を上演するというのも全く同じことです)。皆さんはこの台本を買ったけれど、残念ながらわたしは買うことが出来なかった。それだけでなく、わたしはこの台本が被爆者の思いといったテーマを扱いながら、そのことに全く誠実でないことに怒りに近い感情を抱いたのです。その点に絞って、少し説明してみたいと思います(台本が手許にないので、細かい点に触れることが出来ないのは勘弁してください)。 この母親は原爆投下直後の混乱の中でわが子を見捨てて逃げたという過去を持っていると設定されています。彼女はその過去を自分に許すことが出来ず、以来ずっと口を閉ざし心を閉ざして一生を終えたということになっています。そういう設定をすることは構わないのですが、その彼女が死ぬまで抱え続け直面し続けたこの最初のシーンというのは、いったいどんなものだったのでしょうか。普通の感覚で言えば、母親というのは自分の命を引き換えにしてでもわが子を助けたいと思うのが自然だと思うのですが、彼女はそうしなかった。そうできなかった決定的な状況がそこにはあったと考えるしかないと思います。それではいったいどんな状況が考えられるのでしょう。 たとえば、わが子は原爆の熱線を浴びて身体中血だらけになり(あまり細かく描写する気持ちにはなれない)もはや虫の息であったとか。さらにその身体は瓦礫の下敷きになっていて、容易に助け出せるような状態ではなかったとか。さらに周囲には火の手が間近に迫っていて、すぐに逃げなければ焼け死ぬしかないような状況だったとか。さらにその時近所の知り合いが彼女の手を強く引いて逃げることを促したとか。いずれにしても、そこにはわれわれの想像も出来ないような凄惨で無惨な状況があったのだろうと思います。そしてさらに言えば、それでもこの母親にはその場にとどまってわが子とともに死ぬという選択肢もあったと思うのです。でも、そうはしないで逃げてしまった。 母親を責めることなど誰にも出来ません。その時の情景は彼女の中にいつまでも鮮明に残り続け、彼女はその凄惨で無惨なイメージに生涯責められ続けたのだろうと思うからです。 この台本は、そのシーンを舞台上で演じさせようと(再現しようと)したのです。そんなことは出来ることではないし、どうやったところで嘘っぱちの誤魔化しにしかならないのは分かり切ったことではないでしょうか。彼女が一生涯苦しめられ続けた、忘れようにも忘れようのない、そして誰にも判っては貰えないと必死で蓋をし続けたその情景を、舞台上でやって見せなさいと指定する作者の配慮のなさ、残酷さを、わたしは無神経であると書いたのです。 次に、母親が大きくなった豆の木を登っていき、天上でわが子と再会を果たすシーンについてです。この一連のシーンはいったい何を表現していたのでしょうか。母親は一生苦しんだのだから、最後に彼女が救われるシーンを入れてあげたかったとでも作者は言うのでしょうか。だいたいジャックと豆の木でもあるまいし、天まで届く豆の木という現実にはありえないファンタジーを設定することが、この母親にとって(このストーリーにとって)どんな意味を持っていたと考えているのでしょう。わたしにはどうしても理解することができませんでした。誰にも口を閉ざし心を閉ざしてきた母親が一人で一歩一歩豆の木を登り始めたということが仮に何らかの比喩であったとしても、それに対応する彼女の現実の行為については何一つ触れられてはいないのです。周囲で多くのコロスたちが歌で彼女を励ましますが、彼女の現実の行為とリンクしていないのでは何に対する励ましなのかは全く明らかにはなっていないと思うのです。 一つの解釈として、母親は苦しみ抜いて死んだのだから、その死によって長い苦しみから解き放たれた、豆の木を登っていくのはその解放の過程を表現しているなどという、安直としか言いようのない見方が可能なのは判っています。でもそれは、母親が抱え続けた誰にも判ってはもらえないという苦しみ、被爆者の苦しみに寄り添うようなふりをして、実は周囲の無関係な輩が勝手に作り上げた無責任なハッピーエンドに過ぎないと思います。 そして、さらに許せないと思ったのは、百歩譲って母親が天上でわが子と再会できたとしても、母親がまず謝らなければならないのは、あの時の血だらけで無惨な姿になってしまったわが子でなければおかしいのではないかということです。母親はそのわが子の姿と一生涯ともに過ごしてきたはずだからです。ずっと心の中で詫び続けて生きたはずだからです。原爆以前の無傷で可愛いわが子の姿は彼女の中では永遠に失われてしまったものではないかと考えるからです。少なくとも自らが捨てて逃げてしまった時点のわが子に対して何らかの決着をつけない限り、彼女は無傷で可愛いわが子の姿と出会うことはできなかったと考えるべきだと思っています。母親は苦しみ抜いて死んだのだから、舞台上で最後にそのくらいのプレゼントをしてあげてもいいじゃないかという作者の姿勢を、わたしは安直と書いたのです。 もちろん、これはあくまでわたし一人の意見であり感想に過ぎません。異なる意見を持ち、異なる感想を持つ人ももちろんいるでしょう。一つの台本に対して様々な意見や感想が存在するのは当たり前のことだからです。しかし、この間の経過で「和光国際高校保護者」がやったように、それがこの台本をいい台本だと思って選んだ皆さんの見方と違っているからと言って、排除してしまうようなことをするのは決していいことだとは思いません。皆さんは判っていると思いますが、この台本をいい台本だと思って上演した皆さんは、こんなふうにこの台本をいい台本だとは思っていない観客に対しても、その見方を凌駕するような舞台を作らなければならなかったのではないでしょうか。高校演劇では過去にそういった舞台(問題点だらけの台本を大化けさせてくれた舞台)がなかったわけではないからです。残念ながら皆さんの作った舞台は、わたしに対して台本の問題点を際立たせてくれるような結果にしかなっていなかったように思います。 和光国際高校演劇部は、過去に素晴らしい舞台を幾つも作って見せてくれました。つい最近でも、「Damn!舞姫!!」や「ナツヤスミ語辞典」といった舞台は非常に見事な出来映えで印象に残っています。皆さんの次の舞台をわたしは期待して待っていることをお伝えしておきます。 #
by krmtdir90
| 2016-05-21 08:40
| 高校演劇、その他の演劇
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今回の旅でタシケントのナヴォイ劇場は深く印象に残っていたので、その建設の様子を紹介したこの本は大いに期待して読んだのだが、残念ながらわたしの期待は大きく裏切られる結果となった。感想文を書かないことも考えたが、結果はどうであれわたしがナヴォイ劇場にひどく感動したことは変わらないのだから、それに関連した読書の記録として一応残しておくことにした。 著者の嶌信彦という人は、写真を見るとテレビなどにもよく出ていた著名なジャーナリストである。略歴によれば、NPO法人日本ウズベキスタン協会というところの会長も務めているようで、その関係から非常に多くの方面に取材を重ねてこの本を執筆したようだ。そういう意味では、ナヴォイ劇場建設にまつわる興味深い事実などもたくさん入手していたのではないかと思う。 しかし、それはこの本では少しも生かされることはなかったと思った。端的に言えば、この人はドキュメンタリーというものを書くための方法論をきちんと確立できないまま、この本を書いてしまったのではないかと感じた。どんなに興味深い事実を発掘したとしても、それを正しく読者に届けるためのドキュメンタリーの作法を操ってくれなければ、せっかくの宝も生かされないことになってしまうのだと思った。残念と言うしかない。 日本兵捕虜としてナヴォイ劇場の建設に携わったのは、永田行夫隊長以下457人の旧陸軍航空部隊の工兵たちだったという。旧満州でソ連軍の捕虜となった時、各部隊にいた佐官級(大佐以上)はモスクワの収容所に送られることになり、編成替えされた一中隊を当時大尉だった永田行夫が任されることになったらしい。永田はこの時まだ24歳の若さだった。 何とも興味深い始まりと言っては少々語弊があるかもしれないが、このあと彼らが遥か中央アジアのタシケントまで移送され、その第4収容所で苦難の抑留生活をスタートさせると同時に、後年タシケント市民の誇りとなるようなオペラハウスの建設に従事させられることになる経緯は、ドキュメンタリーとして書かれるのであれば是非とも読んでみたい内容と言ってよかった。 著者の嶌が犯した最大の失敗は、これを安直なドラマ仕立てにして記述してしまったことにあると思う。テレビのドキュメンタリーなどでも時々見かけるこのドラマ仕立てという手法は、視聴者が想像し考える自由を一方的に奪ってしまう最悪の手法である。ましてや本は映像ではない。字面を追いながら読者が思考していく回路を、このドラマ仕立てがことごとく阻害してしまう結果になってしまった。嶌にはドラマを組み立てる力もきわめて貧弱だったと言うしかない。 永田隊長を始め多くの登場人物は嶌が書いたセリフを喋るのだが、嶌はまず平田オリザの「演劇入門」あたりを読んで、セリフの何たるかからしっかり勉強し直してほしいと思った。セリフだけではない。様々な描写なども含めて、登場人物たちの思いや絡みが要するに陳腐な予定調和のレベルに貶められてしまい、事実の持つ奥行きなどがみんな消されてしまった上っ面だけが残される結果になった。読みながら、こんな時にこんな会話をするわけがないだろうと断ずるのは悲しいことだった。 それでも、この地に日本兵捕虜たちが残した足跡というものは、後世の日本人がしっかりと記憶に留めておくべき大きな歴史上の出来事だったと思う。だからこそ、嶌氏には取材で明らかになった事実をあくまで事実として客観的に記述してほしかったのである。どういう人々に取材をし、どういう証言や資料などを入手したのか、そこからどういう事実が見えてきたのかを余計な操作なしに教えてほしかった気がする。 過去にこのブログでも取り上げた幾つかのドキュメンタリーの傑作を思い出すと、このナヴォイ劇場建設のドキュメンタリーがそういうものでなかったことが惜しまれてならないのである。 #
by krmtdir90
| 2016-05-19 18:47
| 本
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4月21日の夜明け。
いよいよウズベキスタン最後の一日である。この日の朝が一番厳しい日程だった。7:15に集合して、バスでウルゲンチの空港に向かう。 この道路にはトロリーバスが走っていた。トロリーバスは架線から電気を受けて走るから、それなりに整備された道路でないと成り立たない乗り物である。 ウルゲンチ空港は地方空港だから、手荷物検査なども簡単だろうと思っていたら、こんなところでライターが引っ掛かって没収された。100円ライターだから別に構わないのだが、引っ掛からない人もいたようなので何となく割り切れない。 今回のツアーでは珍しく喫煙者が(わたしも入れて)4名もいて心強かったのだが、その中でやはりライターを没収された男性が、こんなこともあろうかとマッチを用意していたのには感心した。このあと、このマッチや没収されなかった他の人のライターにお世話になることになった。 空港ビルを出てすぐのところにわれわれの飛行機が停まっていた。 タシケント空港は首都の空港なので(国内線と国際線は別々になっているようだが)、敷地も広くバスで空港ビルに運ばれた。 空港からこの日の昼食場所まで、バスで30分ほどかかった。 鉄道の線路を越えた。 この日の昼食は中華だった。さすが首都ともなると、食事にも選択の幅が出てくるのだろう。 食後は午後のタシケント見物に出発。最初はバスで15分ほど。 そのバスの車窓から。これはウズベキスタン国営航空の本社ビルだったようだ。 ということで、最初に行ったのは日本人墓地である。 太平洋戦争が終わったあと、旧ソ連によって行われたいわゆるシベリア抑留で、シベリアとは言い難いこんな中央アジアの遠隔地にまで送られた人々がいたのだ(このことは、申し訳ないことだがこの旅に来るまで知らなかった)。 調べてみると、ウズベキスタンに抑留された日本人捕虜は約25000人、死者は884人とされている。そのうち、われわれが訪ねたヤッカサライ墓地には79名が埋葬されているという。 これが公営のムスリム墓地入口。 墓参を終えて、再びバスで10分足らず、次に向かったのはウズベキスタン歴史博物館だった。 また何枚か、バスの車窓から。これはサッカースタジアムらしい。 ウズベキスタン歴史博物館。 このあと、近くにあるナヴォイ・オペラ・バレエ劇場に向かった。 ナヴォイ劇場は、旧ソ連時代にはモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハウスと並ぶ4大劇場の一つとされていたものらしい。完成は1947年11月だが、この建設に1945年秋から2年間、非常に重要なかたちで関わったのが、ソ連軍によって抑留され当地に送り込まれた日本人捕虜たちだったのだという。彼らはきわめて劣悪な環境下に置かれながらも、手を抜くことなく、現地ウズベク人たちと協力してこの建設に熱心に取り組んだらしい。 1966年4月、タシケントは大きな直下型地震に見舞われ、市街地の大半が崩壊する大きな被害を受けた。この時、市の中心部にあったこのナヴォイ劇場だけが、ほとんど無傷のまま倒壊を免れ、市民の避難所として活用されることになったのだという。この時以来、捕虜であるにもかかわらず日本人が誠実に仕事に取り組み、高い技術力で劇場建設にあたったことへの賞賛と敬意が、ウズベキスタン人の中に自然に広がっていったようだ。 大地震でも倒れなかった素晴らしい劇場を日本人の捕虜が建設してくれたという話は、現代でもほとんどのウズベキスタン人が語り伝え、誰もが知っているような有名なことであるらしい。わたしはこの話を知らないままこの地に来たのだが、ガイドの説明を聞きながら胸が熱くなるような感動を覚えた。 これがナヴォイ・オペラ・バレエ劇場である。 われわれは(少なくともわたしは)ウズベキスタンのことをほとんど何も知らなかったが、ウズベキスタンの人々はずっと日本という国に敬意と親近感を抱いてきたらしい。その始まりのところに、このナヴォイ劇場建設にまつわる様々な経緯があったのを知ったことは、わたしにとってとても大きなことだったと思っている。 このあと、劇場の裏手から道路を渡って、ウズベキスタンで最後の買い物タイム・スーパーマーケットに行った。ご近所へのちょっとしたお土産など、ここで現地通貨のスムを使い切ってしまおうということらしかった。この奥に見えているのがマーケットの入り口だが、手前の工事中のところに大きな透明ガラスが運び込まれているところだった。 このマーケット内で一旦解散になり、ナヴォイ広場脇の道路に停まっているバスに×分後に集合というかたちになった。われわれは早く買い物を終えたので、もう一度ゆっくりナヴォイ劇場を見て帰ることにした。 途中に、これも明らかに劇場と思われる建物が建っていた。 さて、もう一度ナヴォイ劇場。 このあと、レストランで夕食をとり、 空港ビルに入ってからのことは、正直あまり触れたくない。出国審査がとにかく意味もなく厳重で、手荷物検査の関所を信じられないことだが3回も通された。最後には靴も脱がされ、ベルトも取らされた。最後に来て、ウズベキスタンの好印象はかなりマイナスになってしまった。 待合室。 ウズベキスタン航空の飛行機は22:05、ほぼ定刻にタシケント空港を飛び立った。機中泊になっていたが、ウトウトしかかったところで(とんでもない時間に)機内食が配られたり、またウトウトすると飲み物サービスが来たりと、とにかくほとんど眠ることはできなかった。 飛行時間7時間50分、機中で時差の修正を行った(4時間プラスした)ので、成田到着は翌4月22日の9:55だった。 整理にずいぶん時間がかかってしまったが、ウズベキスタンの旅はこれでおしまいです。読んでくださった方、どうもありがとうございました。 #
by krmtdir90
| 2016-05-12 21:04
| 海外の旅
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われわれが泊まったホテル・アジア・ヒワの2号棟。
9:00、2号棟ロビーに集合。現地ガイドの案内で、ヒワのイチャン・カラ(内城)の見学に出発した。 城壁の外の道を歩いて、観光客用の正門である西門を目指す。 南西の角を回り込んでいくと、すぐ近くに人々の生活のエリアが広がっていた。 西門(オタ・ダルヴァザ門)。 門を入るとすぐ右手に、イチャン・カラの地図が掲示されていた。 両側には様々なお店が並んでいる。 カルタ・ミナル。 ちょっと判りづらいが、このメドレセとカルタ・ミナルの間は木の橋でつながっている。 このメインストリートを歩いて行くと、現地の女性たちが音楽に合わせて踊っていた。 右手の道に入って行く。 パフラヴァン・マフムド廟入口。 入口を入ると、すぐ右手に湧き水があり、コップが置いてあって誰でも飲めるようになっていた。 正面に青い装飾が施された廟への入口。 この天井が、昨夕から何度も見ている青いドームの内側ということになる。 廟を出てからどういうルートを歩いたかはっきりしないが、 次に行ったのはジュマ・モスクだった。ミナレットのすぐ下が入口になっていた(この写真の左下。入口の全景は撮っていない)。 ジュマ・モスクを出て少し歩き、 キョフナ・アルクの内部は一部分しか残っていないようで、何かよく判らない板張りの広いところを横切って行った。城壁越しにカルタ・ミナルが頭を覗かせている。 さて、目指すは元の見張り台だったという展望台である。この正面の入口を入り、狭い急な階段を上るのである。 視野を少し左(東の方)に振ってみる。 こちらの方に望遠をかけてみる。 このすぐ右手、一つ前の写真では中央やや右のあたりにさらに望遠をかけると、 最後は北の方角。 さて、キョフナ・アルクを出たところで、城壁の入口のところを一枚きちんと写しておく。 食後はレストランの前で一旦解散になった。 というわけで、われわれはホテルには戻らず、このままもうしばらくイチャン・カラの中を散策することにした。ところが・・・。 実際、東門(パルヴァン・ダルヴァザ門)の方に行ったり、道端のお店であれこれ買い物をしたりしたのだが、いったいどうしてしまったのか、この間の写真が全く欠落してしまっているのである。 撮らなかったはずはない、撮っていたはずだとも思うのだが、メモリーカードに残っていないのだからどうにも説明が付かない。この部分だけ誤って消してしまったということも考えにくいし、たぶんけっこう疲れていて、もういいかなという気分になっていたのかもしれないと思う。いまにして思えばちょっと考えられないことなのだが、とにかく写さなかった(あるいは残っていない)のだからもう仕方がない。そういうわけで、東門には確かに行ったのだけれど、4つの門のうち東門の写真だけがないのである。 恐らく午後3時過ぎにはホテルに戻って、あとの時間は休憩していたと思うが、写真がないとこのあたりの記憶もどうもはっきりしない。 ともかく、このあと17:45に2号棟ロビーに集合して、再びイチャン・カラの中の別のレストランに夕食に行った。 #
by krmtdir90
| 2016-05-10 21:57
| 海外の旅
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19日は一日中バスに揺られていたから、運動不足を感じていた。ホテルの夕食時間までまだ1時間以上あるので、ちょっと妻と散歩に出てみることにした。
さっき、われわれの観光バスが入って来たホテルの通用門から外の道に出た。右に、さっきバスが通って来た外側の城壁の門が見えている。 ヒワの町は、16世紀初頭から20世紀初頭にかけてこの地に存在したヒワ・ハン国の首都であり、外敵の侵入を防ぐために二重の城壁で囲まれていた。外側にあるのが、1842年にカラクム砂漠との境に築かれた全長6キロの城壁で、これに囲まれたところをディシャン・カラ(外城)と呼ぶ。 内側の城壁は高さ約8~10メートル、厚さ約6メートル、長さ2250メートルで、この内側がイチャン・カラ(内城)である。イチャン・カラには歴史的建造物が集中し、ラクダをひく隊商が行き交った頃のオアシス都市の姿をそっくり残しているということで、1990年にウズベキスタンでは最初にユネスコ世界文化遺産に登録されている。 イチャン・カラはきわめて狭い区域で、地図の縮尺で確認してみても、せいぜい東西約350メートル、南北約550メートル足らずの中に収まってしまう。四方に城門がある中で、これは南門(タシュ・ダルヴァザ門)である。 南門を入る。 犬もいる。 ミナレットが見えている。 これはイスラーム・ホジャ・ミナレットと言い、イチャン・カラで最も高い(45メートル)ミナレットのようだ。 イスラーム・ホジャ・ミナレット。 次の2枚は、パフラヴァン・マフムド廟をちょうど裏側から写していたようだ。 後ろを振り返る。パフラヴァン・マフムド廟はこの右手、正面にはイスラーム・ホジャ・ミナレットがある。 さらに進んで行って左に折れると、別のミナレットが立っていた。 ラクダがいた。 途中で切られてしまったような、不思議なかたちをしたミナレット。カルタ・ミナル。 このカルタ・ミナルを調べてみると、1852年に着工されたものの、いろんな経緯があって工事が中断したままになってしまったものらしい。基礎部分の直径が14.2メートルもあるので、完成していれば高さ7、80メートルの巨大なミナレットになっただろうと書かれていた。中断した現在の高さは26メートルだという。 こちらからでは逆光なので、向こう側に回り込んでみる。 もう少し歩いていたかったが、時間的にそろそろ限界である。帰ることにする。 イスラーム・ホジャ・ミナレットの下に出れば、その先が住居地域へのくぐり口になる。くぐり口を抜けると、人々の生活が見える。 門を出ると、城壁の外にも民家が並び、 翌4月20日、早朝5:30、2号棟ロビー集合。 希望者でイチャン・カラに行き、城壁の上から朝日が昇るのを見るという企画である。ほとんどのメンバーが参加したのではなかろうか。 ホテルを出て、南門から中に入る。空は少し明るんできているが、足元は暗く、懐中電灯を持参している人もいる。 当初は西門に付随した展望台に特別に入れることになっていたらしい。ところが直前になって許可取り消しの連絡が来たため、急遽予定を変更して北門まで行き、城壁そのものに登ってしまうことにしたと言う。北門の脇に細い「登坂路」ができているらしい。高所恐怖症のわたしとしては予想外の困った展開だったが、成り行き上もう行かないという選択肢はなかった。 15分あまり歩いて、一行は北門に着いた。 ここからしばらくは写真がない。それどころではなかったのだ。城壁にけっこう急な(わたしにとっては)上り坂が刻んであって、表面はざらざらして滑りやすく、もちろん手摺りなどはなく、最後のところに1メートル以上の直登の段差ができているのだった。この部分はガイドと添乗員が手を貸してくれたが、何とか上にたどり着いてもホッとする気分にはなれなかった。 城壁の上の部分には、内側にずっと回廊のような張り出しが作られていたが、もちろんここにも手摺りなどは一切なく、ここを伝って西門の手前まで行くと言われて、足のすくみを必死で押さえ込み、下を見ないようにしてなるべく壁側をそろりそろりとたどって行った。 ようやくたどり着いて、何とか写真を撮る余裕ができた。西門の手前(北側)にあるキョフナ・アルクという宮殿の屋上。この右手に当初登るはずだった展望台があるようだ。 上空の飛行機雲には朝日が当たっている。 さて、十分に堪能した。長居は無用である。帰りは先頭グループで歩いて行った。 下に降りてしまえばもう大丈夫である。さっと外に出て、北門(バフチャ・ダルヴァザ門)の外観を写して来た。 こうして恐怖の城壁散歩は終了した。再び北門から南門まで、イチャン・カラの中を縦断する。 北門のあたりにもけっこう民家が建ち並んでいた。民家のあたりは泥濘である。 #
by krmtdir90
| 2016-05-08 18:38
| 海外の旅
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