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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「焼肉ドラゴン」

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 鄭義信(チョン・ウィシン)監督は、すでに演劇分野で劇作家・演出家として確固たる位置を占めている人である。同時に映画にも数々の脚本を書いていて、これもまた高い評価を得てきた実績がある。しかし、映画を監督するのは初めてだったようで、この映画は2008年に初演されて評判になった自身の舞台の映画化なのである。
 わたしは元になった舞台を見ているわけではないが、こうしたかたちで作られた映画というのは大いに興味があった。今回、いろいろあって鑑賞から日にちが経ってしまったが、少し記憶がぼやけてくると、映画を見たというより舞台を見たような印象が残っているのである。もちろん映画なのだから、アップとかカット割りといった映画の様々な技法が駆使されている。一定の距離から舞台全体を視野に入れるという、演劇を見る場合とはまったく違っているのだが、何か普通の映画を見ている感じとは明らかに異なるところがあったような気がした。

 映画化に当たって独自のシーンも付け加えられて、映画の脚本としてしっかりリライトはされたようだが、たぶん根っこに舞台に向けて作られたものがいろいろと残っていたのだと思う。それは恐らく、セリフに最も強く表れていたのではないか。登場人物の喋るセリフが、たぶん芝居のセリフのまま使われたところが多かったのではなかろうか。
 言うまでもなく、芝居のリアリティと映画のリアリティとは全然違うものだし、それは何よりセリフのあり方に強く表れてくるものなのだと思う。父(アボジ)の龍吉が何度も口にする「たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる」というようなセリフは、芝居の中では自然に成立するものでも、映画ではやや言い過ぎの感じに聞こえてしまうのである。映画としては少しやり過ぎではないかというところが、セリフだけでなく、演技全般にもけっこう目についたように思う。それはたぶん、舞台では何の違和感もなく受け入れられてきたものなのだろう。

 映画を見ながら、わたしはこの何となく普通の映画とは違う感覚を楽しんでいたと思う。これが、舞台の人間である鄭義信の感覚ということなのだ。彼は映画を撮りながら、その先に舞台のイメージを見ている(舞台の感覚で生きている)のだろうと感じた。演劇として一度しっかりと出来上がったものを、映画としてもう一度作り直す過程が想像されるのが興味深かった。

 長回しが多いというのは、明らかに舞台の感覚を映画の中に持ち込んだものだろう。撮影の現場で鄭義信監督は、シーンごとに全体をきちんと作り上げてから撮り始めたらしい。各シーンが演劇の演出のようにして作られた感じというのは、映画の各所で感じることができた。それがこの映画のユニークさであり、他に見られない面白さになっていたのではないだろうか。
 一方で、映画としてはアップが普通よりも多用されていたと思う。舞台では役者をアップにすることはできないから、映画を撮るとなった時、鄭監督がそれを可能な限り活用したいと考えたのは判るような気がする。切り返しの使い方などで若干ぎこちないところはあったが、この映画の役者たちがみんな鄭監督のアップの要求にしっかり応えていたのは見事だった。舞台の役者には舞台の役者としての苦労があるだろうが、基本的には演劇的なセリフを与えられながら、映画的なアップでそれを具現化して見せた役者たちは立派なものだったと思う。

 主な配役を次に記録しておく。家族、父(アボジ)・龍吉:キム・サンホ、母(オモニ)・英順:イ・ジョンウン、長女・静花:真木よう子、次女・梨花:井上真央、三女・美花:桜庭まなみ、末っ子・時生:大江晋平。娘たちの相手、哲夫:大泉洋、呉日白:イム・ヒチョル、長谷川:大谷亮平。その他、呉信吉:宇野祥平、美根子:根岸季衣。書き写していて、それぞれの演技の記憶が甦ってくると、やはり舞台で見た配役という感じがしてしまうのが不思議である。
 セットが素晴らしかった。舞台ではどういうふうだったのかは知らないが、映画のセットでありながら、演劇のセットのような雰囲気を漂わせているところが絶妙だった。最後の屋台崩しは演劇の発想だと思うが、映像として映画そのものになっていて感心した。

 今回は、内容にまったく触れていない感想文になってしまった。まあ、時にはそういうことがあってもいいだろう。貧しい家族の物語としては、韓国的な感性が身近ではないぶん、「万引き家族」の方により共感を覚えてしまうのは仕方がないことだろう。
(MOVIX昭島、6月26日)
# by krmtdir90 | 2018-07-01 22:02 | 本と映画 | Comments(0)

パソコン復活!(感想文の行方)

 パソコンの修理が昨日完了した。データファイルも無事救出されて(よく判らないが、かなり難しかったと言っていた)、外付けハードディスクに入ったかたちで戻って来た。内蔵のハードディスクは(老朽化で)相当ひどい状態になっていたようで、結局まるごと交換ということになってしまった。ただ、ここで従来型のハードディスクではなく、SSDという最新のものと入れ替えてくれたので、パソコンの動作がかなり速くなったのにはびっくりした。
 このパソコンは購入して8年ほどが経つと思うが、今回、ハードディスクというのは消耗品であって、時期が来れば壊れるものなのだということを知ったのは収穫だった。修理屋が教えてくれたのは、普段からデータは外付けハードディスクの方に保管して、必要なファイルだけパソコンに持って来て作業するのが安全だということだった。いままではすべてのデータをパソコン内に溜め込んでいたから、これだとディスクの容量も圧迫してしまうし、今回のようなことを考えるといいことはないと教えられた。
 結局、今回はディスクを入れ替えた訳だから、Windows10は入れてもらえるが、その他のアプリなどは(どうでもいいようなものが多かったが)すべて失われてしまった。そのため、すぐに必要な一太郎は新たに買ってきてインストールすることになってしまった。高い授業料になってしまったが、まあ仕方がないということである。


 というわけで、書きかけのコピスの感想文と4日ぶりに再会できた。早速、続きを書かなければと思ったが、この空白はかなり大きかった。まだまったく手をつけていない学校もあるのだが、記憶はどんどん薄れていることが判った。困ったことになったぞと思いながら、とりあえずこんな報告の文章を書いているのである(再度気持ちを高めるための助走ですな)。う~ん、早く書かなければ。
 なお、今回は日にちも経ってしまったので、このブログに感想文を掲載することはしないつもりです。29日(金)の最終実行委員会で顧問の先生にお渡ししますので、上演校の皆さんは、もし興味があったらそれを見せてもらうようにしてください。


# by krmtdir90 | 2018-06-25 16:45 | 日常、その他 | Comments(0)

コピスみよし2018・第17回高校演劇フェスティバル(パソコンがダウン!)

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 6月16日(土)のリハーサル、同17日(日)の本番と、会場で楽しい時間を過ごさせていただいた。
 例によって感想文を書き始めたのだが、今年は(学校によって)けっこう書きたいことがあったりして、ブログ掲載ではなく実行委員会(29日)配布でいいかと、ちょっとのんびりし始めていたら、想定外のアクシデントに見舞われてしまった。

 少し前からパソコンの調子がおかしかったのだが、とうとう昨日からうまく立ち上がらなくなってしまった。感想文はまだ書きかけだから、復旧してくれないことにはどうにも先に進めない。今朝になっても直る気配がないので、急遽パソコン修理の店を探して、さっき現物を持ち込んで相談してきたところである。
 おそらくハードディスクが(老朽化で)壊れかけているのではないかという。とりあえず中のデータを守って貰わなければどうしようもないから、それをお願いして帰ってきた。だが、データの保存に成功しても、最終的にはハードディスクを交換するか、新しいパソコンを買うか、どちらかの選択になるだろうという。いずれにしても、感想文の続きを書くためには、この厄介な障害を越える必要が出てきてしまったのである。う~む、である。
 というわけで、パソコンがないから、この原稿はスマホで打ってスマホから送信するしかない。時間ばかりかかって、まったくトホホの状態になってしまった。

# by krmtdir90 | 2018-06-22 13:43 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)

映画「ザ・ビッグハウス」

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 想田和弘監督の観察映画第8弾は「港町」とは正反対の大スペクタクルだった。ずっとアメリカ在住ながら、これまではいつも日本に来て、日本の様々なシーンを観察してきた想田監督が、これは初めてアメリカを対象として撮った映画だったようだ。
 「ザ・ビッグハウス」とは、ミシガン州アナーバー市にある、名門ミシガン大学のアメリカンフットボール・チーム「ウルヴァリンズ」の本拠地スタジアムのことである。今回は、10万人以上を収容するというこのスタジアムのすべてが観察対象になっている。
 ここでで展開される巨大なスポーツイベントを捉えるために、想田監督は従来の小規模な撮影クルーではなく、観察映画としては初めての「ビッグな」クルーを編成して臨んだようだ。想田監督のほか、監督・製作にマーク・ノーネス、テリー・サリスという2名が名を連ね、彼らを含めて17人が同時進行的にカメラを回したらしい。このメンバーは、想田監督自身が当時(1年間)教授として招聘されていたミシガン大学映像芸術文化学科の学生たちで、上記のマーク・ノーネスは同学科の教授として、想田監督にこの映画の企画を持ちかけた当人ということだったらしい。
 当然、これまで掲げてきた「観察映画十戒」は部分的に守れなくなるが、撮影された素材についてのディスカッションを経て、編集を想田監督一人が行うことで、新たな観察映画の可能性が開かれたということだったようだ。

 アメリカでアメリカンフットボールが絶大な人気を博していることは知っていても、日本ふうに言えば、たかが大学同士のリーグ戦が、これほど圧倒的な規模で行われていることは驚きと言うしかなかった。アナーバー市の人口が約11万7千人というから、試合があるたびにこのスタジアムには、市の人口に優に匹敵する観客が詰めかけるということなのである。
 これだけのビッグイベントを実施するためには、それを支えるバックヤードにも膨大な人数が配置されているわけで、映画はその様々な裏表の姿を克明に観察し記録していくのである。高校演劇でバックステージに強い興味を持ってしまったわたしとしては、その一つ一つはとにかく面白いことばかりで、まったく目を離している暇がなかったと言っていい。
 この映画は試合の行方に興味を示すことはほとんどないのだが、それ以外のすべてのことには実に貪欲でしつこい視線を向け続けていく。その結果、ここでフットボールの試合が行われているのは自明のこととして、その時(その前後も含めて)このスタジアム全体がどんなふうに生きているのか(動いているのか)という、実に興味深い有りさまを鮮やかに描き出すことに成功している。「これがアメリカなのか!」というのはあまりに大雑把な感想になるが、アメリカはこういうふうに生きている(動いている)のかというところを、この映画はきわめて具体的に(かつ象徴的に)眼前に描き出してくれていたと思った。

 このビッグイベントの背後には、ミシガン大学というアメリカ有数の名門校が存在している。そこがある意味アメリカの縮図のようになっていることも、この映画は鮮明に描き出している。「ザ・ビッグハウス」はその象徴になっているのである。プログラムにその巨大さを示す数字が紹介されていたので、少し抜き出しておきたい。学生数は4万4718人、教員数は7219人、職員数は1万4856人、卒業生数になると57万5000人以上である。大学の一般財源は年間74億ドル、研究費が年間13億9000万ドル(因みに、74億ドルは約8150億円)である。。
 また、ビッグハウスのチケット収入は年間4017万ドル、TV放映権料は5106万ドルとなっている。チケット代は対戦相手や席によって異なるが、安い時で55~75ドル、高い時で99~130ドルといったところらしい。映画にはスタジアムの観客がたびたび映し出されていたが、ほとんどが白人で、バックヤードには黒人も働いていたが、あとはスタジアムの外でダフ屋をしていたりチョコレートを売っていたりするだけである。恐ろしく高額というVIPルームも映されていたが、観戦しているのは当然白人ばかりだった。ここはアメリカ国民の経済格差の象徴ともなっている場所なのである。
 ミシガン州は歴史的に自動車産業が基盤となったところだというが、アナーバー市は黒人労働者の増加を避けてデトロイトを離れた白人層が多く移り住んだ近郊の町なのだという。ウィキペディアで調べてみると、現在のデトロイトは人口の8割を黒人が占めるが、アナーバーは8割近くを白人が占めているらしい。

 観察映画には字幕もナレーションもないから、これらのことを映画は何も語らない。この映画からこういうことを引き出すかどうかは観客に委ねられているのだ。だが、想田監督の編集作業の過程に、映像の何を見ているかという監督の観点はおのずと現れているのであり、想田監督の視線は「ザ・ビッグハウス」のスケールを俯瞰的に見ているだけでなく、そこに現代アメリカの諸問題を見ようとしていることが確かに感じ取れるのである。観察映画は予定調和の方向づけは排するが、うわべだけの客観とも無縁のものであると言うべきだろう。
 この映画は2016年にカメラを回したようだが、時まさにトランプとクリントンの大統領選の真っ最中で、トランプ候補の宣伝カーが画面の中に写り込んでいたりした。写り込んだ映像を残したのは編集した想田監督なのであって、調べてみたら、従来は民主党が勝っていたミシガンを今回共和党が押さえたのが、トランプ当選に大きく作用していたということが判った。トランプ的なものとの結びつきが、このスタジアムにもあるのではないかという視点を、想田監督はさりげなく提示しているということなのだろう。
(渋谷イメージフォーラム、6月14日)
# by krmtdir90 | 2018-06-15 16:58 | 本と映画 | Comments(0)

映画「レディ・バード」

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 主人公(シアーシャ・ローナン)の名前はクリスティーンなのだが、彼女はなぜかそう呼ばれるたびに不機嫌な顔をする。彼女は自分を“レディ・バード”と名付けていて、周囲にもそう呼ぶように要求している。なぜそんなことをしているのか説明はないが、この点は明らかにこのストーリーの鍵になっている。映画の最後で、彼女が念願叶って故郷のサクラメントを後にした時、彼女は“レディ・バード”という名前にも別れを告げてクリスティーンに戻るのである。
 ここには彼女の夢の実現とともに、ずっと気持ちが行き違っていた母親との和解も関係している。この映画は“レディ・バード”クリスティーンの高校生活最後の一年間を描いているが、同時に母親との葛藤を中心とした家族の一年間も描いている。17歳の彼女は特に美人というわけでもなく、学校でも家庭でも、思い通りにならない様々な問題を抱えて生活している。“レディ・バード”と名乗ることは、自分がまだ何者にもなり得ていないことを意識し、あるべき自分の姿との乖離に悩む彼女の逃げ道(ある種のこだわり)だったのだろうか。

 映画の冒頭、彼女は、一緒に近隣の大学を見学に行って来たらしい母親(ローリー・メトカーフ)と車の中で口論になり、走行中の助手席のドアから飛び降りるという離れ業を演じてみせる。このため映画の前半では、彼女は右腕に鮮やかなピンクのギブスをして登場してくることになる。ギブスをピンクに塗ってしまったことも併せて、彼女の中の思い通りにならない苛立ちが、こうしたちょっと突飛で投げ遣りな行動につながっているように思われる。
 サクラメントはサンフランシスコから140キロほど内陸にある地方都市のようだが、彼女にはまったく面白みに欠けた田舎としか感じられず、卒業後はここを出て東部の大学に進学することを夢見ている。地元の大学に行って欲しい母親との、ここが最大の対立点なのだが、“レディ・バード”の成績はとても東部に出て行けるようなものではないのである。彼女は対立を残したまま密かに幾つかの大学に出願し、補欠というかたちながら何とか一校に引っ掛かる。この映画は時代背景を2002年と設定しているが、前年に起こった「9.11」の影響で、「東部の大学の倍率が下がったから」というようなセリフがどこかにあったと思う。

 グレタ・ガーウィグ監督はインタビューの中で、時代を2002年としたのは「スマートフォンを映すのに興味がなかった」からだと述べている。これは絶妙な意見だと思うが、映画の中で“レディ・バード”が恋をする2人の男子の最初の方が、実はゲイだったというエピソードにもこの時代背景は関係している。LGBTに対する認識がいまよりはるかに低かった時点を描きながら、ガーウィグ監督はこのダニーという少年(ルーカス・ヘッジズ)を実に公正な目で見ようとしている。
 彼の家は「上流」に属していて、「中の下」ぐらいの“レディ・バード”にとっては「背伸びした」恋だったことも忘れてはならない。背伸びは彼女の特徴だが、ガーウィグ監督はこのダニーを、そんなことをまったく気にしない誠実な少年として描いている。ゲイが露呈したあと、彼が彼女のバイト先にやって来て、裏口で彼女に自分の気持ちを率直に話すシーンは良かった。それを聞いて、彼を思わず抱きしめてしまう“レディ・バード”もすごく良かった。もちろん彼らは別れてしまうのだが、ティーンエイジャーの恋を描く時、凡百の監督なら彼がゲイであると判った時点で笑い話にして切り捨てていたのではないだろうか。ガーウィグ監督の視線は淡々としているが、脇役に対しても実に公平で暖かいのである。

 “レディ・バード”が初めてセックスする相手カイル(ティモシー・シャラメ)が、童貞ではなく何人もの相手と経験していたことを彼女が知るシーンでもそれが感じられる。ガーウィグ監督はこれが喜劇的に流れてしまうことを注意深く避けている。“レディ・バード”の恋愛の現実も、まったく彼女が夢見たようなものにはならなかったのだが、それはそれ以上のものでもそれ以下のものでもなく、彼女はそれをそのままのかたちで受け入れるしかないのである。そのことをガーウィグ監督は実に静かな感覚で(セリフはきついことを言ったりするが)、優しく描き出していると感じた。
 “レディ・バード”はこうした経過の中で、一時疎遠になってしまっていた親友のジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)を、高校最後の晩のプロムの相手に決めて誘いに行く。この2人の女の子のシーンが、何ということもないのだがとても良かった。ここに至るまで積み重ねられてきた、高校時代の彼らのすべてがここには詰まっているのだろう。ガーウィグ監督はどうということもない様々なディテールを実に丁寧に描いていて、そのことが映画の最後になるほど、繊細に浮かび上がってくるのだと思った。監督はこの映画に自伝的要素はないと語っているようだが、1983年にサクラメントに生まれ育ったという彼女の若いころの感覚が、この映画にはあちこち散りばめられているのだろうと感じた。

 母親と最後まで気持ちが通じないまま家を出た“レディ・バード”が、父親が荷物に忍ばせてくれた母親の手紙(ゴミ箱に捨ててあったのを父親が拾ってくれた)を読んで、初めて彼女が(“レディ・バード”ではなく)クリスティーンの名前で手紙を書き送る。その中に、安易な和解の言葉ではなく、離れてみてサクラメントの素晴らしさに初めて気が付いたと書いたところに、ガーウィグ監督の控え目だけれど熱い気持ちが込められているように感じて心に響いた。主人公の脱皮という意味で、彼女は確かに一つの階段を上がったのだなと納得させられた。
 同じ「ハイスクールもの」ということで、ちょっと「スウィート17モンスター」(ケリー・フレモン・クレイグ監督)のネイディーンを思い出したが、「スウィート…」の若干コメディタッチの味付けよりも、こちらの自然なユーモアの方が好感度は高いと感じた。ネイディーンはネイディーンで十分印象的なキャラクターだったが、キャラクターをあまり立たせていないぶん、クリスティーンの中にある説明できないモヤモヤした感じが浮かび上がってきて良かったと思った。
(立川シネマシティ2、6月12日)
# by krmtdir90 | 2018-06-14 23:59 | 本と映画 | Comments(0)


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