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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「ライ麦畑で出会ったら」

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 脚本・監督のジェームズ・サドウィズはTV向け映画などでキャリアを積んできた人らしいが、アメリカで2016年に公開された本作が、劇場用長編映画としては初監督作品だったようだ。彼はインタビューで「これは実話で僕に起きた出来事だ」と言っていて、さらに「映画内で、サリンジャーに会いに行くまでは話の85%が僕の実体験で、それ以降の話では99%が僕の実体験になっている」と述べているようだ。監督は、あのサリンジャーに会ったことがあるのだ。
 サドウィズ監督は1952年生まれだから、映画で設定した1969年には17歳だったことになる。彼がこの年にサリンジャーに会ったのだとすれば、1919年生まれのサリンジャーはちょうど50歳だったはずである。映画に登場するサリンジャーはクリス・クーパーという役者が演じているが、主人公ジェイミー(アレックス・ウルフ)に対するサリンジャーの発言などには、サドウィズ監督自身の実体験が投影されているということなのだろう。

 J・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)」が世に出たのは1951年である。だが、その後この小説が巻き起こした様々な社会的騒動によって、サリンジャーは平穏な生活が送れなくなったとして、執筆も止め社会の表舞台から姿を消し、ニューハンプシャーの田舎に隠遁して孤立した生活を送るようになってしまった。結婚して2児をもうけたが、その妻と離婚したのが1967年で、映画が描く1969年はちょうどそういう時期に当たっている。
 当時、「ライ麦畑…」の熱狂的ファンはそれこそ世界中にいたのであって、ジェイミーのように所在不明のサリンジャーを探して、会いに行くファンが後を絶たなかったというのは事実だったようだ。日本で野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」が出たのは1964年12月だったが、わたしが持っている単行本(白水社・新しい世界の文学シリーズ20)は1966年1月の第三版となっている。ここを見ると、わたしがそれを読んだのは18歳の時だったことになるが、わたしが文字通り初めて夢中になった小説として、忘れられない印象を残したものだった。

 世界中の若者に支持された小説なので、これまでも映画化の企画などが次々に持ち込まれたようだが、サリンジャーはそれら一切を許可しなかった。そればかりか、ペーパーバック化に際して表紙に描かれたホールデン・コールフィールドのイラストも削除させる徹底ぶりだったという。そのあたりについての彼の考えは、この映画の中でもサリンジャーの発言としてしっかり描かれている。視覚化や映像化というのは、どんなに原作に忠実と言ったところで「解釈」になってしまうのであって、それは小説の読者が頭の中で自由にホールデンのイメージを作る妨げになると言うのである。自分は小説を書いたのであって、それがすべてなのだと彼は繰り返している。
 この映画は「ライ麦畑でつかまえて」の映画化ではないが、「ライ麦畑でつかまえて」に限りなく近づこうとした映画化である。ホールデン・コールフィールドは登場しないが、彼の存在が映画のあちこちに感じられるようになっている。この映画は小説をなぞるようなことはしないが、小説へのこの上ないオマージュに満たされている。映画化がダメでも、こういうやり方があったのだ。

 この映画のジェイミーは、あのホールデンほど過激ではないが、ホールデンの言動に全面的に共感しているという意味で、ホールデン的なものを内部に抱えた若者である。当時、そういう若者が世界中至るところにいたということなのだ。ジェイミーは自身の感動をかたちにすべく、「ライ麦畑でつかまえて」を脚本化して、みずからがホールデンを演じて上演することを思いつく。その実現のためには作者の承諾が必要であり、彼は手を尽くしてサリンジャーの居所を探し出そうとし始めるのである。
 ジェイミーは、ペンシルベニアにあるクランプトン高校という全寮制の男子校で、演劇部に所属しているサエない高校生である。こうした学校ではみんなの花形になれるのは運動部員であって、演劇部というような軟弱なところでパッとしない日々を送っているジェイミーは、みんなに見下され格好の標的にされてしまうのである。
 ある日、ジェイミーがサリンジャー宛てに書いた手紙がフットボール部員に盗まれ、学校生活への不満や批判を書いたことがみんなに知られて、深夜、部屋に花火を投げ込まれて襲撃される事件が起こる。もともと学校に馴染めなかった彼は、これが限界だと寮を飛び出し、サリンジャーを探す旅に出ることを実行に移すのである。

 「ライ麦畑…」のホールデン・コールフィールドも、事情は違うものの、同じペンシルベニアのペンシーという高校を飛び出していた。学校生活のインチキさに強く反撥している点で、彼らはとてもよく似ているのである。だが、ジェイミーの旅がホールデンのそれと異なっていたのは、彼には素敵な同伴者が現れたことである。
 クランプトンの演劇部が合同で公演を行っていた女子校があり、そこでやはりあまりパッとしない演劇部員だったディーディー(ステファニア・オーウェン)という女の子である。
 彼女はジェイミーの眼中にはまったくなかった女子だったが、彼女の方はなぜかジェイミーのことを気にしていたようで、お互いにあの「ライ麦畑…」の大ファンであることが判ってからは、彼の脚本による上演計画の熱心な支持者になってしまうのである。寮を出た彼が「サリンジャーを探しに行く」と彼女に告げに行ったのは、自分の決意を確認して彼女と別れるためだったと思われるが、彼に好意を抱き始めていたディーディーは車で彼を追いかけ、何と「サリンジャーの家まで乗せて行く」と告げるのである。

 この時点でジェイミーは、サリンジャーがニューハンプシャーのある町に住んでいるらしいという情報は得ていたが、住所を特定できていたわけではない。ヒッチハイクで行くと言う彼の無謀さを前にして、ディーディーは彼を見放すことができなかったということなのだろう。それにしても、高校生が普通に車を運転して学校に通っているというのは、さすがアメリカだなとちょっと驚いたのは事実である。ともあれ、ディーディーの思いがけない出現は、ジェイミーにとってこの上ない救いの手だったはずである。
 このディーディーという女の子がすごくいい。それほど美人というのではないけれど、こんなに気立てのいい娘はなかなかいないだろうと思われた。ここがたぶん、サドウィズ監督が実体験ではないとしている15%の部分のような気がするが、とにかく、サリンジャーを探す旅はこうして、ジェイミーとディーディーの2人が心を通わせていく旅、という性格を持つことになったのである。
 この、何とも初々しくぎこちない2人の様子が好ましい。ディーディーはそれなりに覚悟を決めてきたようで、彼女なりに控え目な誘いをかけたりしているが、ジェイミーの方がガチガチに緊張して、それをうまく受け止められないところが微笑ましい。最近の、何でも手軽にセックスと結びつけてしまうような風潮と、完全に一線を画して見せた展開が印象的である。この場合も、ディーディーの優しさが際立っているのである。

 2人は何とかサリンジャーの家にたどり着き、本人と言葉を交わすことに成功する。実際のサリンジャーは私生活などを完全に秘密にしていたから、写真などもまったく出回っておらず、クリス・クーパーのサリンジャーが本人と似ていたかどうかは判断のしようがない。だが、その発言はサドウィズ監督の実体験に即しているのだから、彼がジェイミーの計画をきっぱり禁止するのは、それ以外にはあり得ない結末と言っていいはずである。
 だが、この映画はこれでは終わらない。ディーディーに説得されて学校に戻ったジェイミーが、結局作者の許可を得ないまま「ライ麦畑…」の劇を上演してしまい(ホールデン役やフィービー役は他の部員に譲り、彼は脚本・演出として全体を統括したらしく、ディーディーと仲良く並んで客席で見ていた)、それを見た寮の生徒や運動部員たちが、ジェイミーの存在を認めるようになったことが描かれている。あのサリンジャーと会って来たことが周囲を納得させ、彼自身をも大きく成長させたということだったのかもしれない。
 映画はさらに、この上演脚本を携えてもう一度サリンジャーに会いに行く2人を描いているが、これはいくら何でも蛇足だったのではないだろうか。2人が再訪する意図が、わたしには不明と言わざるを得ない気がした。

 この映画は、それ自体が「ライ麦畑でつかまえて」という小説に対する一つの解釈になっていると思う。だが、さらにその上に、原作と原作者への熱烈なラブレターとも言えるものになっているのである。こうなると、映画をどこで終わらせるかという見極めは非常に難しいものになり、スパッと切ってしまうような終わり方はできなくなってしまったということなのかもしれない。
 最も自然なエンディングは、サリンジャーのところから戻った2人が、クランプトン高校の門前で固く抱き合い、決意を新たにしたジェイミーが、ディーディーを残して門の中に入って行く、たぶんあのシーンしかなかったような気がするのだが、サドウィズ監督はそれでは全然言い足りないと感じてしまったのだろう。思いが強過ぎるというのは、なかなか難しいものなのだと思う。
(新宿武蔵野館、10月31日)
# by krmtdir90 | 2018-11-02 13:51 | 本と映画 | Comments(0)

映画「500ページの夢の束」

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 ダコタ・ファニングが素晴らしい。彼女が演じるウェンディは自閉症の少女である。主人公をそのように設定したことにはたぶん大きな意味があるが、映画は彼女をそういう存在として特別扱いはしていない。生きる上での得手不得手は誰にでもあるもので、彼女は不得手をちょっと多めに抱え込んでいるけれど、それは少しも決定的なことではないと言いたげである。こういうふうに描いたことがこの映画の美点であり、見終わった後に爽やかな印象を残した大きな要因になっていると思った。

 自閉症はきわめて多様な側面を持つ病気で、その症状は人によって様々な現れ方があるようだ。映画は最初に、自立支援ホームに暮らすウェンディの日常を点描していくが、その視線は自閉症というフィルターを通して彼女を見るのではなく、普通とはちょっと違った個性を持った女の子という捉え方をしていたように思う。この見方は公平で好感が持てるものだったし、自閉症を必要以上に強調しないことで、彼女が体験する物語が非常に普遍性のあるものになったと思った。
 彼女は確かに、対人関係を作るのが苦手だし、周囲とコミュニケーションを取るのもうまくないけれど、たぶんそれ故に、周りとつながりたいという思いを人一倍強く持っているように見えた。そういう感じが判るような描き方を、この監督(ベン・リューイン)はしていると思う。
 監督はウェンディの自閉症を、活動や興味の偏りという側面で特徴づけようとしているように思えた。曜日ごとに着るセーターの色を決めていたり、毎日を一定の行動パターンで規則正しく過ごそうとしていたり、こういう彼女特有の微笑ましい生活様式が、ユーモアを持って一つ一つ温かく描かれていたように思う。

 もう一つ、彼女の自閉症には重要なポイントがあって、それは彼女が「スター・トレック」に強い愛着を持っていることである。「スター・トレック」の知識なら、誰にも負けることのない「オタク」なのである。彼女は毎日のテレビ放送を欠かさず見ているし、「スター・トレック」の登場人物を自由に動かして、自分なりの物語を創作して楽しんでいたりするのである。
 わたしは「スター・トレック」をまったく知らないのだが、書かれたものを読むと、スポックという主要人物の一人が(自閉症に似て)意思の疎通や感情表現に困難を抱えるキャラクターになっていたらしく、この映画ではウェンディがそこにみずからを重ね合わせているという設定(描き方)になっていたようだ。彼女にとって「スター・トレック」は、自分と周囲の世界とをつなぐ重要な回路になっているということだったらしい。

 ウェンディはある時、「スター・トレック」誕生50周年記念の脚本コンテストが行われることを知り、自分も応募してみようと決意するのである。ところが、ようやく書き上げた脚本を郵送する時になって、土日が間に挟まるので郵送では締切日に間に合わないことに気づいてしまう。彼女は混乱する気持ちを必死で落ち着かせ、ロサンゼルスのパラマウント・スタジオまで、バスに乗ってみずから脚本を届けようと決意するのである。
 これは、自閉症の少女にとってはきわめて無謀な行動である。自閉症には普段と違う道を通ることが苦手という傾向があり、彼女は自立支援ホームとバイト先とを行き来する以外に、単独でそれ以外の場所に出たことなどほとんどなかったのである。
 一度も歩いたことのない道に一歩を踏み出し、行ったことのないバス乗り場を探して、知らないカウンターで買ったことのない切符を買い、初めての長距離バスで初めての都会に出て行くのである。それがどんなに困難な旅であるかは容易に想像がつく。

 だが、ここでちょっとだけ意地悪な見方をすれば、この映画はゴールの判っているロードムービーなのであって、ウェンディは様々な困難にぶつかるけれど、最後にはそれを乗り越えて、無事脚本を届けることができましたというエンディングが用意されているのは見えているのである。
 それでも、観客が彼女と一緒にこの不安な旅に出て行こうという気になるのは、ここまでの彼女への共感度の大きさ以外には考えられないと思う。この映画は、主人公の少女を実に魅力的な存在として描き出すことに成功しているのだ。自閉症であることは彼女にとってハンディには違いないが、彼女がそれでも行きたいと考えてしまった以上、観客としてはそれにどこまでもついて行かなければならないという気にさせられてしまうのである。実際、彼女はどんな事態になっても歩みを止めない。その頑ななまでの思いの強さに、いつしか周囲は絡め取られていくしかないのである。
 支援ホームでウェンディをケアしてきたソーシャルワーカーのスコッティ(トニ・コレット)や、ウェンディと気持ちが行き違ったままの姉のオードリー(アリス・イヴ)が、彼女の失踪を知って後を追うことになるのも、厄介な彼女を迷惑に思ってのことではなく、彼女の思いを理解し共感したいためであるように見えていたと思う。

 みんなウェンディのことが好きなのだ。これがこの映画の基調となっている感情である。それは素晴らしいことなのではないか。
 最後の段階では、彼女はスコッティの車で、姉のオードリーとスコッティの息子のサムも一緒に、締め切り時間ギリギリにパラマウント・スタジオに到着する。このあと、彼女はみんなを車に残し、脚本の封筒を抱えて一人だけで横断歩道を渡って行く。一人でスタジオに入って行く彼女の真っ直ぐな表情ががいい。彼女は一人でハードルを越えたいのだ。
 だが、担当者が意地悪な男で、郵送以外では受け取れないと機械的な対応を取られてしまい、ああ彼女にはここを突破するのは無理だと思った次の瞬間、彼女が思わず感情を迸らせるシーンがすごく良かった。正確には覚えていないが、彼女は「わたしもみんなと同じようにチャンスがほしい」というようなことを言ったのだ。それはもちろん脚本を受け取ってほしいということを言ったのだけれど、同時に人間関係やコミュニケーションがうまくできない自分のことも言っていたのだと思った。このあと彼女は、予想外の機転を利かせて脚本を受け取らせることに成功するのだが、彼女はその時、確かに一つの階段を上がっていたのだと思う。

 だから、彼女の脚本が入選しなかったことはもう大したことではないのだ。映画はこのあと、ウェンディが姉のオードリーの許に帰る場面を描いて終わることになる。
 彼らの身の上について、映画はあまり詳しくは語ってこなかったけれど、母子家庭で育ったらしい2人は、母が死んだ後はオードリーが自閉症のウェンディの面倒を見てきたということだったらしい。オードリーが結婚して出産したため、ウェンディと一緒に生活することが難しくなって、彼女を自立支援ホームに預けたということだったようだ。
 映画の最初の方で、ホームに面会に来たオードリーに、ウェンディが帰りたいと訴えて感情を抑えられなくなってしまうシーンがあった。最後になって考えてみると、この映画が描いたウェンディの旅は、オードリーと一緒の家に帰るために彼女自身がみずからに課した試練だったようにも見えてくるのである。「スター・トレック」の脚本を本当に届けたかったのは姉の許だったということが、ラストシーンに鮮明に描かれていたと思う。
 オードリーの側から見ると、彼女がウェンディの必死の行動を見て、もう一度ウェンディとの旅を始めることを決めたというのが、この映画のエンディングだったのかもしれない。
(新宿シネマカリテ、10月29日)
# by krmtdir90 | 2018-10-31 21:37 | 本と映画 | Comments(0)

映画「まぼろしの市街戦」

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 監督のフィリップ・ド・ブロカは、一般には「リオの男」(1964年・ジャン=ポール・ベルモンド主演)に代表されるような、喜劇的なアクション映画を得意とする商業的で職人的な監督と見られていたと思う。50年代末には、クロード・シャブロルの「いとこ同志」やフランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」などで助監督を務めたりしたようだが、その後のド・ブロカが、彼の作った映画によってヌーヴェルヴァーグの監督と見られることはなかったようだ。
 そのド・ブロカが、1966年に撮ったのがこの映画だった。これは彼のフィルモグラフィの中ではきわめて異色の映画で、ずっと一本だけ特別な位置を占めることになった作品だったのである。最初フランスで公開された時には、批評も悪く興行的にも失敗だったようだが(理由は判らない)、その数年後アメリカで公開されると、当時の若い世代(特にヒッピー)に支持されて大ヒットとなり、カルト的な映画として、その人気が世界中に広まることになったらしい
 当時のわたしはヌーヴェルヴァーグの監督たちに目を奪われていたが、フィリップ・ド・ブロカの映画も見ていたし、この映画の評判も確かに聞こえて来ていた(かなり後になってからだったけれど)のを覚えている。だが、日本公開時(1967年)もほとんど注目はされず、残念ながら見る機会がないまま日が過ぎてしまったということだったのである。
 今回、デジタル修復が行われたのを機に、半世紀ぶりのリバイバル公開となったのは嬉しい事件だった。「まぼろしの傑作」と言われていた映画が、やっと見られることになったのだ。けっこうワクワクしながら見に行った。

 50年以上も昔の映画なのに、まったく古びていないのが驚きだった。画面が修復されて公開当初の美しい色が再現されたのも大きいが、古びていないというのはそういう意味ではない。ここに描かれた物語が、時代の経過とともに色褪せるのではなく、そのまま現代に向かって真っ直ぐ刺さってくる力を持っていたことに驚いたのである。
 この映画は、50年もの時を軽々と飛び越えてしまったのだ。このユーモアや皮肉、そして風刺の切れ味が少しも鈍っていないのは凄いことだと思った。
 第一次世界大戦の終わりごろ、敗勢となったドイツ軍がフランスの小さな村を撤退する時、村全体を破壊する強力な時限爆弾を仕掛けていくのである。この情報を掴んだイギリス(スコットランド)軍の隊長は、フランス語ができるという理由だけで、一兵卒プランピック(アラン・ベイツ)を爆弾撤去のために村に送り込むことにする。プランピックは本来、伝書鳩を使った通信係であり、爆弾の知識は皆無であるところがすでに無茶苦茶なのである。
 プランピックが村に入ると、爆弾の噂を聞いた村人は一人残らず避難した後で、残っていたのはサーカスの動物たちと精神病院の患者たちだけだったというのが物語の始まりである。

 患者たちは抑圧を解かれて自由を取り戻し、病院を出て村のあちこちで様々な衣装を手に入れ、それぞれの妄想を実現して夢のような生活を始めてしまう。彼らは村に危機が迫っていることを理解しないし、プランピックを自分たちの王様に祭り上げて陽気にもてなすのである。村の中には精神病患者しかおらず、その村も早晩破壊される運命にある、王様はこのピンチをどう乗り越えるのか、というのがこの映画の展開上の骨子となっている。
 一方で、この映画が作り出す対立の構図は非常に明快なものである。村の中で精神病患者が作る世界は端的に言えば狂人の世界のはずだが、それがいつの間にか、これほど穏やかでまともな世界はないのではないかと思えてくるのである。それは、村をめぐって繰り広げられる外の世界の戦争の諸相が、あまりにもバカバカしくあまりにも狂気の沙汰であることの裏返しになっている。
 映画の終盤になると、狂気の世界とまともな世界は完全に逆転してしまい、患者たちがひととき作り出したおとぎ話のような世界が、何とも言えず貴重なユートピアだったように感じられてしまうのである。プランピックは任務を忘れて、次第に彼らと一緒の時間をこの上なく大切なものと感じ始めてしまう。これは実に自然な心の動きとして描かれている。

 経過は省略するが、爆発を阻止して軍に戻ったプランピックが、賞賛され勲章を受けても満たされないのは、患者たちと過ごした楽しい時間が忘れられなかったからだろう。すべてに嫌気がさして隊から脱落した彼が、軍服や銃を捨てて素っ裸で精神病院の門前に立つラストシーンは見事である。人間の営みとして、こっちの方がよほどまともじゃないかという強烈なメッセージがあるのに、メッセージは全然前に出てこないのが素晴らしいと思った。戦争の愚劣さをこんなにストレートに描いているのに、その主張は物語のずっと奥に引っ込んでいて、ジワッと後で効いてくるようなかたちになっているのである。
 つまりこれは、戦争を始めとした人間世界の醜悪な現実を切っ先鋭く批判しながらも、映画としては徹頭徹尾ファンタジーであり寓話であることを失っていないという点で、奇跡的な傑作だったことが確認できたように思う。
 この一本によってフィリップ・ド・ブロカは、ヌーヴェルヴァーグの監督たちの輝ける系譜にその名を連ねる資格、あるいはそれと同列に論じられて然るべき資格を獲得していたと言っていいのではないか。
(新宿K's cinema、10月29日)
# by krmtdir90 | 2018-10-30 22:44 | 本と映画 | Comments(0)

煙草のこと

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 10月23日(火)の午前10時過ぎに最後の一本を吸ってから、現在(29日・午後9時過ぎ)に至るまで、わたしは一本の煙草も吸っていない。すでに150時間以上、煙草を吸わない状態が続いているのである。これはかなり画期的な段階に突入しているということで、このまま煙草と訣別してしまう可能性が高まっていると言っていいだろう。
 とうとうやってしまった。理由は30円の値上がりということでかまわない。間違っても、健康のためでないことだけは言っておきたい。

 ただし、ここで調子に乗ってはいけない。禁煙したと宣言するのはまだ早過ぎるのであって、油断して元の木阿弥という可能性も払拭されたわけではない。もしまた逆戻りしてしまったら、恥ずかしくて引っ込みがつかなくなってしまうし、ここは慎重の上にも慎重な態度が要求されるところである。

 以前、40歳の頃に一度禁煙したことがある(10年以上続いたのだから正真正銘の禁煙だった)。あの時は忙しく働いていて、けっこう気が紛れる時間が多かったのだと思う。ところが、いまはリタイアしていて、家でヒマにしている時間が生活の中心になっているから、どうにも吸いたくなってしまう機会が圧倒的に多いような気がしている。
 現在の生活リズムは自分で作ってきたもので、再び喫煙を始めてから20年あまり、その間に煙草が決まりのようになった節目をたくさん作ってきたことが判った。ここ数日、これを一つ一つ確認しながらやり過ごしてきたが、これには非常な困難が伴い、いつ心が折れてもおかしくなかったのである。実際、その危険性はこの段階でも少しも減ってはいないと思う。

 また吸い始めてしまってもいいではないか、という開き直りが大切なのだと思っている。所詮、たかが禁煙なのだと考えたい。わたしは一貫して、煙草を害毒だとも止めなければならないものだとも思ってはいないのである。これはきわめて重要なことで、いま目の前にある煙草やライターをすべて処分して、みずからを追い込むようなことはしたくないと思っている。

 ただ、せっかくここまで続いたのだから、もう少し続けてみてもいいかなと思っている。ブログに書くタイミングとしては少し早過ぎる気もしたが、あまり先送りしてその間に失敗してしまったらつまらないし、書くことは自己責任であって、書いてしまった以上は続けるしかないではないかと、みずからに(小さな声で)言い聞かせているのである。
# by krmtdir90 | 2018-10-29 21:30 | 日常、その他 | Comments(0)

映画「search/サーチ」

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 ストーリーがすべてパソコンの画面上で展開するという、アイディアがすべてと言っていい映画である。話題性は十分だし、このアイディアがどんなふうに実現されるのか、とにかく余計なことは考えず、その仕掛けの斬新さを楽しめばいいということだろう。
 パソコン上だけでストーリーが展開されるというのは、ちょっと考えるとかなりの制約だし不自由だろうと思えるのだが、実際の映画ではその制約を逆手に取るようなところもあって、これが完全な杞憂だったことが明らかになっていた。むしろ、すべてがパソコン画面の中に限定されることで、まったく新しい種類のスリルとサスペンスが生まれていたように思う。パソコン画面の使い方も非常に計算されていて、そこに思いがけない臨場感が生まれているのが驚きだった。

 突然連絡が取れなくなった娘の行方を父親が追う、というのがストーリーの基本設定になっているが、この父娘を演じたのが韓国系アメリカ人のジョン・チョー(父親デビッド)とミシェル・ラー(娘マーゴット)という2人である。この映画は、最近ハリウッドで見られるようになった、アジア系俳優が主役を務めることで注目された映画の一本でもあったようだ。
 映画の冒頭、父親のデビッドがパソコンに向かい、保存された家族の映像などを見て昔を思い出しているという導入が鮮やかだった。娘マーゴットの成長の記録や、妻パムが3年前に癌で亡くなっていることなどが示され、現在16歳になっている娘と、もう一つうまくコミュニケーションが取れないでいる彼の様子なども(画面に表示されるLINE《MacではFace Timeと言うらしい》のやり取りなどから)窺えるようになっているのである。登場人物の背景や現況が手際良く描かれることで、ストーリーがしっかり組み立てられていることが判り、この父娘への感情移入もしやすくなっていると思った。アイディアに引きずられるだけの、お手軽映画ではなかったのである。
 こうして、ぎこちないながらも会話が行われていたマーゴットと、急に連絡が途絶えてしまう様子もパソコン画面だけで描かれている。双方向の回線が確保されているのが前提だったものが、一方的に切れてしまうというのは何を意味しているのか。パソコンやスマホの中の相手が突如反応しなくなり、それ以外に当面の情報入手手段がないことが、様々な疑問や不安を一気に拡大させていくところが怖い。そもそも、繋がりが途絶することなど想定していないから、父親はそうなって初めて、娘との回路を他にまったく持っていなかった事実に直面させられてしまうのである。

 デビッドはとりあえず、マーゴットが通っているピアノ教室や、妻の住所録ファイルで調べた同級生の家などに電話をかけてみるが、その度に思いがけない事実が明らかになって、彼の不安をいっそう掻き立てる結果になってしまう。結局、彼は警察に捜索願を出し、担当となったヴィック捜査官(デブラ・メッシング)とパソコン上で(スカイプ機能を駆使して)連絡を取りながら、マーゴットに関する謎を、彼女が残したパソコンの中で探っていくことになる。
 インスタグラム、フェイスブック、ツイッターといったアカウントを彼女は非公開にしていたが、彼は手段を尽くしてパスワードを入手し、これらに残された様々な映像やテキストなどを次々に閲覧していく。そこには、これまで見えていなかったもう一人の娘の姿が残されており、彼はそれらに衝撃を受けながらも、これらを手がかりに彼女の行方に迫っていくのである。彼女の過去にどんなことがあったのか、さらにいま何が起こっているのかを徐々に明らかにしていく、その手法はかなり工夫が凝らされていて、観客としてはどんどん引き込まれていく感じだった。すべてがパソコン画面というアイディアが、謎の解明というところでは実に効果的に使われていたのではないか。
 ただし、中盤以降になって、デビッドがパソコンの前を離れて動き回らなければならなくなると、この全部をパソコンの中でという設定には無理なところも出てきていたように思う。まあ、それでもテレビ中継画面などを上手に組み合わせて、曲がりなりにも最後まで走り切って見せたのだから、全体としては十分成功だったと言うべきなのかもしれない。終盤の展開の二転三転も、リアリティという点ではどうかと思ったが、設定や伏線にきちんと責任を取っているという意味では、娯楽作品として(ミステリとしてもホームドラマとしても)しっかり出来上がった映画だったと思った。

 この映画を監督したのは、アニーシュ・チャガンティという27歳のインド系アメリカ人で、これが長編処女作だったようだ。インターネットやSNSと子どもの頃から馴染んできた若者だからできたと感じられる、巧みな表現が随所にあって感心した。
 例えば、画面の隅でSNSにメッセージを打ち込むところ、画面は枠の中に打ち込まれていく文字を写すのだが、一度書かれた文字が修正されたり削除されたり、打ち込んでいく速度の微妙な違いなどで、躊躇や動揺といったいろんな心の動きが鮮やかに表れてくるのには驚いた。こんな手口があったとは思いもよらなかった。こんなところに着目するのはさすが27歳という感じだが、それを心理表現の重要な方法として生かしてしまうのは誰でもできることではなく、この監督の素晴らしいセンスであり才能だと感じた。
 ただし、もう一点だけ言っておくと、この映画はパソコンやSNSを効果的に使った点で際立っていたが、それ故に、これからの技術の進歩にしっぺ返しを食らう可能性も大きい映画だと思った。ここで使われたツールが最先端であるのはせいぜい数年のことだろうし、これらが色褪せて時代遅れになってしまうのは案外早いかもしれないということである。これからは、斬新なアイディアを売り物にしたことが、映画の賞味期限を狭めてしまうことも起こり得るということで、難しい時代になったものだと感じた。
(立川シネマシティ2、10月26日)
# by krmtdir90 | 2018-10-28 14:05 | 本と映画 | Comments(0)


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