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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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卒業生クッパの芝居(2019.2.16)

 クッパこと髙橋ちぐさがメールをよこして、久し振りに芝居に出るというので観に行って来た。地下鉄丸ノ内線の新中野というのは初めて降りる駅で、青梅街道から鍋屋横丁という通りを少し行ったところにあるワニズホールという小さなスペースが会場になっていた。
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 ここを拠点にして、一編が30分弱の二人芝居を3本ずつセットにして、けっこう頻繁にオムニバス公演をしているグループ?があるらしい。自作の台本をたくさん用意して、プロデュースと演出を一手に行っている主宰者がいるらしいのだが、そんな公演形態が成立してしまうことにちょっとした驚きを感じた。

 クッパがやったのは「僕とパンダとイーノと彼女」という芝居で、あまり売れていないタレントの女の子にハッパをかけようとするのだが、必死の割には何かいろいろとズレまくってしまう、やや疲れた感じのするマネージャーというのが彼女の役だった。ある程度年齢が行ってしまったことが前提になっている役で、若い女の子との間にかなりコミカルな味付けの演技が必要とされていて、彼女はそのあたりをけっこう手堅く達者に演じていたのではないかと思う。本人はもっとシリアスな役をやりたいと言っていたが、案外こんな感じが彼女には一番合っているのかもしれないと思った。
 だが、ここでちょっと率直に言ってしまうと、これは必ずしもクッパのせいということではなく、芝居としての魅力はあまり作れていなかったかなと感じてしまった。それはたぶん、この台本の設定が面白くないと言うか、二人の間で何が問題になっているのかが台本としてきちんと(リアルに)設定できていないということで、そのため、ここに展開しているストーリーそのものが苦し紛れに作られた感じがしてしまったということである。エピソードのふくらませ方にも無理があるし、終わりもこれではまったく説得力が作れていないと思った。全体として、クッパともう一人の役者のいいところがあまり生かされていなかったような気がした。
 まあ、このあたりはいろいろな感想があるだろうとは思うが、二人が一生懸命やっている割にあまり面白くならなかったのは、役者の責任と言うより、やはり台本の責任ではないかと感じられてしまったのである。こういう短編芝居の場合は、台本の善し悪しが芝居の出来を決定的に左右してしまうことになると思う。ちょっと辛口になってしまったが、仕方がないよね。
 なお、この日上演された3本のうちでは、「E.T.みたいなグッドバイ」という台本が比較的面白く書けていたと思う。役者の個性が上手に発揮されていると思ったが、それでも台本としては終わりのあたりをクドクドやり過ぎている感じがして、もっとサラリと終わらせた方がずっと良くなったような気がした。

 会場には同期だったウロンの姿もあって、終わってから少しだけ話をした。彼らはわたしが初めて経験した関東大会(千葉県船橋市)の中心メンバーだった生徒で、清水邦夫の「救いの猫ロリータはいま」であすかをウロンが、巻子をクッパがやったのだった。家に帰ってから調べてみたらこれは1989年のことで、何と!平成元年のことだったというのが判明した。あの時から、まったく信じ難いほどの時間が流れたのである。
 あの時の映像も探せばどこかにあるはずだが、ビデオテープだから可能なうちにデジタルに変換しておかないと、もうこのまま失われるしかないのだなと思った。それでいいのかもしれないと思う反面、何とか残しておかなければいけないのかもしれないという気も、しないでもないのだが。
# by krmtdir90 | 2019-02-17 17:45 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(1)

映画「マスカレード・ホテル」

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 見たあとでいろいろ考えてしまうような、どちらかと言うとシリアスな要素を含んだ映画を中心に選んでいるから、たまには徹頭徹尾エンターテインメントな、難しいことは一切ないような映画をのんびり見るのもいいかなと思った。東野圭吾は遠い昔、確か「白夜行」を読んだおぼろげな記憶があるのだが、それだけでその内容もまったく忘れてしまったし、この原作や最近のものについての知識はまったくなかった。そればかりか、最近また映画を見るようになったとはいえ、木村拓哉や長澤まさみ、松たか子といった俳優の出演作にはとんと縁がなく、いろんな意味で非常に新鮮な気持ちで見ることができた映画だったのである。
 以下、ネタバレがありますから、そのつもりで。

 原作は刑事と犯人が出てくるミステリーとして書かれていると思うが、映画はキムタクと長澤まさみによるバディムービーの性格が強いと思った。キャラクター設定などは原作からのものだろうが、それをくっきりと体現して見せたのはこの2人なのである。2人はとにかくカッコいいし可愛いし、この演技のぶつかり合いが生み出す絶妙の雰囲気は非常に見応えがあったと思う。
 キムタクはどんな役をやってもキムタクにしか見えないという批判が一部にあるようだが、それは違う。わたしはキムタクのことをそんなに知っているわけではないが、この映画の彼は、キムタクでありながら刑事・新田浩介としてちゃんと存在できていたと思う。それはたぶん、長澤まさみが彼女のイメージを保持した先に、きちんとフロントクラーク・山岸尚美を浮かび上がらせたことと響き合っている。当初まったくの水と油だった2人が、様々な出来事を通じて次第に心を通じ合わせていくところは、それだけで見ていてワクワクしたし、この2人なかなかやるではないか!と思った。

 ホテルという場所は、ミステリーに限らずいろんな物語の舞台として、様々な可能性を含んでいるところなのだと思う。ホテルには確かに、あらゆる種類の人間がそれぞれの「仮面」をつけて出入りしているし、そういうところに突然降りかかった殺人予告を前にして、客を疑いその仮面を剥がそうとする刑事と、お客さまを信じて仮面を守ろうとするホテルマンという対立は、それぞれのアイデンティティーの根幹に関わるような構図になっていて、そこに実にスリリングなドラマが生まれる予感がしたのである。実際、ミステリーサイドの謎解きなんかより、こちらの展開の方がずっと面白かったというのが、この映画を見終わった時の率直な感想だったと思う。
 原作がどんなふうになっていたのかは知らないが、犯人の松たか子には悪いけれど、彼女の動機にはもう一つ説得力が欠けていたし、何よりこんな回りくどい殺人計画を組み立てなければならない必然性が、わたしにはまったく判らなかったのである。
 だが、この映画にとって、そっち方面のことはたぶんどうでもいいことだったのだ。前半に次から次へと展開する、誰が犯人と言われてもおかしくないような、一癖も二癖もある困ったお客の思わせぶり一杯のオンパレードも、ミステリー的な目くらましの要素としてどうなのかと言うよりも、キムタク・長澤の「バディ」が成長していくために、一つ一つ乗り越えなければならない障害だったと考えれば、実に効果的に配置されたエピソードだったことが理解されるのである。

 最後に、犯人に捕まった山岸(長澤)を刑事・新田(キムタク)が救出するシーンで、無人と思って一旦後にした客室に新田が戻ったのはどうしてかという謎(疑問)が残るのだが、偶然ここに関する原作との違いを知ることになったので書いておく。
 実は帰り道に本屋に寄って、何となく原作を立ち読みしてしまったのだが、原作では新田が山岸の微かな化粧の香りで彼女がいることに気付いたと、言葉にして種明かしが行われていた。映画ではなぜ気付いたのかという2人の会話はなく、ただ部屋のメモ用紙の上に置かれた文鎮が曲がっているショットがさりげなく挿入されていたのである。伏線として、この文鎮を彼女が気付くたびに真っ直ぐに直す動作が何度か映されていて、人が入らなければ文鎮が曲がっていることはあり得ないという約束事項が成立していたのである。
 映画はこのことを一切話題にしていない。ただ一瞬そのショットを挟んだだけである。香りをボツにしてさりげない映像に語らせる道を選んだことは、観客の気付きを信頼したこの映画の鮮やかな勝利だったと思う。

 あともう一つ、ラストの仮面舞踏会と、後日談としての食事会のエピソードについても書いておく。
 ネットのレビューを見てみると、これは余計だったという感想もけっこう散見されるのだが、わたしは必ずしもそうとは思わなかった。この映画はシリアスなドラマではないのだから、このラストというのは大衆演劇で言えば大団円でありフィナーレという意味を持っていたと思う。演劇だったらカーテンコールであり、そもそも本編が終わった後に付け足される「おまけ」だったと考えるべきなのだろう。そう思えば、これは実にお洒落な「付け足し」になっていたし、映画を見終わった後の豊かな気分をいっそう増してくれる働きをしていたのだと思った。
(立川シネマシティ1、2月12日)
# by krmtdir90 | 2019-02-14 20:51 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ナチス第三の男」

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 洋画には「ナチスもの」というジャンルがあるように思う。切り口は様々だが、ナチスドイツをいろいろな角度から描いた映画が絶えることなく作られているようで、2本の公開が重なったのは偶然だろうが、2日続けて「ナチスもの」を見ることになってしまった。こちらは2017年、フランス・イギリス・ベルギーの合作映画で、ドイツは製作に絡んでいない。監督のセドリック・ヒメネスはフランス出身の人で、映画の使用言語は英語である。
 この映画が取り上げているのは、1942年5月に起こったというラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件である。ナチスドイツの中ではヒトラー、ヒムラーに次ぐ「第三の男」と言われていたハイドリヒは、ヒトラーから「鉄の心臓を持つ男」(これが原題になっている)と呼ばれていて、国家保安本部の長官として「ユダヤ人絶滅計画」を首謀した人物とされているのである。彼の暗殺は、ナチスドイツが猛威を振るった第二次世界大戦中に唯一成功したナチ最高幹部の殺害だったようだが、これを実行したのは、イギリス政府とチェコスロバキア亡命政府によってプラハに送り込まれたレジスタンスのメンバーだった。

 この映画の上映時間はちょうど120分なのだが、この前半と後半とで、視点を真逆に移動させるというユニークな構成を取っている。前半はハイドリヒの視点で、この危険な人物がどのようにして生まれたのかを跡付けていき、後半はレジスタンスの視点から、ハイドリヒを狙撃したヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークの行動を追っていく。いずれも興味深い内容だが、それぞれに登場する人物像を描くには、各60分という時間配分ではやはり足りなかったという印象を受けた。
 プラハ城内の路上で起こった襲撃は、まず冒頭に短く、途中で途切れるかたちで置かれている。そののち映画はすぐに時間を遡行して、二つの視点によって描かれたドラマの共通のクライマックスとして、再度それぞれの視点からこの瞬間を描写し直すのである。つまり、この映画は普通なら2本の映画として描かれるべき内容を1本に圧縮しているとも言えるわけで、その実験的意図は了解できるが、どうしても全体の描き方が駆け足になってしまい、人物造形やエピソードの掘り下げが不十分になってしまったところがあるように感じた。

 特に前半で、一人のドイツ軍青年将校が海軍を不名誉除隊となり、熱烈なヒトラー信者だった婚約者に勧誘されてナチ党員となり、紹介されたヒムラーに見出されて見る見るうちにのし上がっていくという、このハイドリヒという「怪物」が出来上がっていく過程は非常に興味深いものだったが、この映画の構成はせっかくの題材を十分生かし切れていない感じがした。
 婚約者のリナという女性は貴族階級出身で、ハイドリヒの妻となったあとも彼に与えた影響はかなり大きなものがあったように思われる。彼らの間には男の子も生まれているが、描き方としてこの家庭生活への踏み込みが決定的に不足していたように思った。一方で、ナチス党内の熾烈な権力闘争に勝ち上がっていくところも、彼一人を描くことに精一杯の感じで、周囲との対立がどんなものだったのかといったことはほとんど描かれていなかったように思う。こんなに性急にならずに、この両面を対比しながら、もっと丁寧に描いてくれたらと思わないではいられなかった。
 それぞれの内面やその関係性などへの目配りが不足しているから、描かれた人物像が結局ステロタイプになってしまった感は否めないのである。これは後半でも同じで、特に狙撃者の2人と協力者の女性たちとの恋愛を描くところで決定的だったように思う。死を覚悟して送り込まれた2人と、それを承知でお互いに恋に落ちてしまうという、この上なく劇的な状況を描くにしては、それぞれの内面描写が不足しているのは明らかだったような気がした。

 ハイドリヒ襲撃のあと、映画は狙撃者のヤンとヨゼフにフォーカスして、教会の地下に身を潜めた彼らがナチス親衛隊と激しい銃撃戦を行い、そののち最期を遂げるまでをかなり克明に描写していたが、ここに時間を割くのはどうもバランスを欠いているような気がして仕方がなかった。彼らが死ぬのはある意味約束された結末だったのだから、むしろまだ生きていた時の彼らのエピソードにこそ、その時間を使うべきだったのではないかと思った。
 ハイドリヒを演じたのはジェイソン・クラークというオーストラリア出身の俳優だったが、無表情になった時に漂わす底知れぬ不気味さが印象的だった。妻のリナをやったロザムンド・パイクとヒムラーのスティーヴン・グレアムはイギリス出身で、彼らの演技も地味だが印象に残った。一方のレジスタンス側は、ヤンとヨゼフを始め彼らの恋人となった女性なども、残念ながらほとんど印象には残っていない。監督としてはレジスタンスを描く方を重視していたのかもしれないが、実は映画の魅力としては逆だったのであり、ハイドリヒを描く前半に特化してくれた方がずっと面白かったのではないかと思った。
(立川シネマシティ1、2月9日)
# by krmtdir90 | 2019-02-13 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ちいさな独裁者」

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 ここに描かれたストーリーの大半は実話だったのだという(2017年、ドイツ・フランス・ポーランド合作)。
 ナチスドイツの終焉も近い1945年4月、敗色濃厚となったドイツ軍の軍規は緩み切っていて、兵士による略奪や脱走に歯止めがかからない事態になっていたようだ。主人公ヴィリー・ヘロルトも脱走兵の一人で、厳しい追跡から何とか逃げ延びたあと、空腹を抱えて彷徨ううちに、道端に乗り捨てられた軍用車両のトランクの中に、ナチス将校の軍服一式があるのを発見するのである。
 深い考えもなく、単に寒さをしのぐためにその軍服を着たヘロルトの前に、部隊からはぐれたという上等兵フライタークが現れ、「将校」のヘロルトに同行させて欲しいと願い出るのである。深い考えもなく、ヘロルトはそのまま大尉に成りすまして動き出してしまう。

 プログラムの解説を読むと、実在したヘロルトが初めてこの軍服を着用したのは1945年4月3日のことだったという。このあと映画で描かれた収容所は、逃亡や不服従・不品行といった軍規違反で逮捕されたドイツ兵を収容していたところで、ヘロルトがヒトラーの特命を受けていると称して大尉としてここに到着したのは4月11日のことだったらしい。彼は、翌12日には囚人たちの処刑を開始し、連合軍の爆撃で収容所が破壊される19日まで、ここを完全に掌握して狂気の殺戮を続けたようだ。実在のヘロルトは4月28日にドイツ軍事警察に逮捕されたようだが、映画が描いているのはこの4月3日から19日までのヘロルトと周囲の人々の行状である。
 深い考えもなく、偶然拾った将校の軍服を身に着けてしまった若者が、その軍服の持つ絶対的な影響力に目覚め、その力に驚きながらもその状況に次第に引き込まれていき、遂には想像を超える残虐な「独裁者」に変貌してしまうのである。当人がどの段階でどんな認識を持っていたのかは明らかではないが、初めまったくの無力だった若者が、軍服が作り出す「嘘」を必死で維持しようとした結果とはいえ、権力を手中にしていく過程で何の躊躇いもなく冷酷無比な人格に変貌を遂げてしまうという、その恐ろしさをこの映画は当然のことのように描き出して見せている。

 もちろん、こんなことが可能になったのは彼一人だけの力ではない。彼はフライターク上等兵と近隣の村に向かったのだが、そこで隊を離れて酒場でどんちゃん騒ぎを演じていた兵士のグループと出会うのである。敗戦が近いと感じ取っていた軍の末端は、もはや完全に混乱して収拾がつかなくなっていたということだろう。着ている軍服のせいで大尉として振る舞うしかなくなっているヘロルトは、ここで口から出任せの「ヒトラーの特命」なるものをでっち上げ、軍規違反を不問にする代わりに彼らをみずからの指揮下に加えようとするのである。
 この時、最も粗暴な態度を見せていたリーダー格のキピンスキーという兵士は、ヘロルトのズボンの裾が不自然に長くて身体に合っていないことに目を止めている。彼は明らかに気がついているのだが、横柄な態度のままニヤリと笑って服従の敬礼をするのである。彼は恐らく、このまま略奪や逃亡を続けていても捕まるだけだと考えたのではなかろうか。それなら、ニセ者でもいいからこの大尉に付いていった方が得策だと判断したのではないか。ヘロルトは大尉の軍服を利用したのだが、さらにその「大尉」を利用してやろうと考えた者もいたのである。

 収容所のユンカー大尉と警備隊長のシュッテもそうだった。収容所はいまや軍規を犯した囚人たちで溢れかえっていて、二人は際限なく増え続ける脱走や略奪に危機感を募らせていたのである。所長のハンゼンはこの期に及んでもまだ法に則った処理にこだわっていて、これに業を煮やした二人は彼を差し置いて、ヒトラーの特命で動いているというヘロルトの力を利用しようと考えるのである。ヘロルトの方も、疑惑を持たれないためには彼らと共犯関係を結ぶしかないところに追い込まれていて、彼らの訴える即決裁判を受け入れて処刑が実行に移されてしまうのである。
 映画はこの数日の経緯を克明に描写していく。この場に働いていた、一旦動き出してしまうと誰にも止められなくなってしまう一種の相乗作用のダイナミズムは恐ろしい。残虐極まりない処刑の様子も様々に描写されているが、実在したヘロルトが行った処刑はさらにひどいやり方もあったことが判明しているらしい。ユンカー大尉やシュッテの下でこれを実行した兵士たちが、ヘロルトを中心にして祝杯を挙げる夜の宴会シーンには、何とも言えない狂気のようなものが漂っているのを感じた。映画は彼らの表情を映し出すのだが、その裏側にあるはずの彼らの思いについてはまったく判らないのが不気味だった。

 深い考えもなく軍服を着てしまったヘロルトは、いまやその軍服が表す嘘のヘロルトと一体となった「親衛隊」とともに、どこまでも突っ走るしかなくなってしまったのだ。実在のヘロルトは、一時は80人に上る兵士を従えていたことが判っているらしいが、その中心メンバーだった12人は、ヘロルトが逮捕される最後まで行動を共にしていたのだという。
 エンドロールの背景に、横腹に「ヘロルト即決裁判所」と書き殴った軍用車両に乗って、ヘロルトとその仲間たちが現代のドイツの町に出現する様が映し出されている。ロベルト・シュヴェンケ監督の意図は明快だが、ここまでやってしまうことにはわたしはあまり共感できないと思う。監督は「彼らは私たちだ。私たちは彼らだ。過去は現在なのだ」と述べているようだが、そんなことをわざわざ言わなくてもよかったんじゃないかと思った。十分判る映画になっていたと思うからである。
 ヘロルトを演じたマックス・フーバッヒャーはちょっと童顔で小柄な役者だったが、文字通り「ちいさな独裁者」に変貌していくところを鮮やかに体現して見事だったと思う。
(新宿武蔵野館、2月8日)
# by krmtdir90 | 2019-02-12 22:03 | 本と映画 | Comments(0)

キネマ旬報ベストテン2018雑感

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 キネマ旬報ベストテンは、昨年までだと1月中旬ぐらいに新聞発表が行われていたのだが、方針転換があったのか、今年は1位だけは発表されたものの、2位以下は2月5日の雑誌発売日まで明らかにされなかった。何だか待ち切れない気分になってしまって、発売日に本屋に行って、何十年ぶりかでこの決算特別号を購入してしまった。

 昨年はけっこうな本数を見たと思っているので、ちょっと数えてみたら、映画館で見たのは全部で93本だった。この中には旧作も混じっているから、ベストテン対象作品としては邦画洋画合わせて80本強といったところだったと思う。このくらいの本数があれば、自分なりのベストテンも作れそうな気がするが、最近はやはり順位付けへの興味がまったく失われているので、最終的に印象に残った作品を並べておくだけでいいのではないかと思っている。
 だが、それもけっこう難しい気がするので、その前にキネマ旬報ベストテンについての簡単な感想を書いておきたい。

 ベストワンには今年もまた、まったく妥当な作品が挙がったと思う。邦画は「万引き家族」(是枝裕和監督)、洋画は「スリー・ビルボード」(マーティン・マクドナー監督)だった。「万引き家族」はカンヌでのパルムドール受賞があったが、そうした勲章なしでも長く記憶に残る傑作だったと思う。「スリー・ビルボード」は2月に書いたわたしの感想文で、少し気が早いが今年のベストワンだと予想していたので、してやったりという気分で満足している。

 2位以下について整理しておく。
 まず、邦画。②「菊とギロチン」③「きみの鳥はうたえる」④「寝ても覚めても」⑤「孤狼の血」⑥「鈴木家の嘘」⑦「斬、」⑧「友罪」⑨「日日是好日」⑩「教誨師」となっている。④⑦⑩は見ていないが、10本中7本を見たということなので、まあ良かったかなと思った。
 比較しながら「わたしの10本」を並べておくと、次のようになる。「万引き家族」「菊とギロチン」「きみの鳥はうたえる」「孤狼の血」、この4本が上位を占めるのは同感である。中でも「菊とギロチン」は瀬々敬久監督の最高作と言ってもいいはずで、「万引き家族」がなければ当然ワンになっていい作品だったと思う。作品の評価は勝ち負けではないが、巡り合わせで2位になってしまう作品があるのはやはり残念な気がしてしまう。
 以下の6本は雑然としてくるが、まず「止められるか、俺たちを」「カメラを止めるな!」「blank13」の3本が入り、続いて「日日是好日」「港町」「鈴木家の嘘」といったところか。「友罪」「こんな夜更けにバナナかよ」などが続いている感じだが、10本からははみ出してしまった。

 次に洋画。②「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」③「シェイプ・オブ・ウォーター」④「ファントム・スレッド」⑤「ボヘミアン・ラプソディ」⑥「15時17分、パリ行き」⑦「顔たち、ところどころ」⑧「1987、ある闘いの真実」⑨「ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ」⑩「判決、ふたつの希望」である。③④を見ていないので、10本中8本という結果である。
 「わたしの10本」となると、洋画は見た本数が多いので難しい。まずキネ旬に名前が挙がっている中から、共通させられるものをギリギリ絞り込んでみる。「スリー・ビルボード」「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」「ボヘミアン・ラプソディ」「判決、ふたつの希望」の4本はいいと思う。あとは⑦⑨のドキュメンタリー2本だが、これも良かったが、わたしはこれより「苦い銭」「人間機械」の2本を挙げたい。⑦⑨も選んでドキュメンタリー4本にしてもいいかなと思ったが、ちょっと過激過ぎるので、残念だが⑦⑨には消えてもらうことにする。これで6本。残り4本は、日を改めて考えたらまったく違うタイトルが並ぶような気がする。面白い映画がたくさんあって、10本にするなど到底不可能と思えるからである。まあ、あまり難しく考えないで、「きょうのところは」ということで、とりあえず「ラッキー」「ルイ14世の死」「女と男の観覧車」「ガザの美容室」の4本を選んでおく。
 以下、⑧の「1987、ある闘いの真実」もいい映画だったが、きょうの気分は「フロリダ・プロジェクト/真夏の魔法」「レディ・バード」などが後に続く感じになっている。

 なお、昨年の洋画で特に印象に残っているのは、実に多彩なドキュメンタリー映画を見ることができたことだった。上に名前の出た4本の他にも、「ラッカは静かに虐殺されている」「ラジオ・コバニ」「私はあなたのニグロではない」「ザ・ビッグハウス」「ゲッベルスと私」「世界で一番ゴッホを描いた男」「ヴァンサンへの手紙」などが記憶に残っている。
 映画がデジタルに移行して、撮影などが昔とは比べものにならないくらい容易になったことが、いまドキュメンタリーの豊穣として結実しているように思う。ドキュメンタリーはこれからますます期待できるのではないだろうか。
# by krmtdir90 | 2019-02-11 17:28 | 本と映画 | Comments(0)


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