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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「遊星からの物体X」

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 デジタルリマスター版が作られたのがきっかけとなって、今年リバイバル公開された映画である。1982年のアメリカ映画(ジョン・カーペンター監督)だが、当時の評価はそれほど高いものではなかったと記憶している。そもそもが1951年のハワード・ホークス監督による「遊星よりの物体X」のリメイクであり、設定などはオリジナル版を踏襲しながら、クリーチャーの造形などに当時の映画界の流行が反映されていたようだ。
 この種の気色悪い地球外生物は、恐らく「エイリアン」(リドリー・スコット監督、1979年)あたりが始まりだったのではないかと思われるが、先行作が思い浮かんでしまうというのは、この映画にとってはたぶん不幸なことだったのだろうと推測される。けっこうとことんやってくれていたと思うが、これでもかとやればやるほど結局「おーっ、やっとるな」といった感じになってしまって、二番煎じと受け止められてしまう宿命だったということかもしれない。
 こういうヌルヌルした感じのクリーチャーが、怖くて面白い?という人がどのくらいいるのだろうか。わたしはこういうのは苦手である。苦手なら見なければいいのだが、もともとSFが好きだったものだから、こういうのが出てくると判っていてもつい見に行ってしまうということなのだ。分類上はSFという括りになっているようだが、どちらかと言えばホラー映画と考えた方がいいような気がする。また、見方を変えると、ミステリー的要素を含んだスリラー映画という側面もあって、設定や展開が非常に上手くできているのは確かなことだったと思う。

 外界と隔絶した南極の観測基地というのが一種の密室となっていて、そこが恐ろしい地球外生物の襲撃に晒されるというのが基本設定になっている。正体を現すと非常にグロテスクな姿をした「それ(The Thing)」は、襲った生物をみずからの体内に取り込んでしまい、その外見に同化・擬態して増殖していくという特徴を持っていた。最初は犬の姿をして基地に現れたのだが、次には隊員たちにも食指を伸ばすことになり、そうなると「それ」に襲われて取り込まれてしまった隊員と、そうでない隊員との見分けがつかなくなってしまうという厄介な事態になってしまい、基地の中は急激に疑心暗鬼のパニック状態に陥っていくことになる。
 誰がやられていて誰がやられていないのかが判らない、お互いに誰を信じていいのか判らないという状態は非常な消耗を強いるものであって、どんどん追い込まれていく隊員たちを、映画は恐ろしいスリルとサスペンスで描き出していく。「それ」の気持ち悪いイメージもなかなかのものだが、この人間の気持ちが泥沼に嵌まって抜けられなくなっていく感じもかなり怖い。
 そして、最後には基地のほとんどすべてが破壊されてしまうのだが、そんな段階になっても果たして「それ」は根絶やしにされたのかどうかは判らないのである。最後に生き残った二人も、結局同化してしまったのか、それともまだ人間のままなのかがはっきりしないまま投げ出されていて、しかもこの極寒の中ではどうあがいても生き延びることはできないだろうと思われるようになっている。解決とは程遠い、何ともすっきりしないエンディングなのである。

 この地球外生物は何万年も前に宇宙船で地球に飛来し、不時着した南極の氷の下でずっと冷凍されて生き延びたと設定されている。息を吹き返してこのまま外の世界に出て行けば、人類すべてが侵略され同化されてしまうのは時間の問題だと映画の中でも予測されていた。カーペンター監督は恐らく、もうすでにそうなってしまっている可能性もあるという終わり方にしたかったということなのだろう。最後で様々な解釈が可能になっていることが、この映画がいつの間にかファンの間でカルト的な人気を獲得した理由になっていると思われる。
 まあ、安易に退治成功のエンディングにしなかったところは好感が持てると思う。ただし、冬季はほとんど明るくなることがない南極の気象条件が無視されているとか、クリーチャーの襲撃から身を守りたいなら隊員は全員が固まって行動すればいいのにとか、いろいろ考えれば変なところもけっこうあると思うのだけれど、こういう映画でそれを言い募るのは野暮になってしまうということで、このくらいにしておく。
(新宿ピカデリー、12月13日)
# by krmtdir90 | 2018-12-16 20:35 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ジャイアンツ」

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 1956年公開のアメリカ映画である。上映時間は3時間21分。60年以上も昔に作られた映画だが、何度見ても面白いし、やはりいい映画なんだなとその都度再認識させられる。
 実は、NHKのBSで放送された時に録画してDVDにしてあるから、見たければいつでも見られる状態になっているのである(実際、何回か見直している)。だが、今回「午前十時の映画祭」にラインナップされているのを見つけた時、映画館のスクリーンで見られるチャンスはそうあるわけではないから、やはりもう一度ちゃんと映画館で見ておくべきだと思ったのである。古い映画がデジタル化されることで、思いがけずこういう機会が訪れるのは素晴らしいことだと思う。

 わたしの映画ノート(メモ)によれば、わたしがこの映画に初めて出会ったのは高校生の時で、1965年の2月と6月に見たと記録してあった。たぶん、いまはなき立川名画座で見たのではないかと思う。前年にジェームズ・ディーンの「エデンの東」(1955年)を見ているから、その彼の3作目にして遺作というのがこの映画を見る大きな動機になっていたと思われる。
 その時どんなことを感じながら見ていたのかは判らないが、ジェームズ・ディーンの役回りが思いがけないものだったのは確かで、彼の演じたジェット・リンクの変貌に目を見張りながら見ていたような気がする。年を取ってからの彼は、見た目はどう見ても若過ぎる(老けて見えない)のだが、鬼気迫る演技でそのあたりを十分埋めていたのに驚いていたのではないかと思う。
 前半の、若いころのジェットは「エデンの東」のキャルや「理由なき反抗」のジムの延長線上にあり、その集大成ともなる印象的な演技を見せていたと思う。エリザベス・テイラーが演じたレズリーへのジェットの思いというのは、どう転んでも実現することのない一方的な横恋慕なのであって、そういうふうな、どうにもならないことが判っていて見せる彼のちょっとした表情や仕草などを、この映画は見事と言うしかないかたちで写し取っていると感じた。ジェームズ・ディーンが出演した3作のうちで一番いいのはどれかと問われれば、迷うことなく「ジャイアンツ」を挙げるだろう。

 ジェームズ・ディーンはもちろんだが、この映画は多くの登場人物を非常に丁寧に過不足なく描き出していて、いわゆる大河ドラマとしても多面的な広がりがあり、登場人物一人一人のドラマをしっかり組み立てているところが素晴らしいと思う。
 ストーリーの中心となっているのは、テキサスの大牧場主ジョーダン・ベネディクト2世(ロック・ハドソン)の許に東部の名門の娘レズリー(エリザベス・テイラー)が嫁いだことから始まる、30年に及ぶ夫婦と一族のドラマということになるのだろうが、30年を描くのに3時間21分というのは決して長いわけではなく、的確な省略と効果的なエピソードの選択によって、時間の経過と人物の変遷を実に上手に描き切っているのだと思う。実際この2人に限って見ても、出会って恋に落ちて結婚して、彼女が初めてテキサスにやって来て、想像を超えたこちらでの生活に様々な違和感を覚えながら、それでも自分を貫いて、次第に中に入り込んでいく、子どもが生まれ、夫婦の危機があり、それを乗り越えて、子どもが成長して結婚して孫が生まれて、というふうに、とてつもない時間の経過が描かれていて、そこにさらにジェット・リンクや様々な人物がからみ合い、そうしたものすべてを描く中で、豊かで説得力のある物語を組み立てているということなのである。

 わたしがこの映画を素晴らしいと思うのは、主人公たち、ジョーダンとレズリーとジェットの若い時代を描いた後で、彼らが歳を重ねた30年後の姿をじっくり描いて見せたところである。特にジョーダンとレズリーの二人には、最初からお互いの価値観のぶつかり合いが見えていたのであり、それが長い年月の間にどう変化していったのかを、終始ブレることなく見詰め続けていたのが素晴らしいと思った。
 この映画を何度見ても目頭が熱くなってしまうのは、ラスト近いドライブインでの殴り合いのシーンである。あからさまにメキシコ人を差別する店の従業員にジョーダンが抗議して喧嘩になってしまう、壮絶な殴り合いの末、ジョーダンの方がぶちのめされてしまうシーンである。最初に倒れ込んだ時に、衝撃でジュークボックスのスイッチが入り、ワクワクするような「テキサスの黄色いバラ」の歌が大音量で流れ出す。これまで、メキシコ人に対して意識しない差別意識をずっと引きずっていたジョーダンだから、観客としては(もちろんレズリーもだが)彼の思いがけない爆発に胸を突かれ、彼に絶対勝ってほしいと肩入れしてしまうのである。
 だが、彼は負けてしまう。そんな簡単に胸のすくようなエンディングはやって来ない。だが、映画はこのあと、レズリーがこの時の夫のことを肯定し、彼らが生きてきた年月のことを二人で静かに語り合うシーンを置くのである。異なる価値観があったからこそ生まれた二人の強いつながりが感じられて素晴らしかった。ここに到達するために、彼らには30年の歳月が必要だったのだ。

 この映画には、アメリカ社会の底流をなす根深い女性差別や人種差別の問題が描かれていて、60年以上も昔の映画としてはきわめて鋭い問題意識が含まれていたことに驚きを感じる。同時にいま、こうした批判精神がどこに行ってしまったのかと思うような、メキシコとの国境に壁を作ろうなどという剥き出しの差別意識が依然として力を持っていることに、言いようのない空しさを感じてしまうのである。
 しかし、だからと言って、この映画の終わり方を楽観的すぎると否定してしまうのは誤りだろう。60年前にジョージ・スティーブンス監督は、ジョーダンとレズリーがやっとたどり着いた思いを描くことで、子どもたちや孫たちの世代にアメリカの未来を託したのだと考えるべきなのだ。こういう良心的態度を笑ったり茶化したりするのは見苦しいことだと思う。進歩的な考えを持ったレズリーを嫌味なく造形できたのがこの映画の成功の鍵だと思うが、エリザベス・テイラーの美しさが大きく寄与していたと言うべきかもしれない。内容に関しては、まだいろいろ触れたいことがあるのだが、やり始めると長くなりそうなので止めておく。
 最後に、大したことではないが、この映画の原題は「GIANT」であって「GIANTS」ではない。プロ野球の金満球団の名前に引きずられたのか、「ジャイアンツ」と複数形にしたのは誤りだったのではないだろうか。
(TOHOシネマズ南大沢、12月10日)
# by krmtdir90 | 2018-12-15 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

「日本が売られる」(堤未果)

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 日本という国に生まれ育ち、この歳になるまで安穏に暮らしてこられたことを考えると、この国はいろいろと気に入らないこともあるけれど、やはり素晴らしい国だったんだなと思うようになった。海外に出掛けるようになって、日本よりはるかに過酷な場所で生活する人々の姿を見たりすると、日本に生まれたのはまったくの偶然に過ぎなかったのだけれど、非常に幸運なことだったのだなと自然に納得させられるのである。
 ところが最近になって、何だか安心していられない状況が次々に生まれつつあるようなのだ。この数年ほどの間に、まったく信じ難いことなのだが、この素晴らしい日本の国のかたちを根底から覆してしまうような、きわめて重大な方向転換が次々と行われているらしい。いろいろなことが、ほとんどの国民にとって何の利益にもならない方向に向かって、どんどん作り替えられているらしいのだ。どうしてそんなことが起こっているのか。

 日本という国の良さが、いとも簡単に捨て去られようとしている。そんなおかしなことは起こるはずがないと思い込んでいた、それがいま国民が知らないうちにどんどん起こっているのだという。国民が知らないうちに、つまり国民に気付かれないようにして、この国のかたちを自分たちに都合のいいように作り替えてしまおうとしている人々がいるのだ。それがいまの政府与党であり、彼らはこの国を自分たちの金儲けに都合のいいかたちに変えてしまおうとしているのだ。
 この本は、いま国民が気付かないでいると取り返しのつかないことになってしまうという、きわめて重大で深刻な事態をまさに現在進行形の具体的事実として列挙している。それは、この日本の素晴らしさを構成していた様々なものを切り刻み、売りに出そうとしているということなのである。まえがきにおいて、筆者はこのことを端的に断じている。
 それは「国民の生活の基礎を解体し」、本来は国や自治体が担うべき「国民の命や安全や暮らしに関わるモノやサービスを安定供給する責任」を放棄して、市場を開放し投機の対象として、外国人を含む企業の前に「ビジネスとして差し出すこと」なのだ。農業、漁業、林業といった基幹産業において、民間活力を入れることで成長産業化するのだという、まったく根拠のない目くらましのかけ声の下で、すでに政府与党と結びついたグローバル企業の参入が着実に進んでいるらしい。企業が金儲けしやすい国にするのが、いまの政府の至上命題なのだ。

 これが、先日閉会した国会などで日々進められていたことである。こうした問題に対するマスコミの反応はきわめて鈍く、どういうことが起ころうとしているのかをきちんと問題提起する報道はほとんど見られなかったようだ(見られなかったというのは言い過ぎかもしれないが、提起はいつも単発的でささやかなものだったような気がする)。
 さすがに国会終盤には、出入国管理法改正案について徐々に問題点が明らかにされてきたが、問題点を隠しておきたい政府与党は、野党の追及を無視して時間をかけずに強行採決してしまった。この法案は、日本がこれから移民をどう受け入れていくのかという大問題に関わるもので、当然しっかりとした検討と制度設計が必要だったはずである。だが、政府与党には最低賃金以下で働かせることができる安い労働力が欲しいという財界からの要求に応えようとする視点しかなく、付随する様々な問題については蓋をしたまま押し切る姿勢しか見えなかったのである。
 結局、国会で彼らに多数を与えてしまったことが誤りだったのだと思う。彼らはみずからの金儲けのためなら、素晴らしい日本の国を切り売りすることなど何とも思っていないのだ。そのことに、そろそろ気付かないとまったく手遅れになってしまうのではないかという危惧を感じる。わたしはあと少しでこの世からいなくなるはずだからいいが、これからもまだ日本の国で生きていく人たちは、ホントにこの本でも読んで少し勉強した方がいいのではないだろうか。

 移民の問題一つをとってもきわめて重大と言うしかないが、問題なのはそれに匹敵するような、日本人としてあるのが当たり前と思ってきた生活上の安寧が脅かされる様々な法案が、ほとんど問題になることもなく次々に成立しているという事実である。
 この国会で成立してしまった水道法改正案もその一つである。水道が金儲けの手段となる恐ろしさについて、もう少し深刻にならなければおかしいのではないか。水道事業が民営化されビジネスの対象となった時、その安全性や公共性は本当に守られるのかどうかという問題である。こうしたことを推進しようとしている側は、それで利益を上げようと目論んでいるのだから、様々な疑問や問題点の指摘があってもまともに取り合う気はないし、大丈夫と繰り返すだけなのである。
 災害で大規模な断水などが発生した時、民間企業となった水道がどこまで対応できるのかは疑わしいと言うしかないだろう。世界的には、民営化が失敗して再度公営に戻す国が続出しているのが現状なのであり、もし今後そうなった時には、すでに金儲けを終えた企業は責任を取らずに逃走するのが目に見えているである。
 そのほかにも、種子法の廃止とか漁業法の改正とか、無関心でいたらとんでもないことになりかねない事態が、いまの政府与党の下でどんどん進行しているのだ。この本は、いま多くの日本人が読んで勉強しなければならない本だと思う。
# by krmtdir90 | 2018-12-14 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「台北暮色」

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 ホアン・シー(黃熙)監督は1975年生まれの台北出身の女性で、あのホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督の(近作の)現場で学んだのち、2017年にホウ・シャオシェン製作総指揮により発表した長編第一作がこの映画だったようだ。
 台湾では公開以来、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)とエドワード・ヤン(楊德昌)の映画遺伝子(どんなものだ?)を継ぐ新しい才能として注目され、高い評価を受けているらしい。前評判が聞こえてくると、どうしても見る時のハードルが高くなってしまいがちだが、この監督がきわめて特徴的な映画の作り方をしていることは理解できたし、その特異性は確かに際立っていると受け止めることができた。こういう撮り方をする監督は、これまでなかなかいなかったということなのである。

 その第一印象は、特別なことが何も起こらない映画だなということだった。登場人物はきちんと設定されているし、シチュエーションも丁寧に描かれているのだが、そこから先、人物がストーリーを紡いでいくことをしていないように感じた。また、シチュエーションも積極的にストーリーが展開することに寄与していないように見えた。もちろん、その場その場でいろいろな出来事は起こっているのだが、それが何らかのストーリーを支え、それを前に進めるようにはなっていないのである。その時々の細かなディテールのようなものだけが積み重なっていて、そういう一見何でもないようなことに、この監督の視線は集中的に注がれているのだと感じられた。
 結果的にどういうことが起こっていたかというと、登場人物は確かにそこにいて、彼らを取り囲むシチュエーションも確かにそこにあるのだが、そこで映し出されるものからは、何らストーリーらしきものが浮かび上がってこないということだったのである。それは何とも頼りなく、不思議な感覚と言ってよかった。
 人物たちがそこに存在しているというのは、実はよく判らないそういう曖昧さの中にいるということだったのかもしれない。そして、彼らが動き回っているところからは、ある種漠然とした孤立感のようなものだけが立ち上ってきているのである。そこには相互の関係性はたぶん存在しているが、それはけっこう頼りないものであって、彼らはその不確実性の中で揺れ動きながら、その関係性のようなものを必死に確認し合っているということだったのかもしれない。

 ホウ・シャオシェン製作総指揮はこの映画のことを、「彼女にとっての『童年往事/時の流れ』だ」と言っているようだが、1985年製作の彼のこの映画が彼女に影響を与えた点はないとも述べているらしい。むしろ彼女の映画は、エドワード・ヤンが1985年に撮った「台北ストーリー」に近いものがあると見られているようで、その批評の言わんとするところは理解できるが、これがヤン監督の「台北ストーリー」や「恐怖分子」(1986年)に匹敵するものになっているかどうかは、やや疑問符がつくような気がした。
 確かに、エドワード・ヤンを思わせる美しく印象的なカットがたくさんあったと思う。それが台北という街と、そこに生きる人々の姿を的確に写し取っていたことは確かなことだったに違いない。だが、ストーリーではなくディテールに多くのことを語らせるという彼女の行き方が、ややそちらに寄り過ぎてしまった感があって、やや物足りない感じになってしまったようにも思われた。
 と言うか、登場人物たちが抱える様々な事情や思いなどが、この映画でもそれなりに浮かび上がるようにはなっていたと思うが、エドワード・ヤンの映画では、それが彼らの現実にどうしようもなく侵入してきてしまうところに大きな特徴があったと思うのである。それなのに、この映画ではそうしたものが絡んでいることは見えているのに、それが彼らの生にそれほどの影響を与えていないように見えてしまうのが物足りなかったのである。

 30年の時代的隔たりが、台北という街に生きる人々のあり方を変えてしまったということなのかもしれない。あるいは、監督としての両者の資質の違いが大きいのかもしれない。よく判らないが、ここまで淡々とやられてしまうと、もう少し何か描いてほしいという気もしてしまうのである。エドワード・ヤンは、みずからの存在感をもうちょっと明確にしていたぞと思うのである。ホアン・シー監督のこの突き放し方は、わたしにはどうしても不満が残ってしまうような気がした。

 プログラムに、来日したホアン・シー(黃熙)監督と、「きみの鳥はうたえる」(2018年)を撮った三宅唱監督の対談が載っていた。かなり突っ込んだ話し合いになっていて面白かったのだが、それを読む前に、この組み合わせを見ただけで「ああ、なるほどな」と納得できるような気がした。この二人の映画の作り方には非常に似たところがあり、二人はお互いにそのことを指摘し合っているのだが、その発言にはいろいろと肯ける点が多かったのである。
 プログラムにはまた、「泳ぎすぎた夜」(2018年)の五十嵐耕平監督も好意的なレビューを寄せていて、いまやこういう描き方をする若い監督が旬なのかもしれないなと思った。わたしなどはやはり、もう少しストーリーに色気を出してもいいのではないかと思ってしまうのだが、そういうのは予定調和のありふれた行き方として、徐々に淘汰されるようになってしまっているのかもしれない。
 確かに「映画遺伝子」にそれなりの共通性は認められるような気もするが、ホウ・シャオシェンもエドワード・ヤンも、もう少しストーリーはあったぜと思うのである。わたしと生年が同じこの二人の監督あたりが、わたしには率直に共感できる基になっていることが再確認されたような気がした。ホアン・シー(黃熙)、三宅唱、五十嵐耕平といった若く個性的な監督は、これからもできるだけ注目していきたいと思っているが、その作風は理解はできてもストレートに没入することはできないようなものに思われた。
(渋谷ユーロスペース、12月7日)
# by krmtdir90 | 2018-12-09 21:32 | 本と映画 | Comments(0)

映画「恐怖の報酬」1977年オリジナル完全版

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 この映画は1977年のアメリカ映画で、翌78年には日本でも公開されている。ただし、この時アメリカ以外の国で公開されたのは、監督に無断で約30分もカットされた92分の短縮版というものだった。
 どうしてそんなことになってしまったのか。事情はいろいろあったようだが、ウィリアム・フリードキン監督と言えば当時、「フレンチ・コネクション」(71年)や「エクソシスト」(73年)で世界的成功を収めていた大ヒットメーカーで、その次回作ということで大きな期待が集まり、2大メジャーのユニバーサルとパラマウントが破格の共同出資を行い、2年以上の製作期間をかけて完成したのがこの映画だったようだ。ところが、公開してみると批評もあまり芳しいものではなく、興行的にはちょうど公開中だった「スター・ウォーズ」に完敗という結果に終わってしまい、撮影中から製作費用や期間の度重なる超過で監督と衝突が続いていた会社側は、急激に世界配給への意欲を失い、大幅カットという監督無視の暴挙に出てしまったということらしい。
 そんなわけで、78年の日本公開がどんな感じで行われたのか、わたしは当時この映画を見ているはずなのだが、まったく記憶にはなく記憶が甦ってくることもなかった。たぶんこの間の経過から、配給側がほとんどやる気のないかたちで公開され、あまりまともな評価も行われないまま終了してしまったのではないかと推測する。
 今回公開された映画は「オリジナル完全版」と銘打ってある通り、77年にアメリカで公開されたオリジナル版を、監督自身が4Kでデジタルリマスター化して再公開まで持って行ったものである。日本では、初めてスクリーンで見ることが可能となったノーカットの121分だったのである。フリードキン監督は今年83歳になったようだが、彼はみずからが「最高傑作」だったと言う不幸な自信作を、驚異的な執念で40年ぶりに手中に取り戻したということなのだ。

 今回この完全版を見て、この121分にまったく無駄なところがないことに驚きを感じた。フリードキン監督はもともとドキュメンタリー的でキレのいい作りをする人だと思っていたが、この映画の語り口のテンポの良さ、展開のスピード感は観客の生理にズバッと切り込んで来る感じがした。シチュエーションの提示の仕方が的確で、余計な説明なしに、その魅力的なシチュエーションが否応なしに登場人物を動かしていくのである。その圧倒的な迫力にぐんぐん引き込まれた。。
 これを30分もカットしてしまう無謀さは想像を超えているが、恐らく4人の人物設定などがバッサリ切られてしまったのだろうと推測された。4人がなぜこんな南米の地獄のような僻地に流れてきたのかとか、なぜ危険を冒して命がけのニトログリセリンの輸送を請け負うのかといった、彼らが抱えていた背景や思いなどが完全に無視されてしまったのではないかと思われた。
 今回ネットなどを見ていたら、短縮版では、最後に一人だけ生き残ったドミンゲスが成功報酬を受け取るシーンがエンディングになっていて、彼もまたこのあと死んでしまうことが暗示されている完全版の皮肉な終わり方とは真逆の、とりあえずめでたしという訳の判らぬ終わり方になっていたらしい。これはいくら何でもひどすぎる改変で、どうやら短縮版にはニトログリセリンの物理的恐怖が辛うじて残っているだけで、あとは何も残っていなかったのかもしれない。
 この映画の核心は、運命に導かれるように死の淵に引き込まれていく4人の悪夢のような軌跡だったはずである。恐らく、この映画の何とも言いようのない暗い熱狂のようなものは、それぞれがたどって来た過去と密接に結びついていて、彼らが極限まで追い詰められていたからこそ生まれてきたものなのだろう。有無を言わせぬかたちで次々に襲ってくる危機の連続にも、それを死と紙一重のところで切り抜けていく眩暈のするような力業といったものも、それを生み出す彼らのリアルな思いに裏付けられていたから納得できたのだと思う。
 この4人は過去において、決して表通りを胸張って歩けるようなことをして生きてきたわけではない。だが、彼らが善人ではなかったにしても、この映画の中に共感できない人間として登場してきていたわけではなかった。だから一緒になって手に汗握ることができたのであり、最後に現れる突然の死が、たとえ彼らには必然の運命であったとしても、ある種の空しい了解を呼び覚ますことになったのだと思う。うーん、やっぱり死んじゃうのかという感じである。

 この映画には、1953年にアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督によって製作されたフランス映画の先行作があり、そのリメイクとして製作された作品だった。そのため、当初からこのクルーゾー版との比較で論じられてしまうことになり、特に短縮版になってからは、クルーゾー版には到底及ばないという評価が定着する結果となってしまったようだ。わたしはクルーゾー版を見ていないから比較することはできないが、この映画はこの映画として、変な言い方だが立派に独り立ちしていると言っていいように思った。
 クルーゾー版がどうであったにせよ、この映画では、この映画の登場人物たちがしっかりした説得力で存在していたと思う。ロイ・シャイダーがやったドミンゲス役は、クルーゾー版ではマリオという役でイヴ・モンタンが演じていたようだ。ちょっと見てみたい気もするが、見たからと言って両者を比較することには何の意味もないだろう。
 ストーリーの大枠はクルーゾー版と同じように展開したようだが、クライマックスの吊り橋のシーンなどはこちら独自のものだったようだし、ここに充溢していた幻惑的な狂気と絶望感、そして目も眩むような迫真の恐怖感は、他と比較することを空しくするような臨場感を持っていたと思う。わたしが高所恐怖症だったこともあるが、この映画の手に汗握る感覚はまったく尋常なものではなかったと思う。
(立川シネマシティ2、12月5日)
# by krmtdir90 | 2018-12-08 23:59 | 本と映画 | Comments(3)


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