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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「止められるか、俺たちを」

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 白石和彌監督は若松プロの出身ということだが、1974年生まれの彼が若松プロと関係していたのは、監督・若松孝二としてはかなり終盤の時期だったはずである。この映画は1969年から71年にかけての若松プロを描いているが、白石監督はもちろんその頃のことは知らないのである。だが、若松孝二は年齢は重ねても往年の情熱をまったく失わなかった人のようだから、それを間近に見てきた白石監督としては、若松孝二と若松プロがまだ若くて最も輝いていた時代を、映画を撮ることで確かめたいという気持ちがあったのではないだろうか。
 当然この映画には、その若松孝二を筆頭に、当時の若松プロに出入りしていた多くの人々が実名で登場している。若松孝二は2012年に交通事故で死去してしまうが(享年76歳)、その他の人々はほとんどが存命している中で、それぞれの若かりし頃に現在の役者たちを当てて演じさせるというのは、恐らく相当ハードルの高い挑戦だったのではないか。だが、その試みは十分に成功していたと思った。
 若き日の若松孝二を演じたのは井浦新という役者だったが、彼は白石監督とともに終わりごろの若松プロにいて、若松監督の何本かの映画で、その演出を直接受けた経験があったようだ。インタビューで白石和彌監督は、井浦新が若松孝二をやってくれなければこの企画は成立しなかったと述べているようだ。彼は確かに、当時の若松孝二はこんなだったんだろうなと思わせる演技で、この映画の中に説得力を持って存在していたと思う。多くの役者が、モノマネにはしたくないと言って役作りしたらしいが、若松の他にも足立正生・荒井晴彦・沖島勲・大和屋竺、さらには大島渚・葛井欣士郎・赤塚不二夫といった有名人が、いかにもそれらしい雰囲気で登場してきたのは面白かった。

 前置きが長くなってしまったが、この映画は、当時若松プロにいたらしい吉積めぐみという女性助監督を主人公として作られている。若松プロはいわゆるピンク映画を製作していたから、言ってしまえばそこは完全な男たちの世界であった。実際の吉積めぐみがどういう人であったかは判らないが、とにかくそこにまったく異質な視点を持った人間がいたということである。彼女の視点を中心に置くことで、映画のストーリー展開に奥行きと幅が生まれ、単調な回顧譚になることを回避できたということではないか。これは見事な作戦勝ちだったと思う。
 彼女は(実際に)、妊娠6ヶ月で自殺とも事故死とも取れる死に方をしたらしいが、その周辺を(凡庸な)ラブストーリーとして拡大することもできたと思われる。だが、そういう愚を犯さなかったのは立派である。映画では彼女と高間賢治のセックスシーンが2回入っていたから、普通に考えれば子どもの父親は高間ということになるが、そのあたりについてこの映画はまったく追いかけようとはしないのである。彼女の死を高間がどう受け止めたのかも、この映画は描いていない。
 結果的に、彼女の死が敗北(逃げ)という印象になってしまったのは残念な気がしたが、そこまでの2年半を真っ直ぐに駆け抜けた、彼女の成長の軌跡はしっかりと刻み込まれていて、実に鮮やかな印象を残す映画になっていたと思う。最初は大した決意もなく、ついふらっと助監督になりたいと言ってしまっただけなのに、普通なら男でもすぐ逃げ出してしまうようなメチャクチャな現場に(給料も出ないのだ)、なぜ彼女がしがみつき居着いてしまったのかは判らない。だが、彼女が感じたであろう戸惑いや反撥、そして不思議な頑固さを漂わせる言動が魅力的である。男たちにとっては、なぜ女がこんなところに居られるのかという違和感のようなものがあったと思う。だが、彼女の中に燃える不思議な一途さを見てしまうと、映画をやりたい思いに男も女もないではないかという、ある種一体感のようなものに変化していくところが面白かった。
 セックスというようなズブズブの世界を撮りながら、そこに集まっていた彼らは、ちょっと考えられないくらい純粋で過激でプラトニックだったのだ。吉積めぐみを演じた門脇麦が非常に良かった。

 この映画は、若松孝二を中心とする男たちの中に常に異質な存在の彼女を置くことで、映画に夢を賭けた男たちの思いなどすべてがその視線に晒され、相対化されることでリアリティを獲得していたように思われた。
 男たちというのは、若松孝二であれ足立正生であれ、何も言わなくてもお互いストレートにつながってしまう回路のようなものを持っていたと思う。だが、恐らく吉積めぐみにはそういうものはなかったのだ。映画の中に2度描かれていた男たちの(酔っ払っての)放尿シーン、若松と赤塚不二夫のそれは唖然と見ているしかなかった彼女が、後半、若松プロの屋上で飲んだ時に、男たちが揃って放尿するのを見て、「わたしも」と叫んで加わろうとして止められてしまうところなど。
 どこかで彼女が、自分のことを「女を捨てた」と言うところがあったと思うが、それはそうしなければピンク映画の現場になど居られないということであると同時に、回路を手に入れるための彼女の願いを表していたのだとも思われるのである。だが、妊娠という事実は彼女が女であることをもう一度突きつけたということなのだろう。死んでしまった以上、軽々な評価は下すべきではないが、吉積めぐみは最後のところで、若松プロと男同士のような濃密な回路は(たぶん)持てないまま死んでしまったように見えて仕方がなかった。
 この点に関しては、ある意味自由な創作が可能な部分だったように思う。もちろん、死んでしまった事実は変えようがないが、彼女の存在にフォーカスして、彼女の生きた日々をふくらませようとした白石監督の意図は間違ってはいない。だから、もう少しだけ彼女に寄って、丁寧に描くべきだったのではないかという気もしてしまうのである。ここは難しいところなのは判るし、全体を若松プロの群像劇として構成する上では、この程度の(やや物足りない)描き方がちょうどバランスが取れていたのかもしれないとも思う。よく判らない。

 1969~71年というのは、わたしにとっては非常に懐かしい時期である。その時代の空気というものを、この映画は鮮やかに甦らせてくれたように思う。残念ながら、わたしは当時の若松孝二にそれほど興味を抱いていたわけではなく、今回調べてみたら、見ているのは「胎児が密猟する時」(66年)「狂走情死考」(69年)「天使の恍惚」(72年)の3本だけで、特に強烈な印象を受けた記憶もない(失われてしまった)。だが、当時の日本映画がどんな状況だったのかはよく覚えているし、渋谷や新宿の街の騒然とした雰囲気、アートシアター新宿文化やアンダーグラウンド蠍座などのことも鮮明に記憶している。
 だからどうだということではない。わたしは結局、映画を見ていたが映画を作りたいとは思わなかったし、世界を変えなければと思っていたが、基本的には傍観者の位置から動くことはなかった。それでもいま、この映画を懐かしいと感じてしまうことは許してもらえるだろう。すべてが過去のことになってしまったが、確かにこういう時代があったのだ。ああ、みんな煙草を吸っているな、お酒を飲んでいるな、議論しているな、バカやってるな、自分が何者であるのか、必死で探していたな、などと思い出すのである。
(立川シネマシティ1、10月18日)
# by krmtdir90 | 2018-10-20 18:23 | 本と映画 | Comments(0)

「もうすぐ絶滅するという煙草について」(キノブックス編集部)

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 新宿の紀伊國屋書店で見つけて、ちょっと複雑な気分で購入してきた。2階の目立つところに平積みになっていたのは、さすが紀伊國屋書店だと思った。わが町の書店などではまず出会うことのできない本である。
 42人の作家さんたち(何となく「さん」をつけたくなる)が煙草について書いた文章(うち、俳句1、詩1、漫画2を含む)を集めたもので、中には堀口大學のような非喫煙者の文章も混じっているが、おおむね喫煙者か、かつて喫煙者だったことのある人の文章である。42人の名前は帯に載っているので再録しないが、一つの傾向に偏ることなく、多方面にわたってバランスの取れた選考をしていて、うまい並べ方をしているなとニヤニヤしながら楽しく読了することができた。

 10月1日から煙草が値上げされるというので、前日に近所のコンビニに行って1カートンを確保した。わたしはいま3日に1箱のペースだから、まだ5箱目に入ったところで、まだ4箱残っているが、それも近日中になくなってしまうだろう。煙草の税負担率は6割超だと言うし、1箱450円(30円値上がりする)になったのを買う前に、そろそろ潮時かなという思いも心の片隅にはある。だが、いまある4箱を無駄にするのも惜しいような気がして、なかなか難しい局面に立たされている気分なのである。
 この本は全体が3章に分かれていて、1章は喫煙という行為を様々な角度から(ほぼ擁護的に)書いた文章、2章は近年顕著な嫌煙など煙草の規制に関して述べた文章、3章は禁煙についての実践的な文章が並ぶようになっていた。もちろん正面切って論じたり主張したりといったものは一つもないが、多くが何らかの屈折を感じさせる文章なので、煙草というのは吸い続けるにしても止めてしまうにしても、なかなか複雑でスッキリしないものを内包しているのが判るのである。何よりも、書名につけられた「もうすぐ絶滅するという」という修飾句は尋常ではない。

 煙草については前に一度書いたことがあるが、わたしが煙草を吸い始めたのは20歳を過ぎてからで、本書で別役実が書いていたような「劇的要素」はまったくなかった。1日1箱に近いペースで15年以上吸い続けたのち禁煙したが、これも大した動機があったわけではない。10年あまり禁煙したあとでまた吸い始めたのにも、特段の「劇的動機」はなかったと言っていい。だがそれ以来もう20年以上、わたしはほぼ2~3日に1箱のペースで吸い続けてきたことになる。
 何とも締まりがないと言えば締まりがないのだが、これまで生きてきた半分以上の期間を煙草と付き合ってきたのである。これだけ長いあいだ続いてきた関係をもう一度絶つというのは、別役言うところの「裏切り」以外の何ものでもないという気がして躊躇してしまう。
 最近も医者に「絶対に止めなさい」と言われる事情があって、医者に言われて止めるなど愚の骨頂と反撥を感じたところなのだ。健康のためとか何とか、そういう不純な動機で止めることはわたしの矜恃が許さない。「劇的」ではあり得ないが、わたしがもし「転ぶ」としたら、「何となくやっちゃった」というゲーム感覚以外は考えられないだろうと思っている。

 本書の中でなぎら健壱が書いているが、昔は都内の駅のホームでも平気で煙草が吸えた。もちろん混雑していれば吸わなかったが、空いていれば一応風向きは気にしながら吸っていた。吸い殻は、毎日駅員さんが掃除するんだろうなと少し罪悪感を感じながら線路に捨てたりした。クロスシートの窓側や手摺りには灰皿が付いていたし、灰皿のないロングシートでも(わたしは吸わなかったが)吸っている人をけっこう見かけた。
 映画館は(禁煙の文字はあったが)喫煙者の天国だった。さすがに都心のロードショウではほとんどいなかったが、2番館3番館(こういう言い方もなくなってしまったが)、それにオールナイト(これもなくなってしまった)などでは吸い放題で、場内がスモークを焚いたような状況になっていた。後部の映写窓からの光がはっきり見えるというのが普通のことだったのである。
 富岡多恵子(いまどうしているのだろう?)が教師をしていた頃、喫煙で捕まった生徒を煙草を吸いながら説教したとどこかに書いていたと思うが、職員室も会議室も平気で煙草が吸えた時代が(決していいことではなかったが)確かにあったのだ。

 近年の喫煙者に対するヒステリックな規制には違和感を覚えるが、非喫煙者に対してずっと迷惑をかけ続けてきたことを思うと、JTのコマーシャルではないが、「人のことを思う」というのは喫煙者として最低限のモラルだと思っている。
 外国旅行に行くようになって、喫煙に対するそれぞれの国の対応の違いなども興味深く、ホテルやレストランなどで、煙草というものを媒介としたお国柄の違いを考えるのも面白いことだった。国内を鉄道旅行している時は、駅と喫煙場所の関係を見るのが非常に面白かった。都内や近郊の駅はほぼ完全禁煙になってしまったが、地方のローカル線などでは様々なかたちでまだ灰皿が残っていて、そういう「ゆるさ」はこれからも残したいものだと思っている。
 映画を見に都心に出ることが増えたが、新宿や渋谷でどこに喫煙場所があるかはだいたい覚えてしまった。公認の場所ではないが、店先に灰皿のある非公認の場所があることも知った。要するに、これからは「棲み分け」が出来ればいいのであって、喫煙者に対してあまり目くじらを立てるのは生産的なことではないと思っている。

 なんか、ほとんど本と関係のない話になってしまったが、敢えて大上段の言い方をすれば、煙草は(お酒も)文化であり、非生産的なものであるゆえに愛すべきものだと思っている。わたしはその効能や御利益を語るつもりはないし、だから鬼の首を取ったように害毒だとか迷惑だとか言ってほしくはないのである。わたしは煙草もお酒もやらない人を(残念だとは思うが)見下したり非難したりするつもりはない。けれども、煙草やお酒を毛嫌いする人は非文化的な分からず屋だと思っている。阿呆だと言いたいところだが、それならお前も阿呆だと言われてしまいそうで、それに返す言葉も思い浮かばないのでやめておく。
# by krmtdir90 | 2018-10-17 22:07 | 本と映画 | Comments(0)

映画「愛と法」

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 ゲイのカップルがいる。この2人は弁護士で、2011年に結婚式を挙げ、大阪の下町に法律事務所を開いている。名前は南和行(カズ)と吉田昌史(フミ)と言う。日本では同性婚は認められていないから、法律的には2人は他人のままである。だが、2人は一緒に生活し、一緒に弁護士の仕事をしている。すでに著書もあるようだが、わたしは読んだことがない。
 この映画はこの2人に密着したドキュメンタリーである。監督の戸田ひかるは、10歳の時からオランダで育ったようだが、この映画を撮るため思い切って大阪に住居を移したらしい。

 ドキュメンタリーというのは、撮る側と撮られる側の関係がどんなものなのかという点で、様々なスタイルがあるように思う。この映画では両者が非常に密接に結びついていて、撮る側はこんなところをこんなふうに撮りたいといった、撮られる側はこんなところをこんなふうに撮ってほしいといった要求をかなり出しているように見えた。お互いを信頼した共同作業ということだが、だからといって馴れ合いの予定調和になっていないところが良かった。むしろ、お互いに認め合っているからこそ、どちらにも思いがけず撮れてしまったようなシーンがたくさんあった。2人の周囲に登場してくるいろいろな人たちも含め、ごく自然で暖かい雰囲気が流れるドキュメンタリー映画になっていたと思う。
 最初のあたりで、カズの母親のヤエさんという人が紹介されている。カズがゲイだと告白した時、彼女はごく普通の反応として大きな衝撃を受け、様々なやり取りのあとで「だって知らないもの、誰も教えてくれなかったもの」と言ったらしい。それを聞いてカズは「そうか、知らない人のことは責められない」と思ったのだという。カズは仕事のかたわら、マイノリティに関する講演会や勉強会に積極的に関わっているらしい。そして、ヤエさんはいま2人の事務所で働いて2人を助けている。終わりの方で、彼女が「子どもを支えるというより、受け入れるということ。受け入れへん方がしんどいよ、お互いに」と言うところも紹介されている。
 映画は2人が手がける裁判のことも描いているが、もちろん弁護士としての彼らの日常を捉えることの方に主眼があって、法律に依拠しなければ仕事にならない大前提の前で、様々に揺れ動く2人の心情を丁寧にすくい上げている。法律や裁判がすべて正義に貫かれているわけではないし、彼らの関係を法律が認めていないことを始めとして、マイノリティを排除したり、きわめて冷たい対応しか取れない裁判制度であることに、2人はみずからの無力を嘆いたりするのである。

 映画の冒頭に「日本は世界でも数少ない均質国家である」という字幕が出る。「空気を読む」という言葉に象徴されるような、多数派がすべて善であって少数派は排除されても仕方がないという、現代社会に蔓延しつつある排他的風潮に2人は異議を申し立てているようだ。だが、映画はそれを声高な主張として切り取ろうとはしていない。少しでもそんなところがあったら、この映画はこんな共感を呼ぶようなものにはならなかっただろう。扱っている問題の一つ一つは大きなものばかりで、どれも明確な問題提起を含んでいるのだが、映画はあえてその周辺部分を徘徊することの方を選び、思い通りにならない現実に揺らいでしまう人々の姿に寄り添っていく。
 無知によってもたらされる偏見や差別が大きなテーマになっていると思うが、それらが圧倒的な多数派を形成しつつある中で、一方的に非難されたり忘れられたりしている少数派の側に立って、その姿を普通に記録していこうとこの監督は考えているように見える。映画では、女性器をモチーフとした作品がわいせつか否かで争われたマンガ家・ろくでなし子の裁判、卒業式で君が代を歌わなかったとして処分された大阪の府立高校教師の裁判、さらに日本に1万人以上いるとされる無戸籍者の権利回復を求める裁判などが取り上げられている。それらはいずれも、少数ゆえに社会の片隅に追いやられようとしている人々の闘いなのである。
 これら少数派の側に立つことで、映画はろくでなし子の父親が「親バカと言われるかもしれないが、ブレない彼女を誇りに思う」とカズに話すシーンや、君が代裁判の女性教師が「あんなにたくさんいた仲間が、あっという間にいなくなってしまった」と嘆くシーンなどを捉えている。現代は、空気を読んでみずから多数派に所属しなければ、周囲から否定され孤立するしかない世の中なのである。無戸籍者の問題は(問題の存在は知っていたが)深く考えたことはなかった。社会から見落とされてきた問題に取り組む2人の弁護士と、それにスポットを当てた監督に敬意を表するばかりである。無戸籍者2名のインタビューを見て、政治が早急に解決策を講じなければおかしいと感じた。

 映画は、ゲイのカップルであるカズとフミの日常生活もしっかりと描写している。2人がどうして一緒に生活するようになったのかとか、家の中で2人がどういう役割を分担しているのかといった(フミがキッチンで手際良く食事の支度をするシーンは面白かった)、私生活の細々とした部分を2人は率直にさらけ出し、監督はそれを淡々と写し取っている。お互いの信頼がなければ撮れなかったようなシーンがあると思った。
 映画の中盤で、カズマという少年(かなり青年に近い)がカズとフミの家に同居するようになる。カズが少年事件を担当した時、後見人になった少年で、何かの事情で住む場所を失っていたらしい。このカズマくんというのが、寡黙だけれどなかなかいい。カズがフミと同性カップルであることを言っても、「そんなんテレビで見たことあるから」とまったく意に介さない。そればかりか、何の違和感もなくこの家の生活に溶け込んでいくのである。
 時が流れ、映画の終盤では、就職して彼女が出来たカズマくんが、彼女にカズとフミのことを幸せな家族なんだと話すシーンが収められている。カズマくんが彼女と作りたいのは、カズとフミが作っているような家庭なのである。彼らが同性婚だと聞いてエーッと驚く彼女に対し、「普通やん」とボソッと言うカズマくんの表情が素晴らしい。驚いてしまう彼女はごく普通の女の子だが、早晩カズマくんの言う「普通」を理解し共感するようになるだろう。
 この世界にはいろんな生き方があっていいし、いろんな人がいるのが当たり前なのだ。多数とか少数とか、みんなと違っているからとか、そういうことが強調され決定的になってしまうような社会はおかしいのだ。この映画は、そういうことを自然に感じさせてくれる力を持っていたと思う。
(渋谷ユーロスペース、10月12日)
# by krmtdir90 | 2018-10-13 14:52 | 本と映画 | Comments(0)

映画「バッド・ジーニアス/危険な天才たち」

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 試験の時のカンニングを描いた映画だが、コメディ的な要素はまったく入っていない。登場する高校生たちはみんな真剣にカンニングに取り組んでいて、映画はその過程を克明に追いながら、それが成功するかどうかというところでスリルとサスペンスを高めていく。一見したところ、カンニングは悪いことだという前提を崩してはいないが、そういう尺度を一旦脇に置いた、一種のゲーム感覚のようなものが彼らを支配しているように見える。それが現代の高校生の感性なのだと認めているようだ。

 タイで作られた映画だが、公開以来東南アジア諸国で大ヒットを記録しているらしい。「ポップ・アイ」もタイを舞台にした映画だったが、あれはシンガポールの監督がタイにやって来て撮った映画で、外の人間から見たタイの姿という面があったと思う。対するこちらは、タイ人の監督(ナタウット・プーンピリヤ)がタイ人のキャスト・スタッフとともに作った、タイの現在をしっかり踏まえたドラマになっているところが大きな違いだったようだ。
 そういう意味で、この映画はハラハラドキドキの娯楽映画でありながら、決して荒唐無稽な話にはなっておらず、現代のタイ社会が抱える様々な社会問題をきちんと取り込んだストーリーを展開していた。背景にあるのは、近年タイを始めとした東南アジア諸国で急激に高まっているらしい進学熱と、学歴によって完全に序列化されてしまう競争社会の現実である。そこにはすでに存在している貧富の格差も影を落としていて、激しい受験戦争の中で、いまどこの国でもカンニングが大きな社会問題になっているという状況があったようだ。この映画も、中国で実際に起きた集団不正入試事件をヒントにして作られたということらしい。

 カンニングを本気で防ぎたいなら、試験をすべて記述式にしてしまえばいいとわたしなどは思うのだが、映画で見る限り、その多くがABCD4択のマークシート試験になっていた。どうしてそうなのか、このあたりの事情はよく判らないのだが、映画で描かれるのはこの4択を前提とした試験の攻略法ということになる。最初は消しゴムを使った原始的なカンニング(無償の友人救済)から始まるが、それが次第に金銭授受を伴う大がかりなカンニングに進んで行き、最後はアメリカの大学への留学資格を得るため、世界各国で一斉に行われるSTICという大学統一入試(これには記述式も含まれる)へとスケールアップしていく。
 密かに覗き込むだけのカンニングを別にすれば、カンニングは「見せてもらう側」の働きかけに「見せる側」が合意することで成立する。そこには見せる側の答案がほぼ完璧であるという前提があり、そういう答案が作れる側が大きな危険を伴うカンニングに同意するためには、それ相応の大きなメリットがなければならない。それが金銭授受であるところに、タイの深刻な格差社会の現実が見えてくる。学歴格差はそのまま貧富の格差と結びついているのである。

 この映画は、見せる側と見せてもらう側にそれぞれ2人ずつの主人公を設定している。
 まず、見せる側の2人、私立の進学校に特待奨学生として編入されて来たリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン、タイって名前が長いんだよね)は、教師である父親との父子家庭で育ったクールな印象の天才少女で、授業料免除とランチの無償提供を校長と話し合う最初のシーンで、貧困とは言えないまでも豊かな家庭でないことは容易に窺えるようになっている。もう一人の特待奨学生バンク(チャーノン・サンティナトーンクン)は素朴で真面目そうな少年で、彼の家庭はあまり描かれていないが、場末の小さなクリーニング店で働く母親は出ていたが父親の姿が見えなかったことから、たぶん苦学してきたのだろうなと想像されるのである。いずれにせよ、彼らは特待生待遇がなければこの私立校にはいられないのであり、学業優秀な2人を格好の広告塔と考える学校は、2人の顔写真入りの大きな垂れ幕を校舎の壁に掲げたりするのである。
 一方の見せてもらう側は、当然のことながら富裕層の子どもたちである。最初にリンと仲良しになり、最初に彼女に助けてもらう少女グレース(イッサヤー・ホースワン)は明るく愛敬のある少女だが、豊かな家庭の子どもであるのは明らかで、彼女がリンに紹介するボーイフレンドのパット(ティーラドン・スパパンビンヨー)はプール付きの大邸宅に住んでいる少年なのである。このパットが、自分たちと同じような、富裕だが成績の振るわない仲間を助けてほしいと、具体的な報酬額を提示してリンに働きかけることになる。確か1人1科目3千バーツと言っていたが、日本円に換算すると約1万円ということになり、特待奨学生としてやっとこの高校に通っているリンにしてみれば、想像を超えた高額なのである。最初は渋っていたリンが結局この提案を受け入れるのは、自分の将来の進学を考えた時、何より必要なものはお金だと判っていたからだろう。

 ピアノが得意だったリンが、鍵盤を叩く指の動きをABCDの答えに対応させて、試験場のたくさんの相手に答えを伝えていくカンニングシーンは面白い。テクニックの意外性とともに、こうしたシーンをスリリングなゲーム感覚で描いて見せたところに、この映画が成功を収めた大きな要因があったと思われる。
 だが、同じ試験場には、金持ち連中のカンニングを快く思わない生真面目なバンクも混じっていたのである。彼の通報で、リンたちのカンニングは学校に知られてしまう。校長室に呼ばれた彼女は、金銭の授受があったことを咎める校長に向かって、富裕層の保護者が子どもの入学に際して多額の賄賂を学校に渡すのは悪くないのかと反論する。だが、校長はそれは純粋な寄付金だと言って取り合わない。結局、彼女は退学は免れるものの、父親の信頼を失い特待生としての資格も失うことになってしまう。
 映画はこの点を強調しているわけではないが、見せた側のリンが叱責され処分を受けるシーンはあるのに、見せてもらった側が追及され処分を受けるところは描かれていなかった。また、映画の最初のあたりで、グレースが持っていたプリントで勉強を教えてやったリンが、教師が主宰する有料補習に出ると、プリントのかたちで試験問題が教えてもらえるというからくりに気付くところも描かれていた。この映画は、学歴至上主義が経済至上社会と密接につながっていて、富める者がその財力で世の中を渡って行ける巧妙なシステムが出来上がっていることを、しっかり描き出しているのである。カンニングはその中の一つのかたちに過ぎない。

 失意のリンを再びグレースとパットが呼び出し、もう一度カンニングをやろうと持ちかけるのは必然の成り行きである。二度とやらないと決意していたリンが、その報酬額の大きさから起死回生のプランに乗ってしまうのも必然と言っていい。彼らはお互いを必要としていて、お互いを利用し合わなければ夢を実現することができないことを(悲しいことだが)判っているからである。
 この映画のいいところは、普通なら悪役にしてしまってもいい金持ちのグレースとパットをそんなふうに決めつけていないことである。彼らには彼らなりの家庭環境があるのであり、勉強が出来ないことは自分が一番判っているのに、親の期待に応えなければ生きていけないところに追い込まれているのである。子どもの気持ちをよそに親の期待は膨らむばかりで、今度の試験はこれまでとは桁が違う、アメリカ留学を賭けた世界規模のSTICということになってしまうのである。
 かくして映画は、もう一人の天才少年バンクをも引きずり込んで、試験開始の時差を利用したスケールの大きなクライマックスへと進んで行く。タイより4時間早く試験が開始されるオーストラリア会場でリンとバンクが受験し、記憶した答えをSNSでグレースとパットに送信するという手口と、それを高額な報酬で募集したタイの受験生に伝える奇想天外な手口と、まあよく考えたものだと驚くばかりのカンニングプランは、果たして成功するのかしないのか。

 この最後の30分をわたしは大いに楽しんだと思う。最後にはやはり失敗に終わってしまうのだが、こんなに面白い展開の映画はそうあるものではない。だが、帰って来てこれを書き始めてみて、この映画が単なる娯楽映画ではない、大きな問題意識を隠した野心作だったことがどんどん見えてくるような気がした。
 貧しい家に育ったリンやバンクも、富裕な家に育ったグレースやパットも、この国に育った高校生たちがそれぞれみんな、過酷な格差と理不尽な競争社会を生きていかなければならない現実があることを、しっかり見据えた映画だったことが理解されたのである。そして、それをただ声高に訴えるのではなく、表面上は徹頭徹尾痛快な娯楽映画として描いて見せたことが見事なのだと思い至った。どんなに高潔な主張であっても、観客に見てもらえなければ何の意味もないのである。こういう描き方をすることによって、この映画が多くの観客を獲得しているところにこの映画の鮮やかな勝利があり、そして大きな意義があるのだと思った。
(MOVIX昭島、10月10日)
# by krmtdir90 | 2018-10-11 18:17 | 本と映画 | Comments(0)

東大附属の「アリス」(2018.10.7)

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 10月7日(日)は最初から映画を見に新宿に出掛けたわけではない。午前中、新座柳瀬のMさんと一緒に東大教育学部附属中等教育学校の文化祭に行って、午後は山梨に行くというMさんと別れたあと、せっかく新宿に出たのだから一本見てから帰るかという気分になったのである。夏が戻ったような天気だったから、昼食に入った蕎麦屋でつい昼ビールを飲んでしまい、これではつまらない映画だと寝てしまうかもしれないと思っていたが杞憂だった。そういう状態なのにグイグイ引き込まれたのだから、あの映画(「判決、ふたつの希望」)がどんなに面白かったかは明らかだったと思う。

 さて、Kさんが支配人?をしている東大附属の演劇部は、中高一貫であるため1~3年の中学部と4~6年の高校部がそれぞれの舞台を作っているらしい。いままでは高校部の舞台を見に行っていたのだが、今回は中学部が稲葉智巳作の「Alice!2/白ウサギのお見合い編!?」を上演するというので、Mさんに誘われて初めて中学部の舞台を見せていただいたのである。
 中学の演劇部にも関東・全国とつながるコンクールがあって、都大会を目指す地区大会が次の日曜(14日)にあるというのを聞いたので、楽しい舞台を見せてくれた生徒諸君にお礼と応援の気持ちを込めて、以下に簡単な感想を書いておくことにする。

 中学校の演劇部がどんなことをやっているのか全然知らないのだから、あまり安易な物言いは避けなければいけないが、東大附属の「アリス」は、高校生も顔負けの素晴らしい舞台を作り上げていたと思った(ずっと感心しながら見ていました)。
 稲葉智巳の作る舞台(作・演出)をそれなりに見てきた者からすると、彼の台本を他校がやるのは(高校であれ中学であれ、またそこらのアマチュア劇団であれ)非常にハードルが高いと思っていた。それなのに、今回のような素敵な舞台が(高校生ではなく)中学生によって作られてしまったということには、お世辞ではなく率直な驚きを禁じ得なかった。中学生を甘く見ないでほしいと言われているような気がした。
 稲葉智巳の書くセリフを新座柳瀬以外の生徒がやる場合、(彼の訓練を受けているわけではないので)テンポや間合いなどが多少のっぺりしてしまうのは避けられないことだと思う。それでもセリフの言葉一つ一つをきちんと立たせて、勢いを失わないように言うことが出来れば、もともとしっかり書かれているセリフだから客席にはちゃんと伝わるようになっているのである。だが、そうは言っても、これをやり切るのはそう簡単なことではなく、見る前はそんなに期待していたわけではないことは正直に白状しなければならない。

 しかしながら、予想は見事に覆された。この台本が要求していることはいろいろあるが、中学生としてここまで出来ればもう胸を張っていいのではないか。高校生だと言っても十分通用するほどの成果を上げていたと思う。だって、白ウサギをやった高尾さんは1年生だったわけでしょ。ついこのあいだまで小学生だったんだよね。そんなのとても信じられないよねと、Mさんと話しながら帰った。当人は少しは緊張があったのかもしれないが、それを感じさせない堂々とした芝居が出来ていたのではないだろうか。
 3年生の4人、三月ウサギの原さん、ハートの女王の中村純さん、帽子屋の中村怜さん、チェシャの角田さんは、みんな役にピッタリ嵌まっていて、それぞれの個性をよく生かせていたと思った。セリフもしっかりしていたし、見終わったあと、それぞれのキャラクターが鮮明に記憶に残ったのは大したものだったと思う。個人的な好みはあるが、それは言わない。でも、そういうことを言いたくなるところまで達していたというのは、高校生の舞台でもそうはないことなんだからね。
 2年生の2人、アリスの小村さん、料理長の唐澤くんは、3年生と比較したら可哀想だけれど、それぞれ精一杯頑張って愛すべきキャラクターを作っていたと思う。小村さんは、もう少し笑顔が見せられる時があるとずっと魅力的なアリスになると思った。唐澤くんは、時々照れたように視線を落としてしまうところが残念で、そこが吹っ切れればもっと楽しくやれるのではないかと感じた。
 敢えて全体的な希望を言えば、みんなの一生懸命さがそのまま出てしまう感じがあるので(必ずしも悪いことではないのだけれど)、表情などにまだ硬さが残ってしまうところがあるのがもう一歩だった。一生懸命明るくやろうとするのではなく、意識してないのについ明るくなっちゃうという感じになれば、いっそう楽しい舞台になるのではないかと思った。

 いまのままでも十分に面白い舞台になっていたので、14日は自信を持って自分たちの演技を楽しんできてください。いい知らせを待っています。
# by krmtdir90 | 2018-10-10 08:54 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(0)


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