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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「鈴木家の嘘」

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 長いこと引きこもっていた長男が、ある日突然、自室で首を吊って自殺してしまう。後に残された家族、父と母と妹がそれをどう受け止め、どんなふうに立ち直っていったのかを描いた映画である。一見したところ喜劇風テイストが感じられるフライヤーのせいで、公開時には何となく見る気になれなかった映画だった。ところが、先日発表されたキネ旬ベストテンで6位に入っているのを見て、これは見るべきだったかと思って調べてみたら、渋谷のアップリンクでまだ何回か上映予定があるのを見つけたのである。
 結論を言うと、見落とさないで良かったなと思った。非常に重い内容を持った映画だが、それをこんなふうにサラリと、ユーモアたっぷりの味付けで描いて見せたところに凄い才能を感じた。この深刻な題材で、この吹っ切れた感じはそう簡単に出せるものではない。
 監督・脚本の野尻克己という人は、1974年生まれの45歳で、「恋人たち」(2015年)の橋口亮輔監督を始めとして、最近の日本映画を代表するような多くの監督たちの助監督を務め、本作で念願の監督デビューを果たしたということだったらしい。その橋口監督が、プログラムに最大級と言っていい賛辞を寄せていた。「映画には、作る者に根拠がある作品と、ない作品がある。根拠がある作品は強い。どうしても伝えたい何かがあるということだ。この作品にも、胸を掴まれる瞬間が何度もある」。まさにその通り、納得である。

 同じ監督デビュー作品で並んでしまった「夜明け」の広瀬奈々子監督との決定的な違いが、ここにあったのだと感じた。あの映画には「根拠がない」ということだったのだ。プログラムに載っていた野尻克己監督のインタビューを読むと、この人は実生活で実際に兄を自殺で失った経験があったのだと明かされていた。自分が映画監督になるのであれば、まずこのことを真っ先に描かなければ前に進めないと考えていたらしい。この事実はきわめて重いと思う。
 しかしながら、こういう実体験があったというのは、周りからは想像できないくらいの大きなプレッシャーもまたあったということだろう。映画のために体験に基づく設定を作り、登場人物を動かしてストーリーを構成していっても、どうしてもみずからの体験の大きさに囚われてしまって、それに関わる諸々のことについて、客観的に事態を見詰めていく冷静さを保てなくなってしまうのではないかということである。
 だが、この監督は実に落ち着いていたと思う。この映画の凄いところは、どこでも笑いを取ろうとしていないにも関わらず、登場人物がただ目前のことに必死になっているだけで、そこに何とも言えないユーモアが浮かんでしまうところなのである。必死になればなるほど滑稽に見えてしまうという現実。受け入れ難い死を前にしても、残された者は何とかして生きていくしかないのだという現実に対する、これはまさに開き直りなのだ。そして、そこに「伝えたい何か」を見出そうとしている作者の真剣さが、つまらない作為に頼らなくても、人物を見詰める暖かい眼差しとして自然に浮かび上がってきた結果なのだと思う。

 長男を溺愛していた母親は、首を吊った死体を発見したショックで、その自殺に関する部分の記憶だけを完全に失ってしまう。精神的に耐えがたい衝撃に見舞われた時、自分が認めたくない不都合な事実を全部削除してしまうということは、必死の防御態勢としてけっこうリアルに起こりうることなのだという。病院でこの事実に直面した父と娘は、一緒にいた叔父・叔母とともに、彼女を悲しませないためにとっさの「嘘」をついてしまうのである。「引き籠もりが治った彼は、いまは叔父の仕事を手伝うためアルゼンチンにいる」というものなのだが、その場を取り繕うために思わず出てしまった言葉でも、それにみんなが縛られるしかなくなってしまう。
 それは、彼女が記憶を取り戻せば簡単にバレてしまう空しい嘘であるが、以後それを必死に維持することが家族みんなの課題になってしまうのである。それは端から見ると滑稽なことと言うしかないのだが、野尻克己監督は懸命にこの課題と取り組む彼らの行動を、優しい肯定感を持って丁寧に掬い上げていくのである。面白かったし、スリリングな感じもあったと思う。
 一方でこの映画は、父や娘もまたこの自殺という辛い現実となかなか折り合いを付けられないでいることを、しっかりと描き出していた。彼らの記憶は失われていないのである。そればかりか、むしろどこまでも鮮明なイメージとして彼らを苦しめるのである。だが、限りなく深刻であるはずの彼らの状況をも、野尻監督は常に喜劇的要素を見出しながら描いてみせている。

 長男がなぜか生命保険の受取人にソープランドの女の子を指定していたことを知り、その子を探しにひそかにソープランドを訪ねていざこざを起こしてしまう父親。そんなところとまったく無縁に生きてきた父親の戸惑いと、行き違うばかりの店員たちとのやり取りが可笑しい。
 一方、娘の富美は兄の最期の姿が忘れられず、同じように家族を自殺で失った体験者たちの集まりに行ってみる。お互いの気持ちを述べ合うことで、立ち直りのきっかけを模索する「グリーフケア」という集まりだったようだが、そこに参加しているいろいろな当事者の、当人は切実なのに周囲とは何となくズレてしまう様子が微妙な笑いを誘う。彼らは映画的には脇役なのだが、野尻監督はこうした人たちもしっかり造形することで、この中で初めて自分の追い込まれた心情を正直に吐露する気持ちになる富美の姿を、正面からしっかり捉えることに成功している。
 記憶を失った母親を筆頭に、彼らはみんな自殺という忌まわしい事実から目を背けて忘れてしまいたいのだ。だが、どう足掻いたところで逃げ続けることはできないし、嘘をつき通すこともできないことなのである。結局終盤で母親は記憶を取り戻し、彼らは三人三様の困難な過程を経てその先に歩み出して行くのである。映画の終わり近く、三人が霊媒師に来てもらい、長男を呼び出してもらうシーンは可笑しい。霊媒師が帰った後、母親に「あの人、イカサマね」と言わせるのが絶妙である。どんなに辛くても、もう進むしかないのだ。

 父親を演じたのが曲者・岸部一徳、母親が原日出子、娘の富美が木竜麻生というキャスティングだった。彼らは、叔父の大森南朋や叔母の岸本加世子、そして自殺した長男の加瀬亮も併せて、素晴らしいアンサンブルを作り出していたと思う。
 特に、瀬々敬久の「菊とギロチン」でヒロインの女力士・花菊を演じていた木竜麻生は、こちらの映画でも兄を自殺で失った妹という難役を鮮やかに演じ切っていた。キネ旬の新人女優賞を、断トツの票差で獲得したのは当然だと思った。この女優、何とも言えない芯の強さを感じさせて、その存在感はなかなか見事なものがあると思った。
(アップリンク渋谷、2月7日)
# by krmtdir90 | 2019-02-10 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「誰がための日々」

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 2016年の香港映画である。ウォン・ジョン(黄進)監督の生年は不明だが、長編第一作となる本作の撮影時に20代後半だったとどこかに書いてあった。脚本のフローレンス・チャン(陳楚珩)も写真を見ると同年代の女性だったらしく、これは香港政府が実施した新人発掘キャンペーンに応募した若い才能が、チャンスを掴んでデビューに結びつけた意欲作ということだったようだ。
 それにしても、娯楽性のまったくないこんな映画が大ヒットしたところに、香港社会が直面している様々な矛盾や困難が見えるように思われて印象に残った。香港映画というのは従来、けっこう何でもありの多様な顔を持っていたようだが、その中でもこれは現在の香港が抱えている社会問題と正面から向き合おうとした、強い問題意識とテーマを内在させた映画だったのである。暗くて重くてほとんど救いがない現実を描いているが、そこにある多くの問題は香港固有の問題であると同時に、日本などにもストレートに結びついてくる普遍性を持っているものだと感じた。

 主人公のトン(ショーン・ユー/余文樂)は母親の介護に疲れ、事故で母親を死なせてしまったという設定になっている。裁判で介護上の責任を問われることはなかったが、彼自身は躁鬱病と診断されて精神病院に措置入院させられ、一年が経過して退院させられるというところから映画が始まっている。医師の説明の様子から、彼は決して治っているわけではなく、患者を適当に回転させたい病院側の都合だということが透けて見えている。
 こうなる前のトンは金融界で働くトップエリートだったようだが、要介護になった母親を施設に入れることはまったく考えず、みずから仕事を辞めて自宅で介護する道を選んだということのようだ。この時彼らの家族は、弟はアメリカにいて戻る気はなく、母親と不仲になっていた父親は、お金は入れるけれど家には寄りつかないという状況になっていて、トン以外に母親の面倒を見る人間はいなかったということだったようだ。そのことが、真面目なトンを必要以上に意地にさせてしまったということがあったのかもしれない。
 トンの退院時の引き取り人は、家族の支えが必要ということで父親のホイ(エリック・ツァン/曾志偉)が呼び出されている。二人はこれまでずっと没交渉だったわけで、様々なわだかまりもあるけれど、とにかく今後か一緒に生活するしか道がなくなってしまったということなのである。映画が描くのは、この二人の困難に満ちた「日々」である。

 ホイはトンを自分の住居に連れて行くが、その長屋のようになったアパートの狭小な部屋には驚かされる。古いビルのフロアを幾つもの空間に区切ってあるのだが、恐らく一つが4畳半ぐらいと思われる室内は、2段ベッドと最小限の生活用品を置いただけで足の踏み場もなくなってしまうのである。フロアに共同トイレとシャワーはあるようだが、調理設備はないのか、彼らの食事はいつも使い捨て容器に入った貧しい弁当のようなものばかりである。
 上に載せたフライヤーの写真がこの部屋を上から見下ろしたところなのだが、これが香港の最下層の人々が暮らしているスペースなのである。わたしはその実態をよく知らないが、日本でもドヤ(簡易宿泊所)と呼ばれるところが同じような状況になっているのではないか。この映画では、観光パンフレットなどで見かけるような香港の表の顔が映し出されることはない。どう足掻いたところで抜け出すことのできない、最底辺の「日々」を見詰めていくだけである。
 躁鬱病はなかなか完治する病気ではないから、この親子はもう二度とここから抜け出すことはできないのだろう。映画は、それぞれの事情を抱えた隣人たちの様子なども描いているが、彼らもまた出口なしの状況下にあるのは疑いのない事実なのである。

 この映画には安易な救いは描かれない。トンにとってもホンにとっても、事態は悪い方にしか転がって行かないように見える。特に躁鬱病のトンは、当人が必死になればなるほど周囲との齟齬が拡大していく感じで、どんどん追い込まれていく様子は見ているのが辛い。乗り越えられない格差や無理解による差別、誤解や偏見や一方的な思い込みといったもの、そうしたものに押し潰されていくしかない弱者の彼らとその心情を、この映画はとにかく丁寧に追いかけ、写し取ることだけに徹しようとしているのである。
 かつてトンの婚約者だった女性が新興宗教にはまっていて、彼女に追及される再会シーンも厳しいものだったし、追い詰められたトンが必死で心を落ち着かせようと、スーパーの店頭でチョコレートを貪り食ってしまうところなどは言葉を失う。この場面はスマホで撮影され、SNSで拡散されてしまうというのも、現代社会の匿名性の悪意をあぶり出していて容赦がない。
 結局、トンの躁鬱病が悪化していることがアパートの隣人たちに知られてしまい、二人は圧力を受けてここに住み続けることができなくなってしまう。映画はその後の二人がどうなるのかは描いていないが、ずっと離れたままだった彼らの気持ちが、最後に少しだけ通じ合っているように見えたのが、僅かな救いになっているということだったのだろうか。

 いずれにせよ、未来はまったく見えていない。そういう状態のまま、彼らがよく判らないどこかの水辺で呆然と座り込んでいるショットで映画は終わっている。解決の糸口はどこにも示されていないし、そんなものは恐らくないと言いたいのかもしれない。それでも、映画としてそういう登場人物のそういう事態を描くことには意味があるのだと、若いウォン・ジョン(黄進)とフローレンス・チャン(陳楚珩)は考えているのかもしれない。見詰められることで、彼らについて考えようという気持ちが観客の中に芽生えるかもしれないからである。
 日本からはなかなか見ることができない、香港という町の影の部分を描きながら、それが日本でも案外身近なところと結びついているのではないかと感じさせる映画だった。
(新宿K's cinema、2月5日)
# by krmtdir90 | 2019-02-09 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「夜明け」

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 描き過ぎないことが美点となるような映画作法があることは理解するが、それは描かれない部分が曖昧なままでいいということではない。説明過多を避けようとするのはいいが、それは説明できないままでいいということではないし、筋の通らない説明を容認しているということでもない。説明不足なところを推測で埋めていったら、結局きわめて説得力に欠けるストーリーしか見えてこなかったというのでは困るのである。
 監督・脚本の広瀬奈々子は、是枝裕和・西川美和監督の助監督を長く務めてきた人らしく、両監督が立ち上げた「分福」という製作者集団から初めてデビューする監督だったようだ。両監督の「愛弟子」という言葉がどこかに使われていたと思う。だが、こういう言葉を敢えて使わなければならない売り方というのは、ちょっと警戒した方がよかったのかもしれない。要するに思わせぶりなだけで、「愛弟子」と言うには明らかに力不足な映画だったと思う。
 「台北暮色」のホアン・シー(黃熙)監督が、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)とエドワード・ヤン(楊德昌)の「映画遺伝子を継ぐ」と言われていたのを思い出した。だが、こちらの場合は描き過ぎないことがストーリー展開に効果的に作用していたし、それを意図的な作戦として操っていることが理解されたと思う。広瀬奈々子監督の場合は、是枝・西川的な映画作法を追っていることは判るのだが、それを自身の作品として構成していく戦略が明らかに不足していて、少なくともこのオリジナル脚本の甘さに関しては根本から再考する必要があると思ったのである。

 未明の薄暗がりの中で一人の青年(柳楽優弥)が橋の上をウロウロしている。ただし、このシーンは最初から明度が不足していて、何が起こっているのか観客にはよく判らないのである。と言うか、ここで描かれて(設定されて)いたものは後からそれなりに説明されていくのだが、それがまったく腑に落ちるものになっていないのが問題だったのだと思う。設定に説得力が欠けていたのだ。
 実は、青年はこの時ここで死のうとしていたというのだが、彼がいた橋はそれほど高いものではなかったし、川も急流ではなく水深もたいしてあるようには見えなかった。つまり、死ぬつもりだったと後で説明されても、なるほどと思わせられる条件はなかったように思えるのだ。その本気度が疑われるような描き方しか、この映画はできていなかったということである。とにかく全体に話がうまく進み過ぎているという印象で、案の定と言うべきか、このあと彼は助かってしまい、結局監督に都合のいい設定を作っただけだったのではないのかと感じられてしまった。
 彼が死のうとした理由についても後で明かされるのだが、これもまたあまりよく判るものにはなっていなかった。店長と折り合いが悪かったということらしいが、それで彼の行動がすべて説明できるようにはなっていなかったということである。
 まず、彼が関わったファミレスの火事についてだが、ガス栓を開けたのが彼だったのかどうかは明確にされてはいないが、彼はガスが漏れていたことは知っていて、それで店長が死ねばいいと考えていたのは確かなのだから、彼の中には殺意があったと言っていいはずなのである。しかし、この間の彼の思いについてはこの映画はまったく描けていないと思う。少なくとも、火事の後で彼は警察の取り調べを受けたはずだし、そこでは自分に不利になるようなことは必死で隠し通したはずだからである。このあたりの経緯に触れないのでは、死のうとしたという彼の心理は理解できないし、納得できないことになってしまうのである。
 店長は火事の後ずっと昏睡状態になり、それがつい最近、青年が見舞いに訪れる寸前になって亡くなったという展開も、いかにもご都合主義と言わなければならない。彼は店長のことを長い間無視してきたのであり、それがここに来て急に見舞おうと考えたのはどういう心の動きだったのか、そしてその店長の死を知ったことが、彼の中で死のうという気持ちに一気に結びついてしまったのはどうしてなのか、このあたりのことがこのシナリオは説明できていないと感じるのである。

 最初のところで、青年が手に持った花束を川に投げ込むシーンがあった。何の花束だったのか最後まで説明はなかったが、あれは見舞いに持って来て不要になってしまった花束以外には考えられないだろうと思う。だが、不和であった店長と青年の関係を考えると、この見舞いに花束を持参する気になる青年の心理がよく判らないし、店長の死を知った後どこで酒を飲んだのか知らないが、その間ずっとその花束を持ち続けていたというのも不自然という気がするのである。一応は結びついても、そこに微妙な無理が感じられるというところが、この映画にはたくさんあったような気がする。
 翌朝、この川に一人の中年男(小林薫)が釣りにやって来て、橋の下(水際)に倒れている青年を発見するという設定も、いかにも都合良く作られた感じがして鼻白むのである。青年は水中に飛び込んだはずだが、自らの意思で溺れることはできなかった、結局自力で川岸にたどり着いてしまったということだったのか。いずれにせよ、彼は特にどこか傷を負っているということもなく、男に助けられている一定時間だけ意識を失っていてくれればよかったということなのだ。こんなふうに、すべてが予定通りの展開だったのではないかと見えてしまったのである。
 この中年男が取った行動も、少し考えるときわめて不可解なものと言わなければならないのである。普通なら、こういう状況にぶつかれば警戒心も働くだろうし、あまり関わり合いにはなりたくないと思うのではないだろうか。それでも見つけてしまった以上、とりあえずは警察を呼ぼうと考えるのが筋なのではないか。ところが、この男にはそういう発想はまったくなかったらしく、この素性の知れぬ青年を自宅に連れ帰ってしまうのである。なぜそんなことをしたのか理解できないし、納得できる説明をこのシナリオはできていないと思う。このあとも、布団に寝かす際にびしょ濡れだったはずの青年の衣服はどうしたのかとか、医者に診せた形跡はないがそれでよかったのかとか、納得できないことがいろいろと出てきてしまうのである。
 結局のところ、このあとこの中年男と青年との奇妙な関係を描くのがこの映画の主眼になっていくのだが、その難しい設定を作るために広瀬奈々子監督は乱暴な作為を連続させ、辻褄合わせのための無理を重ねてしまったような気がして仕方がないのである。ストーリーというのは確かに作りものだけれど、なぜそういう作りものが必要だったのか、そこにどうしても描きたかった必然が含まれていなければ空疎なものにしかならないし、作りものという側面だけが際立ってしまうことになるのではないだろうか。
 当人はそれでいいと思っているのかもしれないが、いくら是枝・西川風の撮り方を真似しても、観客としてはそんなものに付いていくことはできないのである。
(MOVIX昭島、2月4日)
# by krmtdir90 | 2019-02-08 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「愛と銃弾」

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 始まってすぐに「何だよ、この映画は」と思った。何やら訳アリな感じの葬儀が行われていると思ったら、あろうことか、棺桶の中がアップになって、気持ち悪いメイクの死体の男が突然歌い出すんだから驚いた。「なぜ俺が撃たれなくちゃならなかったんだ?」などと不満を訴えている。いくら奇想天外にしてもほどがある、ちょっと悪趣味が過ぎるんじゃないの、などと思っていると、今度はいきなり5日前まで遡って、葬儀とは何の関係もなさそうな小規模旅行ツアーの面々の歌とダンスが始まって、突如ミュージカル風の場面が延々と展開することになる。これもミュージカルだと断言するのは憚られるような、せいぜいミュージカル「風」といったあたりが妥当という感じの、何とも言いようのない胡散臭い雰囲気が漂うのである。
 「何だよ、この映画は」という気分は、このあともずっと継続することになる。キャッチコピーが「それはノワールか、アクションか、ロマンスか、いや、ミュージカルなのか?」となっているのを帰ってから知った。まさかのミュージカルと言うしかないが、全体としては完全にぶっ飛んだコメディとでも言った方がいいような気がした。監督のマネッティ・ブラザース(マルコ&アントニオ)は「新感覚」とか「才気溢れる」といった言葉で形容されることが多いようだが、何でもアリのハチャメチャを前にして、実は周囲が形容に困ったというのが実態だったのではないだろうか。いや、なんともはや、とんでもない映画に当たってしまったようなのだ。

 舞台は南イタリアのナポリ。見えている山が有名なヴェスヴィオ火山で、ああ、こんな山容だったのかとちょっと意味もなく感動してしまう。この町で、水産市場を一手に仕切るマフィアの「魚介王」ヴィンチェンツォが敵対組織に襲撃される。この時は危ないところを助かるが、こんなふうにいつも命を狙われている生活に嫌気がさしていた彼は、妻のマリアの提案を受け、いっそ殺されてしまったことにして嘘の葬儀を出し、その後はどこかで二人楽しく余生を過ごそうと画策する。ところが、病院で偽装工作をしている最中に、生きている姿を関係ない看護婦のファティマに見られてしまう。彼は、手下の殺し屋コンビ「タイガー」のチーロとロザリオに命じて彼女を消しに行かせるが、このチーロとファティマが実はかつての恋人同士だったことが明らかになって、チーロは仲間を裏切りファティマと逃亡するという、何ともベタな展開が待っているのである。あとはもう、逃げる二人と追う殺し屋たちという構図で、映画としては完全にブレーキの壊れた、ノンストップのやりたい放題といった展開になっていく。ようやるわい、という感じ。
 演じている役者がみんな(あまり名前を書き抜く気になれない)濃厚なドヤ顔で、きわめてアクの強い演技をこれでもかと連発してくるので、感覚が合わなければまったくついて行けないことになってしまうだろう。わたしは歳を取るとともに許容範囲が広がった感じなので、まあ、それなりに面白く見ることはできたと思うが、こういうのが好みかと聞かれれば、とても肯く気にはなれないというのが正直なところである。国内ではけっこう評価も高く、ヒットもしたというのだが、イタリア気質というのは簡単には理解できないものだと思った。
(新宿K's cinema、1月30日)
# by krmtdir90 | 2019-02-02 11:47 | 本と映画 | Comments(0)

映画「こんな夜更けにバナナかよ/愛しき実話」

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 この映画化は早くから気になっていたが、見に行くかどうかずっと迷っていた。非常に難しい題材だし、数年前に原作を読んでいるので、たぶん見ればいろいろ気になるところが出てきて、結局失望することになるんじゃないかという気がしたのである。昨年末の封切りだから、そろそろ終わりも近付いている感じもあったので、やはり一応(全然期待はしないで)見ておいた方がいいかなと思ったのである。

 実は数日前、書店の文庫本の平積みの中に、増刷されたらしい渡辺一史の原作本と並んで、今回の映画化のシナリオに基づくノベライズ本が並んでいるのを発見したのである。気になったのでちょっと立ち読みしてみたら、巻末に当の渡辺一史が映画化の経緯について解説した文章が載っていた。それによるとこの映画は、企画がスタートして脚本ができた段階で、鹿ボラ(鹿野のボランティアだった人たち)や渡辺一史が納得できないところについて申し入れを行い、最終的に彼らが監修するようなかたちで完成に漕ぎ着けたものだったことが判った。
 それなら安心して見られるかなと思ったのである。実際、とても良くできた映画だったと思う。筋ジストロフィーという不治の難病にかかった主人公を描くのだから、どうしてもその闘病記になってしまう側面を避けることはできないが、原作が鹿野靖明の許に集まったボランティアに視点を据えたことを踏襲し、鹿野の生き方に対する初々しい驚きや違和感なども大切にしながら、身障者に対して一面的な見方に陥らないように、全体として非常に正直な気分で人物を捉えようとしていたのが良かったと思う。結果的に、終始明るく、コミカルな雰囲気さえ漂うような温かい眼差しの映画に仕上がっていたことに驚きを感じた。原作に負けないくらいの出来の、大満足の映画だったと思う。

 ただ、一点だけ納得できなかったことがあったので、それを(それはかなり重要なことなので)最初に書いておきたいと思う。それは「愛しき実話」というサブタイトルのことである。
 なぜこんなつまらないサブタイトルを付けてしまったのだろう。と言うか、渡辺一史の原作には安堂美咲も田中久も出て来ないのだから、これを「実話」と言ってしまったら嘘になってしまうのではないか。この二人は映画化のために創作された登場人物であって、この映画にはこれ以外にも原作に改変を加えられた箇所がたくさんあったようなのだ。例えば、鹿野を取り巻くボランティアは実際にはもっとたくさんいたのに、映画ではそれをかなり少人数に集約して描いているのである。それは基本的に、映画にするにあたって混乱を避けるための当然の改変だったと思う。
 渡辺一史自身が言っていることだが、映画は原作とは別物なのだから、原作に映画としての解釈や改変が行われることを問題視しているわけではない。と言うよりも、この二人の人物を新たに登場させたことを始めとして、この映画は500ページを超える大部の原作を前にして、その核心を掬い上げるために非常に効果的な創作を加えていたと思うのである。それは改変には違いないのだが、事実(実話)とは適切な距離を置くことによって、この上なく魅力的で印象的なストーリーを展開して見せることができたと思ったのである。
 だから、つまり、こんなに成功している映画化なのに、この上「愛しき実話」などという物欲しげな但し書き付け加えることは、まったく余計なことであり、野暮なことだったのではないかと言いたいのである。

 内容についてもちょっと触れておく。ボランティアとして安堂美咲と田中久という人物を創作したことで、この映画は身障者に対する世間一般の典型的な反応を正直に可視化することに成功したのではないか。それはこの映画の成功の核心だったと思う。
 最初はまったくの成り行きから鹿野のアパートを訪れた美咲が、ボランティアに対してあまりにワガママ勝手に振る舞っている鹿野に向かって、「鹿野さんて何様なの?」「身障者ってそんなに偉いの!」と言い放ってしまうところは、関係ない場所にいた健常者の率直な違和感を表していて(言葉は悪いが)爽快だった。この正直さは大切なもので、こういうところがあったから、彼女は鹿野の思いをどんどん理解して共感できるようになっていったのだと思う。
 田中の方はこれとは正反対で、人のためになりたいという思いばかりが先行して、鹿野に対しても「身障者だから」という前提なしに受け止めることができない。可哀想な身障者だから助けてあげなければという、これも関係のない健常者が陥りやすい一つの典型的な対応だと思う。美咲が鹿野と触れ合うことで自分の世界をどんどん広げていったのに対し、田中はいつまで経っても鹿野の前で立ちすくむばかりで、これが自分だと自信を持って言えるものをなかなかつかみ取ることができない。最後にようやく脱皮できるところは若干甘かったと思うが、全体をエンターテインメント映画として性格づけている以上、これはこれで良しとしなければならないだろう。
 この二人を不器用な恋人同士に設定し、一度は気持ちが離れながら、最後には鹿野の存在を契機にして一緒になっていくという、ちょっとベタだけれど、実話ではないラブストーリーを絡めたこともこの映画の成功要因の一つになっていたと思う。もちろん、渡辺一史が原作に詳細に書き込んだ鹿野靖明の生き方が、映画の中にきちんと描かれていたことが最大の成果だったのは言うまでもないことである。
 監督:前田哲。鹿野靖明:大泉洋、安堂美咲:高畑充希、田中久:三浦春馬。
(MOVIX昭島、1月29日)
# by krmtdir90 | 2019-01-31 17:58 | 本と映画 | Comments(0)


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