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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
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映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」

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 インド映画(ボリウッド映画)の底力を感じさせる一本だった。上映時間159分、最初から最後まで娯楽映画に徹しているのが素晴らしく、観客を楽しませるためなら何でもありという展開から、一方に現代的なテーマをきっちりと感じさせつつ、有無を言わせぬ感動のエンディングまで持って行ってしまうところが見事だと思った。

 昨年公開の映画「英国総督 最後の家」に描かれていたことだが、1947年、当時のインドがイギリスの植民地から解放される時、宗教対立からインドとパキスタンに分離して独立するしかなかった歴史が背景にある。ヒンドゥー教のインドとイスラム教のパキスタンということだが、両国は以後、様々な場面で対立・衝突を繰り返し、国家間の融和を図ることはもはや政治的にはほとんど不可能な状態に陥っているということなのである。
 そういう困難な状況を百も承知の上で、この映画は厳しい政治対立や宗教対立の隙間をくぐり抜け、印パ両国の大衆の心をハートウオーミングなストーリーで鮮やかにつないで見せたのである。2015年に両国でこの映画が公開されると、批評的な賛否はあったものの、観客にはまったく抵抗なく受け入れられて、圧倒的な大ヒットを記録したらしい。これは何とも痛快な出来事と言うべきで、この映画を安直だとか甘いとか言って批判するのは簡単だが、そんなことをしても何も建設的なことはないということなのである。観客としては、大いに笑い、ハラハラし、涙をこぼして楽しめばよかったのであり、それがすべてだったのである。こういう単純明快な映画があっていいということなのだし、その影響力をあまり低く見積もらない方がいいということなのだと思う。

 冒頭、雪を戴いた山岳地帯の美しい映像に驚かされる。ここはパキスタンなのだが、印パ両国の北部にはこういう素晴らしい自然が広がっているというのを初めて知った。この山々に囲まれた小さな村にシャヒーダーという女の子が暮らしている。この子は幼い時から声を出すことができず、家族は村の長老の勧めに従い、インドのデリーにある「霊廟」に願掛けに連れて行くことにするのである。調べてみるとこの廟はニザームッディーン廟と言い、元々はイスラムの霊廟だったが、現在は非イスラムも含めて多くの人々が参拝に訪れる有名な聖地になっているらしい。
 誰が連れて行くかとなった時、父親は兵役経験があるのでビザが取得できないというようなところに両国の対立の深さが窺えるのだが、結局、母親に連れられてシャヒーダーはデリーに向かうことになる。そして参拝を終えた帰り道、夜行列車が国境検問所の手前でしばらく停車した時に、一人だけ目を覚ましたシャヒーダーが列車を降りてしまい、その間に列車は発車して国境を越えて行ってしまうのである。彼女は迷子になってしまったのだが、両国の関係が険悪なため、母親の必死の訴えも聞き入れてもらえず、捜索も思うに任せないまま時間が過ぎてしまう。

 あらすじをたどり始めると、それでなくても盛り沢山なストーリーだから、何ページあっても終わらなくなってしまいそうである。この後もいろいろあって、とにかくシャヒーダーはパワンという青年に助けられ保護されることになる。パワンはあまり頭は良くないが、純情で正義漢、正直者で底抜けのお人好しと設定されていて、ヒンドゥー教のハヌマーン神というのを熱烈に信仰しているのである。このハヌマーン神というのは、インド神話にある猿族から出た神のようで、パワンが実際の生きた猿や猿の顔をした像に祈ったりするシーンが出てきていた。題名になっている「バジュランギ」とはこのハヌマーン神のことで、原題の「Bajrangi Bhaijaan(バジュランギ・バイジャーン)」というのは「ハヌマーンの兄貴」(もちろんパワンのことを指している)といった意味になるらしい。
 インド映画だから、恒例?の歌とダンスも各所に散りばめられているが、このハヌマーンの兄貴・パワンが登場して迷子のシャヒーダーと出会うシーンのそれは圧巻だった。パワンを演じたサルマン・カーンという俳優は、インドでは誰一人知らない人はいないという人気スターだったようで、たぶん彼の登場にはそれなりの鳴り物が必要だったということだろうし、この歌とダンスの迫力で客席は大いに盛り上がったのだろうと想像された。これまで肉体派のアクションスターとして活躍してきた彼が、この映画でまったく異なる心優しき青年を演じて、インドとパキスタンの架け橋となるような行動を見せたことが、ファンの琴線を大いに刺激したということもあったらしい。

 このパワンに関しては、婚約者ラスィカー(カリーナ・カブール)やその父親との経緯とか、まだいろんな要素が描かれているのだが省略する。ストーリーの要点は、シャヒーダーが口がきけないため彼女の身の上が判らないということである。まさかパキスタンから来た迷子だなどと誰も想像できなかったということで、それが明らかになっていくところの周囲の慌てぶりが面白い。ヒンドゥーに対する信仰が浸透しているところに、思いがけず無邪気なイスラムの子どもが紛れ込んでしまったということで、ヒンドゥーとイスラムの習慣の違いなどが次々に問題になってしまうのだが、そうした障害を、右往左往しながらコミカルな笑いで越えていくところが観客の共感を呼んだのだろう。シャヒーダーに扮した6歳の少女ハルシャーリー・マルホートラの可愛さが特筆もので、そのくるくる変わる愛らしい表情にすっかり魅了されてしまったということもあったと思う。
 パワンは大使館を通じてシャヒーダーをパキスタンに返そうとするが、折から反パキスタン運動の激化により大使館が閉鎖されてしまい、その道は閉ざされてしまう。この後もいろんなことがあるのだが省略する。結局パワンは、パスポートもビザもない状態で密かに国境を越え、シャヒーダーをパキスタンの親許に連れて行くことを決意する。いかにも無謀な展開と言うしかないが、すべてはハヌマーン神の思し召しなのであり、そう言われてしまえば何も言えなくなってしまうということなのだろう。それに、何よりも大人気スターのサルマン・カーンがやることなのだから、観客に文句などあろうはずがないのである。

 以後も波瀾万丈の展開があり、シャヒーダーは無事両親の許に届けられ、スパイ容疑でパキスタン警察に捕まっていたパワンも何とか釈放され、両国の人々が集まった国境検問所を彼が越えようとする時、見送りに来たシャヒーダーが突然「おじさん!」「ラーマ万歳!」と声を発するラストまで、まあ、言ってしまえばすべてが予想通りの、約束されていた展開と言っていいのだが、観客としてはこれで、何とも言えない満足感に満たされたのだからそれでいいということなのである。こんな豊かな気分にしてくれる映画はそうあるものではない。
 現実の世界には様々な対立がある中で、庶民のあり方として、不信ではなく信頼の素晴らしさを歌い上げて見せたところ、そういう映画が多くの観客を感動させ受け入れられたところに、映画というものの持つ大きな力を感じたのである。
(MOVIX昭島、1月26日)
# by krmtdir90 | 2019-01-30 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「バハールの涙」

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 イラク北部のクルド人自治区で、ISと戦っている女性たちを描いた映画である。この地で実際に起こった出来事を踏まえているというが、映画としてはドキュメンタリーではなく、あくまでも事実に即して作られたドラマということだった。ISと戦う抵抗組織には様々なものがあったようだが、映画はその中から女性武装部隊「太陽の女たち」(この名前が映画の原題となっている)のリーダーであるクルド人女性のバハールと、紛争地で取材を続けるフランス人の女性戦場記者マチルドを中心に据えてストーリーを組み立てている。
 監督・脚本のエヴァ・ウッソンはフランス出身の女性で、女性監督が女性を主人公にして映画を撮るという点ではあの「マチルド、翼を広げ」と同じなのだが、その時彼女がこういうきわめて困難な問題(状況)を題材を選んだことに、ちょっとした驚きを感じたのは事実である。いま現にISの脅威にさらされているところでは、女性も男性と同様の問題意識を持つことが必要になるだろうし、その暴力をどう受け止め、どう反撃態勢を作っていくのかというところでは、女性はみずからが女性であることをいやでも意識するしかないということになるのだろう。女性は、男性とは異なる感性に基づいた独自の論理を持つことが必要になっているのだ。そのことを、この映画は描こうとしているのではないかと思った。
 バハールを演じたのはあの「パターソン」(2016年、監督:ジム・ジャームッシュ)で妻のローラをやったイラン出身のゴルシフテ・ファラハニだった。今回は汚れ役だったが、その美しさはどんな役であっても際立っていると思った。一方、エマニュエル・ベルコが演じたマチルドの方は、爆弾の破片で片目を損傷したという設定になっていて、黒い眼帯姿がちょっと異様な印象を与えているが、取材する立場の彼女を入れたことで、彼らが現在置かれている厳しい状況や、バハールら「女たち」が銃を手にするに至った背景が上手に見えてくる仕掛けになっていた。

 映画は、ISと抵抗勢力とが至近距離で対峙し、時折散発的な戦闘も起こるような緊迫した現在の状況をいきなり提示するのだが、その一方でこうした事態の始まりと一連の経過について振り返り、バハールらが体験した苦難の数々をフラッシュバックさせるかたちで明らかにしていく。
 イラク北西部のシンジャルという山岳地帯の村々は、クルド人の中でもヤズディ教という独自の宗教を持つ少数民族が暮らしている地域だったようだ。2015年8月、ISが突如この一帯に侵攻し、ヤズディ教徒の一掃を図ったのだという。一日のうちに何十万という住民が故郷を追われ、逃げ遅れた多くの男性が殺害され、残った女性や子どもたちはすべて拉致され連れ去られてしまったらしい。その後、女性はISの性奴隷として売買されたり強制結婚させられたりしたといい、少年はISの兵士となるための養成機関に入れられてしまったようだ。その数は7千人以上と言われているが、実際のところはよく判っていない。だが、この地でヤズディ教徒たちが過酷な迫害に遭ったことは事実であり、昨年ノーベル平和賞を受賞したヤズディ教徒のナディア・ムラドさんが遭遇したのが、この出来事だったのである。
 映画の主人公バハールも、これに巻き込まれて幸せな家庭を破壊された女性と設定されている。彼女は夫を殺され、息子をISに連れ去られて、みずからも奴隷として拘束され、筆舌に尽くしがたい屈辱的な日々を送ったことが描かれている。ただし、この映画ではISの暴力や残虐行為を直接的に描くことは避けていたようで、いくらでも刺激的にできたところをそうしなかった製作姿勢は共感できるものだったと思う。現実の強烈さに依拠し過ぎないことで、過酷な運命を受け止めるヤズディの彼女たちの内面が推測できるようになっていたと思う。それは、想像され実感されるような描き方になっていたと思う。

 ISに拘束され絶望的な状況に耐えていたバハールは、ある時偶然に、ISの奴隷となった女性たちを救援する組織が存在していることを知るのである。彼女はひそかにそこと連絡を取り、その援助を受けて命懸けの逃亡を決行することになる。そのスリリングな一部始終が描かれているが、「人生で最も重要な30メートル」というような印象的なセリフもあって、文字通り生死の境目での決死の逃避行だったことが判るようになっていた。
 映画は最後に、彼女たちを中心とする部隊がISの占拠する建物を攻撃するところを描いている。戦闘の中で死者も出るが、彼らはISを撃破して捕らえられていた少年たちを救出し、バハールは連れ去られていた息子と再会するのである。
 バハールが銃を取った最大の理由は息子を救いたいという思いだったようだから、息子を取り戻すことができた彼女はもう兵士を辞めるのかと言えばそんなことはない。ISの奴隷とされた女性たちが武装部隊に身を投じた理由は、もう一つあったように思われる。ひとたび性的虐待を受けてしまった女性は、もう元の人間関係に戻ることはできなかったということもあったように見えるのである。彼女たちは、弱者のまま被害者という位置に甘んじ続けるか、さもなくばその位置から飛び立つ以外になかったのだ。「被害者でいるより戦いたい」というのが彼女たちの始まりだったようだが、そこから先の彼女たちの強さは目を見張るばかりである。
 「奴らは私たちを強姦する、私たちは奴らを殺す」という彼女たちのスローガンは強烈だ。ヤズディ教徒の彼女たちに暴虐の限りを尽くしたISの男たちは、「女に殺されたら天国に行けない」というイスラムの迷信を信じて、「太陽の女たち」のことを非常に恐れていたらしい。われわれからするときわめて特殊な状況を描いている映画だが、映画がそういうところを明るみに出し、リアルに眼前させてくれるというのは凄いことだと思う。
 2018年、フランス・ベルギー・ジョージア・スイスの合作映画。
(MOVIX昭島、1月25日)
# by krmtdir90 | 2019-01-29 22:32 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ライ麦畑の反逆児/ひとりぼっちのサリンジャー」

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 わたしはすっかり歳を取ってしまったが、高校生の時に「ライ麦畑でつかまえて」を通過したことが、その後のわたしを決定づける非常に重要な出来事だったと思っている。人はみんな、そういう特別な体験と言うべき本や映画を抱いて成長し、その先の年齢を重ねていくことになるのだろうと思う。若い時に「ライ麦畑…」に触れているかどうかは、その人が幾つになってもその人を判断する大きな基準の一つになっていると思う。かつて「ライ麦畑…」に夢中になったことがあるというのは、幾つになっても消えることのない「刻印」になっているということなのだ。

 サリンジャーが亡くなったのは2010年1月だが、この映画はその死後に出版された伝記「サリンジャー/生涯91年の真実」(ケネス・スラウェンスキー著)の映画化なのだという。この伝記をわたしは読んでいないので、「ライ麦畑…」をきわめて重要な「体験」と考えるファンとしては、この映画は何を置いても見なければならない映画だと思っていた。
 原作となった伝記がサリンジャーの実像をしっかり捉えていたこともあると思うが、映画は予想以上に堅実な作りで、若き日のサリンジャーの姿をくっきりと描き出していたと思う。いろいろと劇的にできる要素はあったと思うが、そうした誘惑に惑わされず、粉飾を避けてあくまで地味な描き方に徹したことが、逆に彼のユニークな人物像を際立たせる結果になっていて面白かった。

 原作がそうだったようだが、この映画のいいところは、サリンジャーがまだ無名で何者にもなり得ていなかった時代のことを、様々なエピソードを通して丁寧に描いてくれたことだったと思う。
 彼の父親はチーズや食肉の輸入業で成功し、一代で財をなしたユダヤ人だったようだが、その子どもとして生まれたサリンジャーはかなり豊かな生活を享受できるところにいたのである。彼は、太平洋戦争が始まる直前のニューヨークで、富裕層が出入りする高級ナイトクラブを遊び歩いたりしていたらしい。家業を継がせようとする父親への反撥もあって、彼は幾つかの高校や大学に入退学を繰り返したあと、コロンビア大学の創作文芸コースに入って、彼の才能を最初に見出し、彼の良き理解者となるウィット・バーネット教授と出会うのである。
 この師弟関係が非常に興味深かった。ここに描かれた若きサリンジャーを見る時、「ライ麦畑…」の読者はどうしてもそこにホールデン・コールフィールドの面影を探してしまうところがあると思うのだが、邦題になっている「反逆児」という言葉が適切かどうかは判らないが、野心を持った多くの作家志望の若者たちの中で、際立って自我が強く扱いにくそうなサリンジャーを、バーネット教授は上手にあしらいながらやる気を引き出していたように見える。教授自身が編集長を務めていた文芸誌「ストーリー」が、サリンジャーの最初の短編小説を掲載したのは1940年のことで、彼が25ドルの稿料を小切手で受け取るシーンが印象的に描かれていた。これできっかけを掴んだ彼は、翌41年には「ニューヨーカー」誌への小説掲載が決まりかけるが、12月、太平洋戦争勃発の影響で掲載は無期延期となってしまうのである。
 1942年、23歳で兵役に就いたサリンジャーは、ヨーロッパ戦線でノルマンディー上陸作戦に参加するなど、多くの激戦で多数の死者が出る中を何とか生き延びることになる。戦争末期にはナチの強制収容所の解放に立ち会い、その惨状を目の当たりにしたことも重なって、帰国後は深刻なPTSDに悩まされることになった。彼の初めての長編「ライ麦畑でつかまえて」が世に出たのは1951年だったが、主人公ホールデン・コールフィールドのイメージが初めて彼の中で胚胎し、そのイメージを苦しい戦場での体験の中で育て続けたことが描かれている。
 この映画は「ライ麦畑…」が形を取るまでの知られざるエピソードをいろいろと描いているが、ファンとしてはそういうことに触れられただけで胸が高鳴るところがあり、なるほどなと納得させられることも多かった。彼が作家を志して学び始めた頃、劇作家ユージン・オニールの娘で奔放なウーナと恋に落ちるということがあったようだが、サリンジャーの従軍中に彼女はチャーリー・チャップリンと結婚してしまい、そのスキャンダルを知った彼がショックを受けるという事件も描かれていた。また、戦争から帰ってPTSDと闘っていた彼が、心の平安を得るために東洋思想を学び、執筆に向かう意欲を取り戻すために、座禅や瞑想の方法を取り入れていたことなども描かれていた。

 「ライ麦畑…」が出版された前後から、サリンジャーが世間との交わりを断ち、1953年にはニューハンプシャー州コーニッシュの山中に移り住んで、完全な隠遁生活に入ったことはよく知られたことである。彼がどういうことを考えてそうしたのかは判らないが、本当のところがどうであれ、映画はこの後半生にはあまり踏み込むことはせず、以後については駆け足でたどるにとどめている。この映画にとっては、これが正解だったと思う。
 先日公開された映画「ライ麦畑で出会ったら」がそのあたりのサリンジャーを描いていたことを思い出すが、これに対してこちらの興味の対象は、やはりあくまで若い時代のサリンジャーであり、彼を透かして見えてくるホールデン・コールフィールドの姿だったのだと思う。ホールデンの物語がどのようにして生み出されたのかというところに、この映画のストーリーはすべてが集約されていたと思った。そうした意味ではこの映画は非常に成功していたし、興味深い様々なシーンを見せてくれていたと思った。
 2017年・アメリカ映画。監督・脚本:ダニー・ストロング、サリンジャー役:ニコラス・ホルト、バーネット教授役:ケヴィン・スペイシー。
(新宿シネマカリテ、1月24日)
# by krmtdir90 | 2019-01-27 22:07 | 本と映画 | Comments(0)

映画「ヒューマン・フロー/大地漂流」

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 監督(製作・撮影も)のアイ・ウェイウェイ(艾未未)は北京生まれの中国人現代美術家・建築家で、北京オリンピック(2008年)のメインスタジアム「鳥の巣」の設計に参加して一躍有名になった人らしい。人権問題などに取り組む社会運動家としても知られ、その反体制的言動によって中国当局から何度も圧力や妨害を受け、2015年以降はドイツのベルリンに拠点を移して活動しているのだという(したがって、本作は2017年のドイツ映画である)。
 この映画は、ヨーロッパで暮らすことになったウェイウェイが、いま現地で大きな問題となっている難民の状況を理解したいと考えたのが始まりだったようだ。彼は最初、ヨーロッパを目指す難民の重要な通過点(入口)となっているギリシャのレスボス島を訪ね、ここを皮切りに世界中の難民キャンプを片っ端から回って撮影し続けたらしい。彼の行動力は目を見張るばかりで、結局23カ国40もの地域でカメラを回し、現在の難民問題の最前線となっている場所をほとんどすべて網羅してみせている。まさに圧倒的としか言いようのないスケールのドキュメンタリー映画なのである。何て語彙力がないんだと感じるが、とにかく凄い映画だった、これは。

 こうした映画の感想として、映像の美しさのことを最初に言うのはどうかと思うが、事実としてそれが一番大きな驚きだったのだから仕方がない。ドローンを飛ばして、上空から全体像を見る映像が効果的に使われていた。冒頭、真っ青な海面を捉えた俯瞰映像の中を、豆粒のような白い鳥が翼を広げてゆっくり横切って行く、その先に難民を満載したボートが浮かんでいるのが見えてくる。このボートはレスボス島に到着し、彼らは救出されて見知らぬ土地に上陸していくのだが、陸にたどり着けなかったボートもたくさんあったことも触れられている。一連のイメージと字幕が難民の現実をいきなり提示するのだが、それら全体が、どうしてこんなに美しい映像で描かれているんだろうと感じたのである。
 以後、様々な場所で様々な難民の姿が捉えられていくことになるのだが、ウェイウェイ監督はまず何よりも、それをハッとするような美しい映像で画面に定着させようとしている(ように見える)のである。映し出される現実はきわめて過酷なものであり、そのほとんどは決して美しいものではないにもかかわらず、こういうふうに捉えることがウェイウェイ監督の姿勢であり宣言と言っていいのだろう。
 ウェイウェイ監督はこの映画で、難民問題の本質は何なのかを正面から問おうとしている。その問題意識は、彼自身が幼い時、父親が政治犯として追放され、僻地に強制移住させられたことで体験した差別や虐待に発したものであるようだ。彼はこの映画を、難民一人一人に対する共感と敬意からスタートさせているように見えた。彼は、とにかくみずからが難民の中に入って行って、その現実を実感することから問題の全体像を示そうとしているのだ。だからなのだろう、観客はこの映画によって、難民の置かれた状況を追体験させられているような感覚があったと思う。
 ここに並べられる映像は、データに収斂して安易な方向付けに向かうのを拒否している。あくまでもこれが現実なのだという、客観的で具体的なな事実を示すために用意されている。そのために、何よりも美しく、どこまでもくっきりした映像が必要だったのだと思う。これが映像の力というものであり、ドキュメンタリーというのは映像がほぼすべてなのだと感じさせられた。

 ナレーションはなく、代わりに字幕のかたちでいろいろな言葉が挿入され、様々な情報や考え方が映像と響き合うように置かれている。それらによって観客は、難民問題とはどのようなものなのかをゼロから学べるようになっている。
 難民とは、様々な理由で祖国を捨てなければならなくなった人々のことで、その数はいまも増え続けており、映画撮影時の2016年には6500万人、2018年には過去最高の6850万人に達したのだという。これは難民に関する情報の中で最も基本的なものだが、それは世界の全人口の1%に当たっているらしい。数字は数字にしか過ぎないが、それでも、これだけの人数が難民というかたちで「漂流」を余儀なくされているというのは驚くべきことである。
 難民問題は、何よりもまず人権問題であることが明確にされている。これほど多くの人々が安住の地を追われ、将来への見通しを持てないまま、人権の保障されない生活を続けていることに対して、人類はどうすればいいのかが問われているということなのだ。ひとたび難民となった者は、その後十年二十年という単位で難民生活を続けることになると説明されている。いま、難民を受け入れるか否かが各地で問われているが、それは人種や民族、宗教や政治的対立といった、人間の都合によって生み出された難民を、同じ人間として放置したままでいいのかという問いなのである。乗り越えなければならない問題は山積しているが、難民キャンプで生まれ、学校に行くこともできず、教育を受けられずにいる子どもたちの問題はその一例である。
 ウェイウェイ監督はこれらの問題について、決して声高に発言しようとはしていない。だが、彼が作る映像一つ一つの積み重ねによって、彼の主張は力強く伝わってくる気がした。すべての人々がただ人間らしく生きたいという願いを持っているだけなのに、その最低限の願いが叶えられないまま放置され、その状況が延々と広がり続けているのである。その理不尽さが画面からひしひしと伝わってきて、こうした映画としてはまったく思いがけないことだったが、途中で何度も涙がこぼれそうになって困った。多くの人が、いま見るべき映画だと思う。
(渋谷イメージフォーラム、1月21日)
# by krmtdir90 | 2019-01-26 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「マチルド、翼を広げ」

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 女性監督による母と娘の物語というのは、わたしのような男性観客からすると、果たしてどこまで理解できているのか自信が持てないところがあるような気がする。簡単に判ったような気にはなれない感じがあって、距離感として一番遠くにある映画と言っていいのかもしれない。決して取っ付きにくい訳ではないけれど、不用意に近寄っても思わぬ見落としがあるのではないかと不安が残るのである。ここにある女性同士の親密な気分には、男性を受け付けないバリアが張られているのではないかと思えてしまうのである。
 ことさらにこんなことを考えてしまうのは、この映画に描かれた母と娘の関係が、ちょっと考えにくいような不思議なリアリティと生々しさを持っていたからである。映画の設定としては、安易な共感や解釈を拒絶しているようなところがあると言ってもいいのではないか。こんなことは現実にあり得ないのが明らかなのに、そうした疑問を差し挟むのはこの母と娘の前では無意味なことになっていて、彼らはこの映画の中ではいとも自然な姿で存在しているのだった。

 主人公のマチルドは9歳の女の子で、精神を病んでいる母親とパリのアパートで二人暮らしをしている。この母親は情緒不安定で思い込みが激しく、突飛な言動で周囲を驚かせたり、ふっとどこかにいなくなってしまったりするので、マチルドはそのたびに彼女に振り回されている。マチルドは母親のことで頭が一杯のようで、通っている小学校では友だちもなく孤独な毎日を送っている。母親との会話はいつもすれ違ってばかりだが、彼女は懸命に母親を自分の許につなぎ止めておこうとしているように見える。離婚した父親はいまも彼らのことを気にかけていて、母親のことでマチルドが本当に困った時には、助け船を出しに来ることもあるようだ。
 こういう設定に説得力がないと言うつもりはない。しかし、普通に考えれば、この母親には日常生活を維持していく力はまったく欠けているのだから、日々の炊事洗濯や掃除といった雑事は誰がしているのかということが気になってしまうのである。見たところ室内は良く片付いているし、マチルドの服装なども身ぎれいで乱れたところはまったく見られない。こうしたことすべてを、9歳の女の子が全部気を遣ってやっていると考えるしかないのだが、さすがにそんなのは無理だろうと言いたくなるのである。こういうことはつまらないことかもしれないが、突っ込みどころとしては未処理の部分だということは言っておきたい。
 だが、その上で考えるのだが、恐らくこの映画はそうしたことを問題にする映画ではないのだと思う。とにかく、ここではそういう母と娘の生活が営まれていると設定したのであって、そのことを承認し受け入れて二人の関係を見ていくしかないということなのである。その前提に立って、マチルドと母親はお互いのことを深く愛しているというのが事実なのであって、それで一向にかまわない映画と見なければならないということなのである。
 それは、映画の途中で喋るフクロウが登場してくることともつながっている。喋るフクロウなどもちろん現実にはあり得ないし、それは説得力がどうとか言う問題ではないはずである。フクロウの言葉はマチルドだけに聞こえ、母親や他の人には聞こえないという設定になっていたが、このフクロウが母親からのプレゼントだったというのも、映画の展開の中では大きな意味を持っているように思われた。フクロウは母とマチルドの間の断絶を埋め、相互の愛情を見えるものにする橋渡し役を務めるのである。孤独なマチルドの友となり、心の支えとなっていくのである。

 こうしたことを見ると、この映画はリアリティとか説得力とかを云々するものではなく、ファンタジーとして考えるしかない設定と展開を持っていることが判る。マチルドが水の中に横たわっている(沈んでいる)イメージが繰り返し現れるのもそういうことだし、最後に彼女が身を起こして水中から出るイメージが置かれているのも象徴的である。母と娘の関係というのはよく判らないが、娘からすると母親の存在は絶対的で理解し難いところがあり、それに完全に囚われていながらも、必死で母親と共感しようとし、自分の方に向かせようとしているのが9歳のマチルドの姿だったのだろう。フクロウはそんなマチルドにつかわされた応援者であり庇護者だったのだ。
 映画の後半になって、母親の精神状態はさらに悪化し、マチルドの努力でもどうしようもないところまで追い込まれてしまう。結局、父親が助けに入って母親を病院に入院させ、マチルドは彼の許に引き取られることになるのである。マチルドは、ずっと一心同体のように生きてきた母親と離れるしかなくなってしまうのだが、それはある意味では仕方のないことだったのだろう。現実世界での彼らの生活はもはや限界に達してしまっていて、ファンタジーの力を借りても、その枠に収まらなくなってしまっていたということだったのかもしれない。
 映画はこのあと大きく時間を飛び越え、すっかり成長したマチルドが、病院で安定を取り戻したように見える母親を訪ねるシーンを描き出している。かつての母と娘が、ほとんど八方塞がりの迷路で立ち往生していたことを考えると、現在の彼らはすっかり新しいステージに進み出たように見える。病院の庭で花の世話をする母親と、それを手伝うマチルドとの間にはほとんど会話はないが、二人の気持ちが静かに通じ合っているのが見て取れた。折から降り出したにわか雨に濡れながら、二人が自己流のダンスを踊り合うシーンは良かった。ああ、マチルドは母親の呪縛を脱したのだなと理解できた。それでいながら、彼らはしっかりとつながっていることが判った。
 監督・脚本のノエミ・ルヴォウスキーは、みずからがマチルドの母として出演している。その演技力と存在感は見事なものだった。9歳のマチルドを演じたリュス・ロドリゲスという少女も、映画初出演とは思えない非常に印象的な演技を見せていたと思う。単に可愛いだけでなく、周囲をしっかり見詰めようとする意志の強さを感じさせて良かった。
(新宿シネマカリテ、1月15日)
# by krmtdir90 | 2019-01-24 21:56 | 本と映画 | Comments(0)


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