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主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
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映画「判決、ふたつの希望」

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 これは予想外の「大当たり」だった。裁判ものらしいし、地味な映画だろうと予想していたが、実に見応えのある骨太なエンターテインメントになっていたのに驚いた。
 レバノン映画(フランスとの合作)というのは初めてだった。レバノンの複雑な社会状況が反映された映画で、始めのうち若干判りにくいところもあったが、映画そのものがそれを自然に学ばせてくれるような展開になっていて、レバノンのことを何も知らなかったわたしも、見終わっていろいろなことを知ることができたように思った。これはかなり凄いことである。

 レバノンの首都ベイルートの工事現場で小さな諍い(口喧嘩)が起こる。当事者の2人、違法建築の補修工事をしていた現場監督のヤーセル(カメル・エル=バシャ)はイスラエルから来た難民(イスラム教スンニ派)のパレスチナ人、その建物の2階に住むトニー(アデル・カラム)はレバノン軍団という右派政党(キリスト教マロン派)を熱狂的に支持するレバノン人である。映画は、小さな自動車修理工場を営むトニーの方に若干ウエイトを置きながら、ことの成り行きを描いていく。
 諍いの背景には、レバノンにおけるパレスチナ難民の微妙な立場が関係しており、レバノン人トニーはかねてよりパレスチナ人の増加に反感を抱いていたという設定である。上司の説得で不本意ながら謝罪に訪れたパレスチナ人ヤーセルに対し、トニーがみずからの正義を譲らず強い言葉で罵ったため、怒ったヤーセルが暴力に訴えてトニーを負傷させてしまう。その結果、トニーの告訴で争いは裁判に持ち込まれることになり、彼らの背景をなす宗教や出自、さらには歴史的経緯や政治的立場などがからんだ大騒動にまで発展してしまうという物語である。

 レバノンは、調べれば調べるほど複雑な内情を持った国だというのが判った。それは、この国が中東では珍しい多民族・多宗教国家であることから発したもののようだ。宗教的にはイスラム教各派・キリスト教各派など合わせて18宗派が乱立し、加えて様々な民族を背景とした政治的勢力が消長を繰り返し、さらにパレスチナ解放機構(PLO)やヒズボラ(イスラム教シーア派)といった過激派組織、イスラエルやシリアといった近隣諸国の思惑などが複雑にからみ合い、激しい紛争や内戦(1975~90年)が延々と続いてきたということらしい。
 諍いの当事者2人もこうした歴史に翻弄されてきた人物であり、そのことが裁判の進行とともに次第に明らかになってくる。現在のレバノンには、過去の様々な経緯や対立の残滓がまだ至るところに残っていて、何かきっかけがあればそれが一気に吹き出すような危うさが隠れていたのである。裁判のニュースが報道されると、それがレバノン人とパレスチナ人の根深い対立に火を点け、衝突や暴動が各所で勃発する不穏な事態に発展していく。2人はもちろん、彼らの弁護士も引くに引けない状況となっていく中で、映画は一回目の判決、さらに控訴審の判決までを、すべてを真正面から堂々と描き切って見せるのである。「真正面から堂々と」というのが、レバノンにおいてどんなに困難なことかは容易に想像される気がした。

 種々の対立が現実のものとして存在している以上、どのような判決もすべての人を納得させるものとはなり得ない。映画の結末も同じことで、レバノンの現況を考えれば、この映画が越えなければならないハードルは恐ろしく高いのではないかと思われた。映画に引き込まれるにつれて、この監督(ジアド・ドゥエイリ)はこの映画をどう着地させるつもりなのかと心配になった。どんな解決も想像できない状況が見えているのである。そもそも、両者が納得することなど決してあり得ないような設定なのである。
 それでも、いや、それだからこそ、この映画を作らなければならないと考えたレバノン人ドゥエイリ監督の思いはしっかりと伝わってきたように思う。
 下された判決は2対1で、被告人ヤーセルを無罪とするものだった。だが、そこに至る弁護人や裁判長の応酬から、2人がこれまでたどって来た苦難の半生が明るみに出され(レバノン国民なら誰も忘れていない、だが忘れたいと思っているのかもしれない出来事が幾つか掘り起こされる)、対立の背景に横たわる一筋縄ではいかないレバノンの不幸な現実が見えてきたのである。どんなに辛い思い出だったとしても、そこまで遡らなければ何も始まらない(前へは進めない)とドゥエイリ監督は言っているのである。

 この映画は、終盤に近い二つのシーンで、2人の間に生まれた小さな変化を捉えている。それはどういう意味を持っていたのか。その描き方は、普通一般にイメージされるような和解のかたちを取ってはいない。だが、それは確かに希望の萌芽を感じさせる印象的なシーンになっていた。
 一つ目は、裁判所を出た2人が互いを意識しながらそっぽを向き、それぞれの車に乗って帰ろうとしたシーン。トニーの車が出て行った後、ヤーセルの車がエンストを起こしてしまう。ボンネットを開け途方に暮れるヤーセルの姿をバックミラーで見たトニーは、戻って行って修理してやるのである。自動車修理工として放っておけなかっただけで、おまえを許しているわけではないという雰囲気を精一杯漂わせながら、彼は終始硬い表情のまま去って行く。
 二つ目は、控訴審の大詰めが近いある夜、法廷でそれぞれの出自や決定的な過去が明らかになった後のこと、トニーの修理工場を訪ねたヤーセルが、何を思ったか突然激しい言葉でトニーを罵り出し、怒ったトニーが彼を殴ってしまうシーン。ヤーセルは告訴の原因となった暴力の時とは逆の状況を意図的に作り出し、その後で短く謝罪するのである。この前はおまえの痛罵に怒って俺は暴力を振るったが、今度は俺の罵倒に怒っておまえが暴力に訴えた。これで「あいこ」だとヤーセルは言いたかったのかもしれない。
 彼ら2人は結局、最後まで普通に言葉を交わし合うことはない。だが、お互いに相手を憎み、相手を全否定する言葉を投げつけたりすることからは、憎悪の連鎖以外に何も生まれないとドゥエイリ監督は言っているように思えた。

 そのことは決して声高に主張されていたわけではないし、上の二つのシーンでも、監督はむしろ実に控え目に短時間でサラリと描写していたと思う。少しでも情緒に訴える描き方をしてしまったら、そんな甘っちょろい展開はあり得ないという気分になってしまっただろう。裁判のシーンなどに見られたこの監督のダイナミックな演出力は、一方で、地にしっかり足をつけて対象を見詰める謙虚な感性に支えられていたことが判るのである。
 2人を担当した弁護士を、正反対の立場に立つ父と娘と設定したことは、やや作為的なきらいはあるもののよく生きていたと思った。レバノンの複雑な国情を考えれば、父娘が同じ弁護士の道に進んだとしても、まったく異なる考えや政治的立場を取ることも珍しいことではないのだろう。この2人の場合も、安易な和解の道は閉ざされているのであり、控訴審の判決後にも2人はわずかに視線を交差させるだけで、その場で言葉を交わすことはないのである。
 実際、レバノンの国民は様々なかたちで分断されているのであって、それは裁判官(3人制を取っていたようだが)とて同じだったと考えられるのである。自らの背景や立ち位置は三者三様だっただろうし、それに照らして一方に傾いた判決を下すことも、ないとは言えないのが現実だったのかもしれない。ヤーセル無罪の判決結果は、たまたまヤーセル側が2人、トニー側が1人だったということに過ぎなかったのかもしれない。

 だが、だからこそドゥエイリ監督は、これら登場人物の些細な表情の変化も見逃すまいとしているように見えた。そんなことは映画のどこでも言ってはいないが、対立や違いを超えて一人一人の人間というところに下りて行けば、そこに思いがけない希望の萌芽を見出せるのではないか。
 この映画で監督は、トニーの妻ハンナ(リタ・ハーエク)を身重と設定し、今回の一連の経過の中で彼女が早産し赤子が危険な状態の陥る展開を用意している。彼女は夫の性向を理解しているが、その過激さについて行けない気分も抱えていた。だが、自分と赤子がこうした事態になってしまったことについて、すべてがヤーセルのせいだと憎しみを募らせる夫に対し、自分にもまったく同じ思いが湧き上がるのを意識しつつ、それが何の解決ももたらすものではないことも判っているのである。赤子の無事を祈る思いでまったく重なり合う2人は、それぞれの憎しみと、その憎しみの空しさをも自然に理解し合っていたように見えた。保育器の中の赤子をともに見詰めながら、彼らには赤子が助かってくれることだけが重要なのであって、そのことの前ではどんな憎悪も無意味なものになってしまうことは、確かに受け止められていたように思われた。
(シネマート新宿、10月7日)
# by krmtdir90 | 2018-10-09 14:50 | 本と映画 | Comments(0)

映画「クワイエット・プレイス」

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 全米で大ヒットというので見に行ったが、この映画は「ハズレ」だった。書きたいこともあまりないが、一応記録だから書いておく。

 視覚を持たず、音に反応して人間を襲うクリーチャーによって、すでに人類の大半が死滅した終末世界というのが設定である。この設定の下で、人里離れた農場の一軒家に、音を立てないようにして生き延びている家族がいる。映画は他の要素にはまったく目を向けず、この家族を描くことだけに注力している。恐らく、低予算で必然的に選択された道だったと思うが、その範囲でそれなりに頑張っていたとは言えるのかもしれない。
 だが、とすぐに言いたくなってしまうのが、この映画のダメなところである。アイディアとしては面白いと思うが、現実の世界には様々な音が溢れているのであって、その中でどういう音がタブーなのかという線引きが、あまりはっきりしていなかったように思えた。どうやら自然界の音は問題ではないらしく、一応は人間の声や人間が立てた物音に限定されていたようだが、物音全般を見れば、それが人工的なものかそうでないかは明確に区別することなどできないものだろう。この種の曖昧さがこの映画ではあちこちに散見され(一々指摘はしないが)、観客が映画の中に入り込むことを妨げていたように思う。当然、映画を作っている側や登場人物たちにはその線は見えていたのかもしれないが、それが観客に共有されなければ、スリルもサスペンスも通り一遍のものにしかならないということである。
 この映画は「サバイバルホラー」という売り方をしていたようだが、一方で、危機に瀕した家族が互いに絆を確認し合い、その中で子どもたちが成長していく物語という側面があったと思う。それはかまわないのだが、一つのクライマックスとなる父親の自己犠牲というのは、いかにも取って付けた感じがして少々シラけてしまった。クリーチャーは視覚がないのだから、父親が声を上げなくても、他に気を逸らせる方策はあったのではないかと思えてしまった。この映画は総じて、危機をクリアしていく部分の持って行き方が安易で、ストーリーが都合良く進み過ぎているところが目についたと思う。

 まあ、「ハズレ」と感じた映画についていろいろ書いてもつまらないので、このくらいにしておく。映画選びはしっかりやらなければいけないと思った。
(立川シネマシティ2、10月5日)

# by krmtdir90 | 2018-10-08 23:59 | 本と映画 | Comments(0)

映画「純平、考え直せ」

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 奥田英朗(ひでお)の同名小説の映画化だったようだ。彼が直木賞を取ったのは2004年上半期だが、それ以前に何度も候補に挙がりながら受賞を逃していた時期があって、その頃はけっこう読んでいた記憶がある(もうすっかり忘れてしまったが)。この「純平、考え直せ」は2011年に刊行されたようで、この頃にはもう彼の小説を追いかける気はなくなってしまっていたので、今回の映画も奥田英朗だから見に行ったということではない。
 面白い題名だなと思ったのが最初で、この純平というのが新宿・歌舞伎町でチンピラヤクザをやっている男だというのを知って、ちょっと見てみたくなったのである。

 組の下っ端として雑用などに追われていた純平(野村周平)は、ある日、対立する組の幹部を取って来い(殺して来い)と命じられてしまう。いわゆる「鉄砲玉」である。任侠の世界に一途に憧れる純平は、「これで一人前の男になれる」と勇み立つ。その決行までの3日間を描いたのがこの映画だった。帰りに本屋(ジュンク堂)で原作の文庫本をパラパラ見てみたが、小説の方もほぼ同じような内容で、これは原作のかなり忠実な映画化になっていたようだ(監督:森岡利行)。
 純平は何十万かの支度金と拳銃を渡され、高揚した気分になって夜の歌舞伎町で遊ぶのだが、ひょんな経緯から加奈という女の子(柳ゆり菜)と知り合って一夜を共にする。さらにいろんな経緯があって、彼は彼女と離れられなくなって(簡単に言えば、恋に落ちて)しまうのである。この映画は一言で言えば、刹那的で危なっかしいばかりの若い二人の「純愛物語」だった。

 「純平、考え直せ」という題名は、鉄砲玉になって突っ込んで行こうとする純平に対して、「考え直せ」と呼びかける者がいたということである。だが、それは展開上、必ずしも加奈ということにはなっていないのが面白かった。もちろん彼女も、最後には「一緒に逃げよう」と純平に迫るのだが、彼に「考え直した方がいいんじゃないの」と呼びかける声はもっと他から出ていたのだ。その声は加奈に向かっても「純平を止めなくちゃ」と呼びかけたりするのである。
 これが、加奈とSNSの掲示板でつながった、幾人もの見知らぬ他人の声だったというのが新鮮である。最初の夜に純平がイキがって「鉄砲玉になる」と口走ってしまったのを、加奈が軽い気持ちで「鉄砲玉だって」と書き込んでしまったことが始まりだった。最初は「冗談だろ」と取り合わなかったネット上の友人?たちが、その後の加奈の書き込みから次第に面白半分の盛り上がりを見せ始め、無関心から賛否両論、さらにおせっかいや嘲笑などもとり混ぜて、どんどんエスカレートしていくところが興味深い。その書き込みはさらに、加奈がつい成り行きで純平の名前や歌舞伎町という地名を書き込んでしまったことで頂点に達する。

 小説がこのあたりをどう描いていたのか判らないが、映画はこれらハンドルネームだけで発言する匿名の声の主たちの姿を、実際の映像として短く挿入して見せるのである。そこには、年齢も性別も住む世界もまったく違った一人一人の姿があって、思い通りにならない彼らの生活や、絶望や寂しさや憤懣といったものに満ちた辛い現実が見え隠れしているのである。彼らの中には、パズルのように特定された純平を探し出し、彼の破滅を止めなければならないという思いから、実際に歌舞伎町に向かう者さえ出てくることになる(もちろん、彼らが純平と出会うことはないのだけれど)。
 この展開というのはまったく思いがけないもので、もちろん純平と加奈の3日間というのが映画のメインストーリーなのは揺るがないのだが、その端々に挿入されるこのネット上の声の数々が、2人が追い込まれた状況の切迫をいっそう強調するように働いていたと思う。それだけでなく、声を発している見知らぬ者たちの様々な背景が、きわめて「生きにくさ」に満ちたものであることがうかがえて、それが純平たちがこれから辿るであろう運命と響き合っているようにも感じられ、妙にリアリティのある展開に見えてきて面白かった。

 だが、「考え直せ」という声に対して、純平が考え直してしまったら彼は男になれないわけだし、この題名も成立しなくなってしまうだろう。彼は絶対に考え直すことがないからこの映画が成立しているのであって、純平の行き着く先は見えているということなのである。
 結局3日目の深夜、純平は標的の組幹部に銃口を向ける。映画は、彼の拳銃が発射された瞬間までは捉えているが、弾が命中したかどうかまでは描かない。だが、その直前に、振り返った幹部の両脇を固めていたガードの銃口が、ピタリと純平に向けられていたことをはっきりと映し出していた。純平が役目を果たせたかどうかは不明だが、彼が射殺されたことだけは明らかであるように思われた。残念ながら、九分九厘それは間違いないという終わり方になっていたと思う。
 ラストシーンで、彼の帰りを待っていた加奈の許に、幻の純平が現れて抱擁を交わすというショットを挿入したのは余計だった気がした。幻が消えた後の加奈の放心したような表情が印象的だったので、余計なことはしないでそのアップだけで終わった方が、わたしの好みには合っていたように思った。
(立川シネマシティ1、10月3日)
# by krmtdir90 | 2018-10-05 10:46 | 本と映画 | Comments(0)

映画「きみの鳥はうたえる」

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 チラシの惹句に「きらめきに満ちた、かけがえのないときを描く、青春映画の傑作」とある。「青春映画」という括り方は、現代のような多様性が求められる時代には、ほとんど意味のない括りになってしまったように思える。だが、この映画がまさに「青春」と呼ぶしかない「とき」を、映画でしか出来ないやり方で鮮やかに写し取っていたのは確かなことだったと思う。再び惹句に従えば、それは「この夏が、いつまでも続くような気がした」という、後から思えばいつ壊れても不思議ではなかった幸福な時間の経過である。
 「この夏が…」は、恐らく佐藤泰志の原作にある一節ではないかと推測するが(わたしは読んでいないから断定は出来ない)、主人公3人がまさにそうした気分で過ごした短い夏を、映画はあくまで淡々とした語り口で追っていくのである。そう、この映画は出来事を描くというより、出来事と出来事の隙間にある何でもないような時間を映し出すことに力点を置いているように見えた。それは無為の時間と言ってもよく、そこにあるのは説明ではなく気分であり、ちょっとした仕草や視線の揺らぎなどが醸し出す気配や雰囲気のようなものだった。そうしたものを丁寧にすくい上げることで、映画は主人公たちの時間をすべて埋めてしまおうとしているように感じられた。

 その結果、具体的なディテールとしてはまったく異なっているのだが、同様の時間を、確かにわたしも過去に送っていたことがあると思い出させられる気がした。ああ、こんなことがあったなという漠然とした既視感のようなもの。こんなバカをやってたなという親しみに満ちた共感のようなものである。そういう意味で、この映画には少なからぬ身近な実感が散りばめられていたし、懐かしい手ざわりを持った「青春映画の傑作」と言っていいように思った。
 原作が発表されたのは1981年だったというから、原作が描いていたのは1970年代の「青春」(舞台は東京だったようだ)である。そのことがわたしの親近感につながった要因かもしれないが、映画はこれを現代の函館に移し替えて描いていた。だが、原作の持つ「心臓」(監督:三宅唱の言葉)を大切に保持しようとしたことで、映画はきわめて普遍性のある物語としてそれを描き出すことに成功していたと思った。恐らく、これは誰でもが過去に通ってきた時間だったのだ。
 主人公たちを演じた柄本佑(僕)・染谷将太(静雄)・石橋静河(佐知子)の3人は、「演じた」と言うより「生きた」と言った方がいいようなやり方で、映画の中に存在させられていたように思う。そうした撮り方をしたのは三宅唱監督なのだが、恐らくドキュメンタリーと言ってもいいような徹底したカメラの回し方をしたのではないかと感じた。結果的に、あまり見たこともないようなみずみずしい瞬間がたくさん捉えられていたように思う。それを見ているだけで、終始ワクワクさせられ豊かな気分にさせられた映画だった。

 もちろん現実との接点は三者三様にあって、それはなかなか思い通りにならない厳しいものであることは描かれていた。だが、映画の主眼はそちらを描くことにはなく、現実とは遊離した彼らの楽しげな時間の方に寄り添い続けるのである。
 たとえば、飲み明かした夜明けの舗道で(路面電車の線路があるのが印象的だ)、僕と静雄が店先に忘れられた開店祝いの花籠を盗み出そうとするシーン。またたとえば、3人で買い物に行ったコンビニから、一本しかないビニール傘で雨に濡れながら帰ろうとするシーン。傘を持った僕がふざけて急に立ち止まったり、急に走り出したりして2人が後を追ったりする。じゃれ合うようなこの無軌道で楽しい気分には、確かに覚えがあると感じた。
 3人で酒を飲んだり、ビリヤードや卓球をしたり、踊りに行ったりカラオケを歌ったりする。もちろん、そういうことに特段の意味などない。しかし、そういう時間が「いつまでも続くよう」に思えたのは事実なのだ。そうでないことは誰でも知っていることだったが、誰もそれを認めたくなかったし、その事実からは目を背けていたかったのかもしれない。確か、佐知子がどこかで「若さって、なくなっちゃうものなのかな」というセリフを言っていたと思うが、そんな判り切ったことさえ無縁であるような時間もまた存在していたのである。

 この主人公たちは、男2人に女1人という、いままで映画の中で何度となく見てきた微妙なトライアングルなのだった。だが、その関係に関する彼らの内面を、この映画もまた踏み込んで描こうとはしていないように見えた。それが成立している時間は確かにあったのだし、それが概ね楽しい時間であったのも確かなことだったのだから、内部の揺らぎに手を突っ込む必要はないと考えていたのかもしれない。だが、彼らが近いうちに現実世界に絡め取られていくしかないように、この関係も次第に変化し、終わりを迎えることを避けることはできないのである。
 「突然炎のごとく」や「明日に向かって撃て」や「冒険者たち」のように、誰かが死ぬのでなければ関係の終わりが具体的なかたちとなるしかない。この映画は彼らがこの先どうなっていくのかは描こうとしないが、それはまた別の物語になるということなのかもしれない。
 このラストシーンは唐突だったが、ここで映画が終わることには違和感は感じなかった。あのまま僕がカッコつけて去ってしまったら嘘になってしまったと思うが、いままで終始物憂げにダラダラとしか歩いていなかった彼が、何かに弾かれたように必死に佐知子を追ったことで、すべてが鮮明になるエンディングとして収束したと思う。誰も死なないのであれば、トライアングルは最後にはこうなるしかなかったということなのだろう。たぶん、佐知子はこのあと立ち去るような気がしたが、僕がそれをさらにカッコ悪く追って行ったかどうかは判らない。原作がどういう終わり方をしていたのか、ちょっと知りたい気持ちになってしまった。

 この映画のタイトルには、佐藤泰志のあの角張った癖のある字が縦書きのまま使われていて、去年の夏だったか、函館市文学館で初めて彼の自筆原稿を見た時のことを思い出した。たぶん、彼の原稿の文字をそのまま使ったものだったのだろう。
 函館にまた行きたくなった。観光地的な部分をまったく映していなかったが、映画の街のたたずまいや空気感は紛れもなく函館のものだと感じた。今度行ったら、シネマアイリスという映画館(五稜郭の近くらしい)にも是非行ってみたいと思った(館主の菅原和博氏が函館を舞台とした佐藤泰志作品の映画化をプロデュースし、この映画ははその4作目になるということだった)。
(新宿武蔵野館、10月2日)
# by krmtdir90 | 2018-10-04 16:07 | 本と映画 | Comments(0)

高校演劇2018・埼玉県西部A地区秋季発表会(2018.9.22~23)

 発表会があったのは一週間以上前である。上演された7校の舞台をすべて見させていただいたのだから、いままでなら礼儀として数日中のうちに感想を掲載してきたところである。だが、今回はいろいろ考えてしまうことがあって、中国旅行記を理由にきょうまで延び延びにしてしまった。旅行記も終わったので、もう書かなければならないだろう。

 まず講評というものについてである。今回西部Aでメインの審査員をされたのは高校演劇サミットの林成彦氏で、今年から事務局長に就任したMさんが強く推して実現した人選だったようだ。その講評を聞いて、わたしは非常に勉強になったと率直に思っている。Mさんの意図も理解できたと思う。わたしには出来なかったことだが、こういうふうに具体的に言ってもらえて、励ましてもらえたら生徒は元気が出るだろうなと思った。褒め上手というか、こんなところにスポットを当てればいいのかと、感心させられるところがたくさんあった。
 講評の中身はどの学校に対しても、最初の8~9割が褒め言葉で、残り1~2割が問題点の指摘という構成になっていた。そういう割合で話すこと自体は、その人なりの考えがあるのだからかまわないと思うが、わたしにはどうしても、問題点を指摘する部分がやや気を遣い過ぎのように思えて仕方がなかったのである。これだけ上手に褒められるのだから、もう少しストレートな言い方をしてもバランスは取れるのではないかと感じてしまった。
 どういう点を問題と考えるのかというところは、相手にきちんと伝わるように論理的に言わなければならないものなのではないか。それをちょっとした気付きのように言ったり、軽い提案のように言ったりするのでは、評価の核心部分が生徒に伝わらないような気がしたのである。いいところはいいと取り上げてやるのはとても大事なことだけれど、ダメなところはダメとストレートに言ってやることも必要なことなのではないか。もちろん言い方を考えなければいけないことは判るつもりだが、そこのところに関する物足りなさは、林氏の講評が終わった後もずっとわたしの中に残り続けているのである。
 わたしはもう審査員を引退させてもらったから、いまさら振り返ってみても仕方がないかもしれないが、わたしはいつも8~9割を問題点の指摘に当てていたような気がする。講評時間が短い時はほとんど問題点の話だけで終わってしまうこともあったと思う。わたしに中には、審査員というのは推薦校を選ぶのではなくて、それ以外の学校を落とすものなのだという思いが抜き難くあったのだと思う。だから、落とす学校にその理由をきちんと伝えなければならないという気持ちが勝ってしまい、褒めることが疎かになっていたことは認めないわけにはいかない。
 そんなことはあり得ないが、もしわたしがもう一度審査員をやることがあれば、もう少し褒めることを大切にするかもしれないとは思った。それでも、わたしの基本的な考えはたぶん変わらないし、変えようがないものだと思ったのである。

 こんなことを考えてしまったのは、朝霞西がやった鴻上尚史の舞台(「恋愛戯曲」)が関係している。この舞台は最初から最後まで暗転の連続で、鴻上の本をやる時に絶対にやってはいけないことをやってしまった舞台だった。林氏もこの点には最後に触れていたが、それは考えてみた方がいいかもしれないねといった程度の(言い方を正確に覚えているわけではないが)、優しい指摘にしかわたしには聞こえなかったのである。どんなに役者が上手かったとしても、ここが論旨の中心に来なければ講評としてはおかしかったのではないか。
 新座総合技術の生徒創作(「EMMA」)についても同様の感想を持った。創作に挑戦したいと思った生徒の気持ちは大切かもしれないが、物語として成立していないことはきちんと言ってやらなければいけなかったのではないか。それは顧問を含めたオトナの責任であり、林氏の講評はその点を意識的に外している(或いはぼかしている)としか思えなかったのである。
 退職からもう十年以上が経過してしまったのだが、わたしは西部A地区に13年お世話になった。昔は良かったという話が見苦しいのは承知しているが、あの頃は終演後の飲み会で顧問同士が終わった芝居を俎上に上げ、ああでもないこうでもないとやり合うのが普通だった。少なくとも、核心に触れない傷の舐め合いだけはしたくないとみんなが思っていた。暗転の連続も物語の破綻も、遠慮して当たり障りのないことしか言わない審査員の前で、自分のところは棚に上げて厳しく指摘し合っていただろうと思う。納得できない講評をした審査員に噛み付いたこともあった。
 メンバーが替わり時代が変われば、地区の雰囲気や審査員に求められるものも変わっていくのが当然である。だが、いまの風潮が地区や全体の底上げにつながっているようには、どうしても思えないということなのである。わたしはもう過去の人間だと自覚しているが、批判に耐えられず感情的な反撥を返してくる顧問の存在とか(一人や二人ではなかった)、生徒受けする言葉を並べるだけの講評では(林氏のことを言っているのではない)不十分であることは言っておかなければならないと思う。林氏の、8~9割が褒め言葉というのがそこだけ一人歩きをして、これからの講評のスタンダードになるのだとしたら、それは決定的な誤りだということは指摘しておきたい。

 すでに地区の顧問集団とは別のところにいるのだし、大会などでお互いに助け合うという共通の基盤は失われているのだから、いつまでも昔のような厳しい感想を書き続けるのはやめるべきだと思うようになった。遠慮した方がいいなと感じさせてしまうのは、その集団の方に問題があるのも確かなことだと思っているが、過去の人間はそれを批判するより自分を省みた方が生産的である。年を取ってから、いっそう生産的なことをしたいという願望は強くなっていると思う。

 西部Aを含む埼玉Aブロックの最終結果が30日の夜に出て、新座柳瀬「Ernest!?」)が県大会に駒を進めたのは(玉城デニーが沖縄県知事に当選したのと合わせて)とても嬉しいことだった。だが、正直に言うと、わたしはこの舞台をそんなにいいとは思わなかったのである。もちろん役者の力量とか芝居の上手さとかは抜きん出ていたし、選考の結果は(西部Aしか見ていないのだから、あくまでその中だけのこととして言うのだが)まったく妥当なものだったと思っている。だが、稲葉智巳をずっと見続けてきた者としては、今回の舞台には不満を感じるところもけっこうあったということなのである。
 これまではたいてい、終演後にそれを直に言うチャンスがあったのだが、今回はそれがなかったので、さてどうしたものかと悩んでいる。まあ、いろいろなことに配慮して、今回ここではあまり踏み込んで言うのはやめておいた方がいいだろうという結論になった(と言いながら、結局かなり言っちゃうんですけどね)。
 実は、今回の舞台を見た後で、手許にあった2015年にコピスで上演した時の「Ernest!」(この時は?はついていない)の台本を読み直してみたのである。今回の台本が、ストーリーの展開として非常にバランスが悪いと感じたからである。後半にいろいろなことが集中し過ぎているのではないか。わたしはもともと物覚えが悪く、3年前のことなどほとんど忘れてしまっていたのだが、この台本を読んで鮮明に甦ってくるものがあった。「Love&Chance!」より前だったが、これは稲葉智巳としてはすごく良く書けた台本だったのではないか。それがもう一度確認できたように思う。
 今回の台本では、非常に重要な役回りであったフレディーという役が欠けていたのが大きかった。人数の関係からそれで書き直すしかなかったのだろうが、わたしの印象はすべてそこから発したものだったことが理解された。今回の台本が手許にないから細かい比較はできないが、フレディーによって絶妙に転がされていたストーリーが、きわめて不自由なかたちで進んで行くしかなくなってしまっていたのだと思う。今回はフレディーなしで行こうと決めたのだから、いま前の台本を持ち出すことにはほとんど意味がないが、フレディーが絡むことで様々な設定が少しずつ開示されていた前の台本の自然さが、今回はややギクシャクしてしまった感は否めなかったのではないだろうか。
 あともう一つ、ギャグや役者の作り方に、いままでの稲葉智巳なら注意深く避けていたはずの、「物欲しげなあざとさ」が見え隠れしている部分があったように感じた。3年前にはなかった「オンリーユー」の音楽と照明を使った繰り返しなどは、決して好ましい方向とは思えなかったのである。ウケ狙いの意図が透けてしまうだけで、そこでストーリーや役者の気持ちが途切れてしまっていたと思う。たぶんハンカチのギャグあたりまでが許容範囲なのであって、笑いを無理矢理取りに行っていると感じられてしまうのは作品にとって逆効果だし、何より稲葉作品の美点であった品を損ねてしまうような気がした。
 指摘したいことはもう少しあるのだが、どうしても3年前の舞台と比較したくなってしまうので、まだ県大もあることだし、こうした場ではこのくらいまでで留めておきたいと思う。いい原作を掘り当てたのだから、県大ではぜひ「Love&Chance!」と並ぶ(超える)舞台を見せてほしいと期待している。

 あとは、今回気になった学校について簡単に触れておく。細田学園「スイッチを押すとき」)は原作のある生徒創作だったが、生徒創作にありがちな説明過多に陥らなかったのは(審査員も言っていたが)良かったと思う。どういう舞台にしたいのかも伝わってきた。ただ、役者が全体的に元気がなく、(高校演劇にありがちな)声を張り上げればいいというのではないが、もうちょっと声を大きくして、セリフに変化がつけられるようになったらずっと良くなるだろうと思った。
 今回の上演の中で、朝霞の舞台(「蜉蝣の記」)にはいつになく好感を持った。既成だったようだが、思わせぶりなところが多くてやりにくい台本だったと思うが、きわめて繊細に(ちょっと褒め過ぎか?)台本の世界を作り出していたと思う。役者が変な色気を出さず、終始淡々と演じていたのが(この台本と合っていて)印象的だった。朝霞は時々やり過ぎてしまうのが困ったものだと思っていたが、今回の舞台作りの方向性は安心して見ていることができて良かった。上記2校、さらなる精進を期待したい。
# by krmtdir90 | 2018-10-02 10:18 | 高校演劇、その他の演劇 | Comments(4)


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